(CBT:cognitive behaviour therapy 以下、当分の間工事中で、整理整頓はされていません。ということはどこからどう読んでもいいってことで,それはそれなりに意義のあることです.)
「自分を見捨てろ」という同調圧力
怒りという名の資源ゴミ
我々に出来ることはただ一つ。今日一日を誠実に生きること
目から鱗は自分が素敵
○○についてどう思いますか?
外在化技法
怒りの非効率性
思考停止と正解依存症
障害の使い方
権限委譲で成長する
決断力とやらの素性
成長のサイクル
「なぜ」を受け流す
幻の正答を求めて
「大切なものは、目に見えない」:二つの意味
「わからない」が、なぜ大切なのか?
変えると変わる
結婚の認知行動療法
あなたは神ではない
自分の死の外在化
愛別離苦も認知の歪みか?
自動思考にツッコミを入れる:生物統計学とは何か
患者に助けてもらう
無駄な絶望止めましょう
CBTの副作用?
自分のコントロールできることに集中する
手段の目的化
自己攻撃性の迷彩を見破るには
毎日少しずつ死んでいる
伊藤絵美.「認知行動療法、べてる式。」(医学書院)
”いつまでもデブと思うなよ”は典型的な認知行動療法の書
認知の歪みを捉える秘密
日記・ホームページ・ブログ・外来診療教育,peer reviewとCBT
宗教は伝統的なCBTの一つ
”お迎え”は死の認知行動療法
保健適応下での認知行動療法の問題点
”患者様”と同様に、”お医者様”という呼び名がなぜ問題なのか
笑いは認知行動療法の基本的手法
「自分を見捨てろ」という同調圧力
この種の狂った同調圧力は、しばしば例の内なる審判員から出てくる。あなたに向かって「反省しろ」「お前は駄目な奴だ」と何十万、何百万回繰り返した挙げ句、「これだけ言っても真っ当な人間になれないお前を俺は見捨てた。だからお前も俺を見習って自分を見捨てろ」と言うのである。「悪い出来事は全てユダヤ人のせいだ」というスローガン同様、この「同調圧力」にも、もちろん何の根拠もない。こんなでたらめな同調圧力をかけてくる寄生虫野郎を、あなたはいつまで飼っておくつもりなのか?
怒りという名の資源ゴミ
Outcome-baseで考えると、「怒り」という感情の使い勝手の悪さ、リスクベネフィットバランスの醜悪さに気づくのは成長の重要な指標です。でもそれだけではもったいない。それに、その怒りの捨て場に困りますよね。でも、その怒りは資源ゴミとして利用できるのですよ。それも非常に単純な方法です。「この野郎」と思った時には、相手のことではなく、大切な、素敵な自分を思い出してください。あなたにはあんなくだらない人間に構っている暇はないのです。とにかく、あなたの肉体も心もその場から立ち去るのです。ひたすら距離をとる。距離を取れば時間も使える。沈黙も使える。そうやって、くだらない人間から距離を取れる素敵な自分が見えてくる。
我々に出来ることはただ一つ。今日一日を誠実に生きること
あなたは神ではない。だから、あなたは過去は取り戻せない。そして明日はどうなるかわからない。だったら今、今日一日を誠実に生きることしかできないでしょ。他に余計なことを考えなくて済むのですよ。下手な考え休むに似たり。自分には過去や未来のことを思い悩んでいる暇なんかない、そんな能天気な暇人じゃないと思っている人は、やることの優先順位を厳しくして、今日一日を誠実に生きることに集中しています。あなたはどうですか?
