Die Epidemie. Kawabata Hiroto

エピデミック

2007-12-05

角川書店 川端裕人 単行本ISBN 978-4-04-873801-9(絶版)、 文庫ISBN: 978-4043748044(絶版)

出版社: 集英社文庫 (2020/7/17)、ISBN-10: 4087441377、ISBN-13: 978-4087441376から再発売

科学と未科学と非科学の境界を映す鏡としての疫学を紹介する小説であるが、人の心の移ろいを子供とカルトという2つの弱者に投影させ、思い込みと善意の暴走を抑止させる為には理性としての科学が必要性であると説いた作品と捉えるといいであろう。

疫学と猫というとまずは水俣病が口に上る。漁村と猫と奇病というのはその歴史的印象を接いでいる様になる。しかし、今回は食事由来ではなく、空気感染するウイルス性の伝染病である。初動が遅れた場合、ウイルス性伝染病は拡散し易い。それは肝炎訴訟やHIV訴訟の争点でもある。原因を特定する為にも患者背景を調べて疫学的に原因を推定し、早めの対応を行う事が望まれる。治療法が無くても、原因を「物質」として特定出来なくても、解決策が見いだされ得るのが「疫学」である。
封じ込めに成功すると良いが地域や国規模のendemicそれに大陸を超えたpandemicに至るのは避けたい。麻疹でも局所での封じ込めに苦心したものの2007年春に関東を中心に拡散し封じ込めに至らなかった。今回の小説では10日間で原因の特定に至り封じ込めに成功し…ているが、しかし後日談に膨らむかも知れない伏線も用意されている。
肥満や糖尿病の増加が世界規模の流行Pandemicとして顕われているがさて特定の一つの原因があるであるか?それを扱うのも疫学である。その疫学を判り易くビビッドに伝える目的で著者が選んだのは、化学的な食中毒であるイタイイタイ病でも水俣病でもなく、肥満や運動不足という緩慢な要因でもなく、急性発症する新興感染症の局所集積であった。いや、以前の作品である「ニコチアナ」では緩慢な肺癌発症の要因であるタバコを小説の主題として扱っている。この作品を通じて得た疫学に対する感動が今回の小説に結実していると云う。

川端作品に親しんできた旧来の読者はまごつくかも知れない。生と死があっけらかんと乾いて数で扱われる。精々一人の病いが丁寧に扱われてきた川端作品にとってこういう作品もあるのかと驚きが襲うかも知れない。オオカミ山…の様な死が町を覆うのだから。
ふにゅう夏のロケットが王道と思う人には、かなりの違和感に捕われるかも知れない。

一方で、はじまりのうたをさがす旅The S.O.U.P.のようなスピリチュアルな雰囲気を好む向きには受け入れる余地が大きい。科学と非科学の接点や折り合いを探るという事では「竜とわれらの時代」が近いかもしれない。
日本人の個人的体験としてサリンの一件は大きな疵をのこしているだろう、その様な存在が竜と…でも現れるが、今回も狂言回しとして書き記されている。疫学を扱うならこのスピリチュアルさ具合が色眼鏡となって話をマドロッコしくさせて隔靴掻痒となる。
それでも、創作者が描くからには意味を汲み取らないとならない。実は麻疹が流行る前から格闘しているのだが判らない。素朴に思えば、判らない物の象徴として組み込まれているのであろうか。地元民は突然襲った疫病に意味を求め、それこそ生け贄を探す。Ω。あれはあそこだけの物として、隣町は住民が国道を塞ぐ自警団を作る。町の中でも、自分たちにとって捉え難いものに鉾先が向く。カルトとしての対象がこの舞台には2つ用意されているが、より判り難い対象に恨みや恐れ怯えがのしかかって行く。でも、そこも犠牲者であり、大人が皆倒れ、教団で純粋培養されたブルーが取り残されていた。
ブルーは一時期子供が感染源と目されてたため、また親が倒れたりしたため、面倒を見てもらえなくなった子供をまとめ、感染で倒れた家庭を訪れて食事をくばるなどの活動をしていた。観察した事実にたいしては教義に基づいて「死が覆ったあと選ばれた者が復活するという」誤解をしたままとはいえ、合目的的には誤った活動はしておらず、一種のアジールですらあったという場面を描いている。
じつは、感染源(リザーバー)は猫であり、野良猫を保護し餌を与えていた動物保護団体という一見より善意に満ちた集団こそが本当の悪であったというのはまさに喜劇的であった。保護するはずのスタッフが倒れ、引き継ぎの不十分なボランティアが感染した猫を東京に運び、感染を拡大させることになる。
何が科学でなにが正義なのか。権威や善意、思い込みファディズムから「自由に」なり、系統付けられるなかから論理的に導き出せば、真実に至るということを、浮きだたせる照明装置としてスピリチュアルが利用されているのだとは思うが。さて、正解かどうか。
いずれにせよ、善意の暴走という物は怖い。新型インフルエンザでなくても、風説の流布で消費が手控えられるのは、有田のミカン[昭和52年有田コレラ禍から学ぶこと1→4]に北海道米国の牛肉、茨城の干し芋と「政治家が食べてアピール」するしか仕様がないのだが。インフルエンザを巡る脳炎とタミフルとワクチン後遺症のせめぎ合いの様に、子供の犠牲者同士が、他のモダリティーを、別の集団にとっては救済手段であるとしても、ルサンチマンの手段として非難しあう現状を考えるに、やはりカルトのブルーは物語に不可欠な存在なのであろう。Ωが生じない様に新興伝染病を封じ込めるのは骨であり、でも差別や偏見を来さずに人倫と論理に基づいて正義がなされ善が施される事を知らしめるためにも。


