科学捜査と研究不正
ーm/z258ロンダリングとは?その基本的解説ー
---------------------------------------------------------------------------------------------------------
要約
本調査の背景と目的:先般の降圧剤臨床研究不正事件(いわゆるディオバン事件)では,検察官が科学研究の妥当性を検討した結果,研究不正が明らかとなり,判決でも研究不正が認定された.一方最高裁判所は検察官にも科学的証拠認定能力を求めている.しかし,検察官に対する系統的な科学教育はこれまで一切行われてこなかった.本調査の目的は,このような現況を鑑み,一般の科学研究よりもさらに厳密な科学的妥当性を求められる科学捜査鑑定に対する,検察官の証拠認定能力を検証することにある.
結果:いわゆる北陵クリニック事件で,大阪府警科捜研吏員(当時)土橋均氏が行ったベクロニウム質量分析(以下,土橋鑑定)と,それ以後に土橋氏が行ったベクロニウム質量分析研究,及び弁護団の依頼により志田保夫博士が行った志田鑑定を調査し比較検討したところ,以下の事実が判明した.
1.土橋氏は志田鑑定と同じ結果を得ていた:土橋は志田鑑定と同様に,世界標準のベクロニウム質量分析と同じ実験データを得て、2011年に学会誌に研究論文として発表していた.
2.土橋鑑定は捏造と認定されるレベルだった:2011年に発表された上記の土橋論文と志田鑑定のいずれにおいても,研究不正防止指針に基づいて適切な実験が行われていた.一方で2001年初頭に行われた土橋鑑定は,1)実験データ,2)再現性,3)実験試料の存在証明の全てが欠如していた。つまり,研究不正防止指針では直ちに捏造と認定されるレベルにあった.
3.土橋は既に2001年に自分の誤りを認めていた:1,2の結果を踏まえて更に調査を進めたところ,土橋は鑑定半年後の2001年8月の時点で、すでに世界標準のベクロニウム質量分析と同様の実験データを得て,専門学術書に発表していた.
4.検察官には科学的証拠認定能力がなかった:一方,土橋鑑定を検証すべき立場にあるはずの検察官の意見書には1,2,3のいずれの観点からの調査も欠如しており,捏造レベルに過ぎない土橋鑑定を「いささかの揺るぎもない科学的証拠」と認定してきた.
結論: 土橋本人が既に16年前にその誤りを認めていた鑑定が捏造だと認定できなかった検察官には科学的証拠認定能力が欠如していた.それだけでなく,研究不正の何たるかも知らず,研究不正防止指針一つ知らず、基本的な科学文献検索能力さえなかった.鑑定者本人が誤りを認めていたものが,なぜ今日まで「いささかの揺るぎもない科学的証拠」として維持されてきたのか,法曹三者は一致協力してその原因を究明すると共に,この大失態を貴重な教訓として,謙虚な姿勢で科学界との対話を早急に始めねばならない.
---------------------------------------------------------------------------------------------------------
→土橋鑑定の全貌
税金を使った吉本新喜劇
私が「科捜研の“科学なき”科学捜査」を日経メディカルオンライン上で発表してから3年になるが、賛同の意も、抗議の声も、反論も一切聞こえて来ない。至極当然のことが書いてあるのでタイトルだけを見て誰も読まないのだろう。そこで、まずは 法学部卒後20年余り外資系証券マン一筋で、もちろん質量分析の経験など全く無い八田 隆氏の秀逸な解説を御覧頂こう。
科捜研の科学鑑定を餅菓子に適用すると次のようになります。
「この試料とここにある「おはぎ」を鑑定した結果、両方からきな粉が検出されたため、この試料は「おはぎ」と認められる」
弁護団は当然反論します。
「「おはぎ」からはあんこが検出されるべきであって、きな粉が検出された試料は「おはぎ」ではない」
(八田 隆 蟷螂の斧となろうとも 2013/10/03)
こういう議論を延々と繰り返してきて、その度裁判所は、土橋鑑定を「いささかの揺るぎもない科学的証拠」と認定し、弁護団の主張を全面的に否定してきたのである。だから税金を使った吉本新喜劇だというのだよ。こういう裁判が野放しになっているのは会計検査院の怠慢そのものではないか。
実験ノート無しでも「科学的証拠」
臨床研究法の下では刑事司法が研究不正を判断する(ことになっている)。ところが,その刑事司法の判断を左右する科学捜査が「研究不正特区」となっていることは、古畑鑑定や足利事件に象徴されるような冤罪の歴史が証明している。つい最近でも、和歌山カレー事件における砒素の鑑定が虚偽だとして、弁護団が損害賠償を求めて2人の研究者を提訴したことは記憶に新しい.
土橋均氏(当時大阪府警科捜研吏員,現名古屋大学大学院医学系研究科・医学部医学科 法医・生命倫理学招聘教員)によるベクロニウムの質量分析、いわゆる土橋鑑定は、捏造と断定される特徴を全て揃えていた。その事実は一審の段階ですでに検察官から「開示」されていた(関連記事)。
1.ハートマークを書いた実験ノートさえ実在しない。即時抗告審では検察官が意見書で 「実験データなんか知ったことか」と堂々と宣言する始末である.
2.土橋氏自身が鑑定資料を全量消費してしまった。つまり内的再現性がない。さらに世界のどの研究室でも追試ができない.つまり外的にも再現性がない.