目から鱗は自分が素敵→スライド
一万円札を道ばたで見つけた時と自分のクローゼットの上着の中で見つけた時とどちらが嬉しいですか?目から鱗と思ったら、それは相手が偉いのではなく、自分が素敵だからです。Spoon feedingで無理矢理高尚な知識を押しつけられても、決して目から鱗とは思いません。目から鱗という感情は、「そうだ、自分がもやもやしたり、迷ったりしながら求めていたことは、そこなんだ!」と、はっと気づいた時、言い換えれば、自分の中に眠っていた鉱脈を掘り当てた時の感激です。だから目から鱗は自分が素敵、誠実に悩みながら成長していく美しい自分との出会いなのです。
いろいろなところに公演に出かけると質問を受ける。その中には「○○についてどう思いますか?」という類の設問もしばしばある。この場合質問者自身が議論のネタになる。なぜなら、この種の質問の背後には
●この種の質問は当事者意識の欠如と評論家意識の表れ
●自分の頭の中ではなく自分の外に正解を求める正解依存症・思考停止の表れ
●私がその問題に当然関心を持っている(持っているべきだ)という思い込み
といった様々な普遍的障害が潜んでいるからだ。この障害を掘り起こして、その場で共有すると、参加者一人一人が自分の成長を実感できる
(ある研修医が、有名病院の後期研修プログラム応募するための面接を前に、とても緊張しているとのことで、メールでのやりとり)
坂本さん
厄介と感じたならば、それは名詞化・外在化して「どう使うか?」を考える。素敵だと感じたならば、動詞として考える。
例えば、「自分が緊張している」と感じたら、「この緊張感をどうやって上手く使って面接に役立てるか?」と考えてください。それはちょうど 救急外来で「緊張せずに緊張感を活かしている救急医」、ウィンブルドンのセンターコートで「緊張感を集中力のエネルギーにしているテニスプ レーヤー」のようなものです。
そうやって、緊張感を外在化できれば、そういう自分にポイントをあげたくなり、自然と笑みがこぼれてきて、自分が納得する仕事ができるもので す。
採用は先方が決めることです。自分にはどうにもなりません。坂本さんも、もっと厳しい状況で仕事をしてきたからわかるでしょう。人の生死が医者にはどうにもならないのと同じ事です。この点をまず明示的に意識してくださ い。そうすると、面接のプライマリエンドポイントが見えてきます。それはその病院に就職することではなく、自分が納得する面接ができることで す。自分が納得できる回答は自分の頭の中にしかありません。その病院への就職はあくまで副次的なエンドポイント、おまけに過ぎません。
*正解依存症:回答を自分の外に求めようとするととても苦しくなります。自分の外はコントロールできないからです。野球選手には、スタンド の野次や新聞記者の書く記事はコントロールできません。松井秀喜が「自分のコントロールできることに集中する」というのはそう いう意味です。彼ほどの選手でさえ、そうなのです。まして況んや我々をや。
では、素敵だと感じたならば、動詞として考える具体例を知りたいですか?簡単です。坂本さんも毎日やっていることです。
愛は動詞です。名詞ではありません。「自分は目の前の患者さんを愛している」戸惑いながら・迷いながらも、そういう手応えを毎日少しずつ積 み重ねていく。それが臨床です。
怒りの非効率性
怒りはあなたの人生を確実に非効率にします。(御存知かと思いますがもちろん死亡リスクも上昇させま す)。生じたアウトカムを元に戻せない時に限って怒りが生じますから、非効率なのは当然です。それは全ての後悔が無駄であるのと同じ意味です。後悔が自分に対する無意味な攻撃とする と、怒りは他者に対する無意味な攻撃なのです。
思考停止と正解依存症
思考停止の根底には正解依存症があります。自分は神ならぬ弱い存在だけれども誠実に生きている。だから、もやもや・不安を中腰で抱え続けて も、何も恥じることはない。自分は神ならぬ弱い存在だけれども誠実に生きている。だから問題を先送りしても、やりすごしても、何ら恥じること はない。そう思えないのです。
自分が誠実に生きる弱い存在であると思えないと、神になろうとします。自分の外に神を求めようとします。自分の外に神がいて、その神が持っ ている正解を得ようとします。神に近づくために、神に近づけない「駄目な自分」を設定し(現実の自分を否定)、ひたすら「努力」します(これ も現実の自分を否定)。そうして「努力」した結果、自分よりも、歳を取っていたり、肩書きを持っていたり、権力や名声を持っていたり、お金を 持っていたりする人(そういう人達はしばしば自分は正解を持っていると大きな声で宣伝しています)の声を聴いて、それが自分にぴったり当ては まる正解だと思って安心して考えるのを止めてしまいます。これが思考停止と正解依存症の関係です。