203X年の「新しい日常」

2020-06-22  文藝春秋7月号p320

COVID-19が遷延した場合の思考実験である。川端裕人氏のエピデミックの続編ともいえる。清浄居住区と緩衝地区、特別感染対策地区の3つに区分された東京。流行が一息つきこの隙間に家族で遠出をしたら、下道を通過したばかりに、清浄居住区の自宅に帰れなくなった話。介護職で何度か目の疫病の職場感染になり死が迫る母子家庭の話。救いが無いのも想定すべき事態ではある。医療は賎職、階級社会の底辺のもの。これは江戸時代も、身分制度から医師は切り離されていたので、先祖返りと言える。

今回の短編では疫病の有無で階級が可視化されている。しかし、疫病だけで区分されるだろうか?
低いカーストでは教育の機会も社会資本も供給されない。低教育で低い社会資本の提供だから低賃金で労務提供が当然となり使役される。教育の機会に恵まれ、高い収入を得る。「自治体」に資金と意見を提供し、社会資本を充実する。それが再投資され、高い階級が維持される。
自家用車で行楽に出かけた家族も突然の転落が有るだろうし、必死で努力しても報われない家族も居る。
世界中で繰り返されている、合成の誤謬が反映された小説であり、疫病に特定された話でもない。
学校などの小規模集団での自治を謳うと自治が学術的に資本的に不可能な集団は転落する。「コロナは無い、政治の誤った宣伝だ」「ワクチンは毒だ」など小集団は先鋭化する。 先鋭化した場合、知識や常識という社会資本も分断され、さらに世界を脆弱化させる。 所得の再分配だけではなく、一部から合意が得られなくても均てん化されない社会は、手段が民主的で個人の多様性が保たれても、多様な収入や教育水準が営利化されて搾り取られるだけで終わる。
小説に戻ると、老人介護施設は緩衝地帯にある。緩衝地帯は感染機会が多いが、老人も感染機会が多いから合理的だと記載されているが、緩衝地帯の低教育低賃金で固定されている労働者が介護と言う職に縛られているという点では合目的性もある。
現実に戻るとタワーマンションなどジェントリフィケーションを行おうとも、管理人や店員は同じマンションに自分に賃金では住めない。公務員の巡査や消防士は土地に住めない。住めないがゆえに東京消防庁や警視庁を機能させるためには、柏=取手や町田=相模原といった遠距離の通勤者を排除できない。そしてロックダウンは不可能だったのが日本である。

ドイツゲッチンゲン団地SARS2封鎖2020June

[サブマリンBB+の挑戦][算数宇宙の冒険 アリスメトリック!][ギャングエイジ]


RSS2.0 UTF-8