2011-09-25
川端裕人著 イラスト スカイエマ
PHP研究所 H23年7月27日初版 四六判並製 ISBN 978-4-569-79764-9
ギャングエイジには、教科書でよく読まれる教材が織り込まれている。
カエルのピョン、スイミー。
また、朗読では十五少年漂流記も取り上げられている。
汚い言葉を使うと森が汚れるという劇も、ある。これは、水からの伝言の逆だろうか。
部下をきちんと把握している上司も、子どもを全て把握している親も、稀だろうが、舞台になっている学級の担任の日野は、本当に子供を把握していない。
子供は子供、手を取り合って、学校を動かしている。そう思うとこの主人公は本当に児童らの話なのだと、思う。
ただ流されてマトマリのない子どもが授業崩壊を起こすわけでも無いのだろう。シーソーのように乱れが生じても核と成る児童がクラスのマトマリを演出するのが自律反発の筈だ。空気なんて読むなというが、空気も一人で出来るものではない。
主体性がある子供たちが失望してしまえば、まとまりのない空気が出来て、連携もなく流れて出て行ってしまう。
2年の時に、担任の高山先生が好きだった2組の児童らは、何枚も手紙を書いて復帰を願った。でも、そういう努力が実を結ばなかったことで、積極的に歯向かう程で無いにせよ、大人や先生に対して、眉に唾するようになった。そうして授業が崩壊し、崩壊の原因があるのにそれを無視したまま、周囲がそれを加速していった。そのタネの一つは、一人の親の嘘だった。
日野先生は日野先生なりに誠心誠意、学級運営を進めて、子供たちの信頼を取り付けていく。
それでも、子供たちの心の芯の部分は掴めないままで、それは他の教諭も一緒だった。
高山先生帰ってきてください。そういう手紙を掘り出しても、私たちのものです返してくださいといわてしまう。
一人の親が最初についた「嘘」、それはある家庭の育児放棄であった。子供は子供なりに親を庇う、それに温和的に接していた、高山先生は「ぴょん」と飛ばされてしまった。
あかねは、お母さんが大好きだ。お母さんのモデルという仕事を誇りに思っている。そして、家族がみんなで仲良く暮らせるのが「夢」だ。
しかし、留守がちな母の代わりに姉弟の面倒を見ていた祖父は、自力坐位も配膳による自力摂食も、不可能になっている。
3年前にも行政からの介入があったらしいが、その時もやり過ごした。
2年生の時の担任の高山は、苦労しているが家族のあり方をあかねなりに考えている姿勢を、尊重して支えてくれた。
しかし、その介入を邪険に思った、あかねの母は教諭を不適格として、辞めさせる方向に動いた。
あかねのバラバラに成りたくはないという気持ちを汲んでか、高山はあかねに関する事を周囲に漏らさず、職場を離れることになった。
事情を知らない児童らにとっては、保護者と教師の対立で、校長や担任が退く様をみて、教職に対する信用を減じてしまった。
事情を知る児童にとっては、それを顕かにすることは「ギャング」秘密の掟に叛く事になり、いっそう頑なになっていった。
2年生なりの手紙をしたためて、高山が帰ってくることを、願ったがそれも叶わなかったことが、さらに大人たちに対する信頼を損なった。
云っても判らない、出来もしないのに奇麗事を言う。
「ありがとう」というと森の生き物たちが健やかになる。そういう道徳劇を学年主任が脚本演出した。
しかし、それが大きな引き金になった。
去年、あれだけ自分たちが言葉を尽くしたのに、大人は汚い言葉で汚い結末を迎えさせたではないか?
その共鳴が、劇を崩壊させた。
日野は高山と違い、あかねの事に2学期が終わるまで、気がつかないでいた。
しかし、高山と違い、あかねの家庭を知ってからの日野の行動は、手早かった。
理解して共鳴してという手順を経ることなく、いきなり「社会化」した。
「報告・連絡・相談」、小学校だけではなく、あかねの弟の保育園も地域の福祉も巻き込んで、あかねの「想い」に気取られもせず、「鈍い」まま「鉈」のように、「結び目を解いて」しまった。
「良い子」が、学級を不安定にしていた。最初からコドモな子供ではなく、自分の意見を持ってい児童。
高山先生なら、高山先生が、という去年の心の結び目を持っていた子供たちにも、大人がマトモという事を日野が見せてあげて、子供からの信頼をえる契機になり学年は一つになった。
しかし、日野先生は、育児放棄をあばいてしまい、泰然としているというのが、「鈍感力」なのだろう。
その鈍感さは、子供たちの動きを関知し得ない。まことにもって悲劇的である。
校長の不倫?指導力不足の新任担任!という怪文書を巡って、地域が学校に申し入れを行う日に、旧2年2組の児童らが揃って赤い服なり布なりを身につけてくる。そういう自分のクラスの子供の動きを全く知らないのである。学童保育の先生など、それを知っていて、「スイミー」の眼の役を買って出ているのに、マフィアの沈黙の掟かどうか?日野先生は、知らされないままなのだ。
脳天気に自分のことを応援してもらえていると思っている。
不倫云々は、校長が復職の相談を高山先生としていただけなのだ、そして高山先生の復帰に漕ぎ着けた。
そういうことも、3年の他の担任や副校長にも、漏らさない校長も校長だが、嘘に乗じる地域のボス達もトンだ狂言回しだった。
その会に、高山先生が登場する。そこで、他の教員にも高山先生のことと怪文書の誤解が解ける。でも、ここで思い返すのが、外の子供たち、「ギャング」どもは高山先生の登場を知らされていたのではないの?そして高山先生を応援するスイミーでは無かったの?、と、思うと本当に日野先生は不憫である。
しかし、そういう困った連中を糺すのも、地域の力ということを、盛り込んで、最初の嘘と最後の怪文書の「犯人」を更生させるのも同級生の母親というのが、物語の救いだし、「犯人」が半分卒業式に地域の人として参加しているのも、再生なのだろう。
そしてその3年生のお仕舞いの会では、日野先生は1年を世話し、3年は2年のクラスの構成で、2年2組だった児童らは、高山先生に率いられている。その中に、朗読で含まれているのが、十五少年漂流記の一節、「2年の漂流」が終わりを告げた事を象徴する場面である。
やはりここでも感じさせるのは、「本当に主人公が日野先生なのか?」ということである。子供たちがマトマリを取り返したのは、新任の校長が高山先生を復帰させたからというのは、日野先生にとっては喜劇的でもある。著者が云っているのだから間違いはないのだけど、共通一次(死語)で現国の点数が一番悪かったからなぁ、きっと読み間違いなのだろうな。
あかねの母は、ここでも邪険だった。家族が崩壊した自分を棚に上げて、恥を欠かせたと、怪文書の反撃に出た。
それを良いことに、高山の復帰の為に校長が接触すれば「密会」として、ポスティングやファックス送信を行ってしまうのである。
あかねのその事は極めて私的な事であり、他の保護者に理由を説明できる訳ではない。
学年の会合、地域と学校の折衝の場で、また先生たちが倒れてしまわないかと、児童たちが自主的に集まってきた。「スイミーの様に」。
しかし、それも保護者同士が解決してくれた。
「真犯人」である、あかねの母親を会合に引き出して、地域が振り回されている混乱が、あかねの母親に原因があることを自白させたのである。
地域の「偉い」さんたちは、その偽りに振り回されていただけであったことが明らかになり、教師らへの信頼が回復された。
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