自分の腑に落とせる回答は自分の中にしかありません。当事者意識を大切にしながら時間に抗わず中腰で耐えられる人だけが、思考停止を回避で きます。
障害の使い方
→こちらの記事です。
権限委譲で(部下でもなく、自分の子どもでもなく)あなた自身が!成長する
Empowermentなんて英語に拘る必要はない。知識も技術も見識も明らかに優位にあると思われているあなたが、部下に向かって「任せます。責任は私が取りますから。思うとおりにやってください」、子どもに向かって「進学先はあなたが好きなように決めなさい。お金は心配はしな いでいいから」 なんて言うのは当たり前なんですよ。
問題はそこから先で、決して結果が芳しくなかったと落ち込んでいる相手に対して、「アウトカムが本当に失敗かどうかは、もっと時間が経ってみ ないとわからないでしょう。そんなことより、今回のオペレーションで学んだことを教えてください」と言えるかどうか。そこまでできるかどうか です。
決断力とやらの素性
決断力、行動力なんていう安っぽい芸名に惑わされないように。なんたって、本名は思考停止なんだから。下手な芸人なんぞ、相手にしないよう に。
成長のサイクル
この子は育つと認めてもらって、初めて助言・reviewを受けられる。助言・reviewを受けて、それを生かして成長して初めて尊敬を受けられる。尊敬を受けて初めて自分の言うことに耳を傾けてもらえる。自分の言うことに耳を傾けてもらって初めて助言・review を受けられる。(申請しなければ審査を受けられない!論文を書かなければ批判されない!)誰でもこのサイクルで成長して行きます。
年を取れば取るほど助言を受けにくくなるわけですから、年を取れば取るほど、このサイクルを意識して,メインテナンスを怠らないように、いや,むしろ若い時よりも成長のサイクルが潤滑に回るようにする必要があります。
「なぜ」を受け流す
あなたは、「なぜ」という疑問を大切にするように教育されてきた。しかし、なぜ、「なぜ」という疑問 を大切にしなければならないのか?、納得できる説明は受けていない。なのに、なぜ、あなたは、「なぜ」と問いかけることが、常に意義のあることだと考えてしまうのだろうか?
「なぜ」という疑問を大切にしなければならない。あなたにそう説明した人間自身が、なぜ、「なぜ」という疑問を大切にしなければならないかという理由を持ち合わせていない。だから、あなたは納得できる説明を受けられなかった。そして、あなたも、その理由を持ち合わせないまま、自 分の子どもに、自分の部下に、自分の生徒に、「なぜ」という疑問を大切にするように教育していく。何も考えずに、伝言ゲームのように。
何万年前からか知らないが、アダムとイブのどちらかの脳の中に、「なぜ」という回路が一旦できあがってしまった途端、この悪魔の伝言ゲーム が今日まで延々と続いている。私の知る限り、この「なぜ」という疑問を大切にする強迫症状を欠く人種、地域は地球上に存在しない。
今まで、人類史上、誰も知らないってことは、実は、「なぜ」という疑問を大切にしなければならない理由など、どこにもないってことだ。文句あっか?ないだろう。だって、あなたも、その理由を知らないだろうから。
えっ、自分は知っているって?”「なぜ」という疑問真理教”を真っ向否定す るような不心得者は成敗してくれるだって?ちょっと待ってくれよ。じゃあ、聞きますけどね、「なぜ」という疑問真理教徒さんのあなたは、その信仰によって、どういう御利益を得たのですか?
えっ、Nature, Cell, Scienceに論文を書いて教授になれたって?はいはい、よござんしたね。おめでとうございます。でも、だからって、不信心な私を成敗できるって話にはならないでしょうが。まさか、不信心なのに長崎大学大学院教授になったのはけしからんから成敗するってわけでもないでしょうね。
「なぜ」という疑問真理教の背景には、「わからない」を許さないファシズムがある。「なぜ」という疑問真理教が、Cell, Nature, Scienceのネタになっているうちはまだ可愛い。なぜ我々がこんな酷い目に遭わなければならないのか?そうだ,それは全部ユダヤ人のせいだ。ユダヤ人を絶滅させれば幸せの千年王国が生まれる.そんな結論も、”「なぜ」という疑問真理教”がワイマール共和国におけるインフレのように猛威を振るった結果ではないのだろうか?