3.鑑定資料受け渡し簿が存在しない。つまり検体が実在した証拠もない。
検察官・裁判官を対象にした科学教育プログラムはいまだどこにも存在しない。科学教育同様、彼らに対する職業倫理教育も存在しまない。科学も倫理も知らなければ、科学研究倫理は理解できない。研究倫理が理解できなければ研究不正を認定できるわけがない。最高裁が科学的証拠認定を求めてもクソ食らえ。それが「研究不正特区」の実態である。
天動説が勝利した裁判
「分子量557のベクロニウムを質量分析して検出されるのは、分子イオンであるm/z 557、あるいは2価の分子量関連イオンm/z 279である。 m/z 258は影も形も無い」これは、土橋鑑定の12年前に報告されて以来今日まで28年、質量分析の世界では地動説と同様の水準で、既に確立された科学的事実である。
この科学的事実に沿って、弁護団はpeer reviewジャーナルに掲載された多数の論文と、影浦光義氏(当時 福岡大学法医学教授、日本法医学会
教育研究委員会
法医中毒学ワーキンググループ代表)による鑑定を提出、さらに再審請求審では、土橋氏と同じ方法でベクロニウムを質量分析し、志田保夫氏(当時 東京薬科大学教授)による鑑定も提出した。
一方、土橋氏は「ベクロニウムを質量分析すると紛れもなくm/z 258が出てくる。この結果は世界のどこの研究室でも認められない独創的な実験結果である。なぜなら研究室や機器が違えば質量分析の結果も違うから」と、法廷で天動説を彷彿とさせる信仰を告白(裁判用語では証言)した。裁判ではこの信仰が検察官と裁判官の間で共有される一方、弁護団の主張は全面的に排除され、08年2月、守大助氏を無期懲役とする判決が確定した。
14年2月には確定判決と全く同様の信仰に基づき、仙台地裁(河村俊哉裁判長)は、私のミトコンドリア病の診断とともに、志田鑑定も全面的に否定し、土橋鑑定を「科学的証拠」と再度認定した。
学会では地動説、法廷では天動説を使い分ける驚天動地の二枚舌
土橋氏は現在、名古屋大学大学院医学系研究科・医学部医学科 法医・生命倫理学招聘教員であり、日本法中毒学会の副理事長、日本医用マススペクトル学会の評議員等、専門分野学会の要職にあり、さらに日本学術振興会の科学研究費も数多く獲得している、日本の薬毒物分析の最高権威である。
法医学分野の最高権威による研究不正としては、古畑種基という立派な前例があるが、多くの市民がひたすら権威にひれ伏していた当時と異なり、今は市民も研究不正に対して非常に敏感になっている。
そのような時代の変化を今から16年も前にいち早く感じ取っていたのだろうか、土橋氏は鑑定のわずか半年後の01年8月には、天動説、つまり m/z258は誤りであり、地動説、つまりm/z557とm/z279が正しいと自著で認め
(表中No.7)、以後も地動説に準じた研究結果を論文・専門書として発表してきた(同No.9, 10)(関連記事)。
ところが、地動説への転向はあくまで学術活動だけで、肝心要の裁判所に対しては天動説を主張するという、それこそ驚天動地の二枚舌を土橋氏が今日まで貫徹しているのは前述の通りである。01年8月、鑑定からわずか半年、一審の初公判の僅か1ヶ月後には、検察と裁判所を裏切って、世界標準のベクロニウム質量分析を根拠に土橋鑑定をイカサマだと実証した弁護団に寝返っていたのである。
天動説はm/z258,地動説はm/z557・279を指す
○はベクロニウム由来のイオンとして認めていること,×は認めていないことを示す
No.1はハーバード大学,No.4はチューリヒ大学からの論文.他は土橋氏の業績・証言
*1 実験ノートがないので実験を行った日も不明.01年1月~3月と推測されるのみ
*2書籍の発売は02年5月だが,脱稿期限が01年8月と序文に明記
*3 308ページの表6.6中の前駆イオン[M+H]2+は2価の分子量関連イオンのm/z279を示す
患者・家族も騙した土橋鑑定
幾多の冤罪を生んだ古畑鑑定よりも土橋鑑定が一層罪深いのは、第一に土橋氏が無期懲役に陥れたのは,患者さんを助ける仕事をしていた守大助氏だったこと。第二に病気や薬の副作用、あるいは違法な臨床研究の中で起こった事故で急変した患者さんを助けようとしていた守氏に対し、患者さんや家族の心の中に憎しみの感情を起こさせたこと、第三に患者さんに「ベクロニウム中毒の後遺症」というニセ診断を貼り付けて、適切な診療を受けるの妨害してきたことである。
「m/z258は誤りだった」。土橋氏が01年11月の証言でそう認めていれば、守氏の無実がその場で証明されていただけではない。A子さんも土橋鑑定の嘘から解放され、ミトコンドリア病と診断され、適切な治療を受けることができた。しかし実際には、今日まで16年、そしてこれからも土橋氏が自分の嘘を認めない限り、A子さんは突然死の恐怖の中に放置され続け、家族は守氏を憎み続けることになる。A子さんと同じように、急変時に守氏がその命を守ろうとした他の4人の患者さんと家族も同様である。
こうして自分の鑑定が生み出した不幸な怨念を前にしても、土橋氏は豊富な公的資金を得て研究に邁進するばかりで、心の痛みなんぞ全く感じていないように私には思えてならない。そして、この16年間微動だにしなかった彼の固い決意を常に代弁してきた検察官意見書は、今回もまた「実験ノートなんぞ知ったことか」と高らかに宣言している。
参考→ 土橋鑑定物語(あらすじ) 土橋鑑定に対する調査結果報告書要約,土橋鑑定は土橋自身によって否定されていた,土橋 均氏のプロフィールと業績、土橋鑑定への自爆テロ 科捜研の“科学なき”科学捜査
参考→補充意見書 (2017/4/21提出)
→法的リテラシー