「わからない」の大切さがわからない病気の中核症状は以下の 通りである。
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正しい答えがどこかに必ずあるはずだという妄想
その答えは必ずネット上のどこかに言語化されているはずだという妄想。
あるいは山のあなたの空遠くに、正しい答えを知っている素晴らしい専門家がいるはずだという妄想。(遠く離れているところとか、たくさんの お金が必要だとか、目に見える障壁が高ければ高いほど、たとえ中身が無くても、ありがたく感じられるものだ)
なのに自分が答えを得られないのは、自分のリテラシーが低いからだと自分を攻撃する。
あるいは、官僚が天下り先を守るために妨害しているからだと官僚を攻撃する
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どこかに正答があるはずだ。なのにその正答が見つからないのは、どこかが間違っているに違いない。誰かがサボタージュしているに違いない。 四六時中そんな思いに苛まれている状態。
ひどい難病のように見えるだろうか?それもまた幻覚である。「わから ない」の大切さがわかるようになれば、正しい答えを自分の頭の外に追い求めることはなくなる。
あなたの問題なのだ。あなたにしかわからない。あなたの頭からしか最善の回答は生まれない。その最善の回答の中で一番頻度の多いものが「わ からない」。そんな簡単なことに気づくだけで、この病気とはおさらばできる。
あっても意識に上らないという意味だけではない。失われてもわからないという意味もある。
「わからない」がなぜ大切なのか?
別にソクラテスに言われなくたって、わかるよね?「そんなこともわからないのか?」という傲慢さから解放してれるから。「わかっている」とい う思い込みから解放されて、思考停止を解除できるから。そして、学習、成長を再開できるから。「わからない」「もやもや」を大切にしていく限 り、七十になろうと、八十になろうと成長していける。経験にただ一つ意義があるとしたら、それは経験の意義を認めなくなること。参照→豊かな経験
変えると変わる :改革依存症
有名なニーバー(Reinhold Niebuhr)牧師の祈り 「主よ,変えられないものを受け入れる心の静けさと,変えられるものを変える勇気と,その両者を見分ける英知を与えたまえ。アーメン」 に対して、あなたはどう感じるだろうか。多くの人がこの言葉に「励まし」を感じて、好意的に引用するようだが、私のような軟弱な人間は、 「あっ、それ無理」と直ぐに降参してしまう。
そもそも、『どんな場合でも、どんな物でも、誰が変えても、「変える」ことはデフォルトで「善」である』 そんな「真っ赤な嘘」がこの言葉の根底に横たわっている。「万病に効く薬」と同様の、組み入れ基準を一切設定しないとんでもない虚構によって、この祈りは支えられている。それはともかく。
私は自分が「変えられる」とは思っていない。「私が」「変える」ことなど、生まれてこの方も、今後も、金輪際、ありえない。だから、「心の静けさ」も、「勇気」も、「英知」も、私には一切必要ない。そんな高級品は、そういう物を欲しがる欲張りどもに呉れてやる。
私が「変えた」ことがない と言うと、食事の際の箸の置き場も変えたことがないのかと、突っ込み返されるのがわかりきっているような無駄な 突っ込みをする愚かな人は、このページの読者にはいないだろうけれども、一応補足説明をしておく。
「変える」ことが問題になるのは、箸や自転車の置き場所でもなければ、明日身につける下着でもない。人の考え、そしてその表現型としての行動だ。
私は人の考えも行動も変えたことがない。もちろん,かつて、人並みに「変えたい」「変えられる」「変えられた」といった妄想にさんざん悩まされたことはある。けれど、何一つ変えられなかった。変えられたと思ったものは全て「変わった」だけだった。
一番変わったものが自分だった。一番ひどい変わり方をするのが、自分の頭の中だ。一瞬たりとも同じところに留まっていない。私の考えはブラ ウン運動のように変化する。その動きは「迷い」と呼ばれる。決して「改革」ではない.
私の考えがあるところ、行動があるところ、全てに迷いがある。その結果、秒単位、時間単位、年単位で私の行動も考えも変わる。当然周囲は迷惑する。そして私に非難の目が向けられる。攻撃される。攻撃されると、如何に図々しい私でも、居心地が悪くなる。何とかして、このブラウン運動を、自分が不利にならない方向、周囲から非難されないに向かわせたいと思う。
周囲から非難されないためには周囲の意見を聴けばよい。教えてもらえばよい。そこから学んで育っていけばよい。それが学習であり、成長であ る。自分が育てば周囲からも褒められる。うれしくなって、また学ぶ。そして成長すると、また褒めてもらえる。嬉しい。楽しい。幸せになれる。
私には、他人の考えや行動を変えられる「勇気」も「英知」もない。そんな高級な道具を使いこなせるほど優秀な人間でもない。「心の静けさ」 も要らない。だって、自分には変えられないものだらけだ そうわかっていたら、わざわざ「心の静けさ」なんて用意する必要もないから。
自分が変わる。もちろん、自分が幸せになる方向へ。それは周りから教えてもらい、助けてもらい、育ててもらうこと。私にとってはそれが全て だ。他人を変えられるなんて妄想に関わっている暇はない。
結婚の認知行動療法(参考スライド)
既婚者・非婚者の差別の罠に陥らない。自分を愛する・自己攻撃性の排除。自分を攻撃しても一つも得はない。自己攻撃性の虚しさ
非婚者:結婚していない・結婚できない自分を攻撃するのではなく、異性と一緒に幸せになりたいと願う自分を愛しいと思う
既婚者:独身を羨ましいと思うのではなく、同居している発達障害者を攻撃するのでもなく、そんな困難な状況でこれまでやってきた、そして今日もやっている自分を愛しいと思う。現実世界でmission impossibleを主演している自分は、どんなスターよりも素晴らしいと思う
あなたは神ではない
当たり前のことを言うなと怒るなかれ。そうやって怒る人ほど、宮沢賢治の「雨ニモマケズ」が好きだったりするからだ。自動思考にツッコミを入れる:生物統計学とは何かを読むがいい。聖人から神を目指そうとし ている自分に気づくだろう。
自分は神ではないと常に自分に言い聞かせる=自分のコントロールできることに集中する=自分が本来コントロールできないことに手を広げて、 コントロールできなかった自分を攻撃する愚を避ける戦略を実行する=自己攻撃性を排除できる=鬱のリスクを低減できる
焦燥感や鬱は自己攻撃性から生じる。その自己攻撃性の最たるものが自分で自分の命を絶ってしまうことだ。いくつかの宗教で自殺を禁じている のは、神になろうとする人間に対する警告である。と言ったのは、人類史上、私が初めてだと思いますが、もしそうでないとしたら、誰が最初なの か、教えてください。
自分の死の外在化
ストレスの外在化はストレス管理の強力な手段である。では、あなたにとって最大のストレスであろう自分の死を外在化するにはどうしたらいいだ ろうか?いくつかの面白い方法については、毎日少しずつ死んでいる で説明した。
今回は、先日ふと読んだ次の文章を書き留めておきたかっただけだ。
「いつも、どこかで死が自分を窺っているのを意識する日夜」(柴田 翔 書籍予約の心迷い ちくま 2009年 7月号 P16-17)
「死が自分を窺っている」 なんて素敵な言葉だろうか。正に外在化である。
死は敗北ではない。生きとし生けるものは全て死ぬのだから、全員が敗者ということになってしまう。死の前には勝者がいなければ敗者もないか ら、全員が敗者という構図そのものが成り立たない。
そもそも死そのものの認識が、時代によっても、個人によっても違うし、一個人にとっても、年齢、状況によって変化する。心拍停止、呼吸停 止、瞳孔散大は、たかだかここ数十年の間に普及したカットオフポイントの一つに過ぎない。
> 昨日、父の四十九日法要を済ませ、なんとなく一区切りついたような気がします。
愛する人が亡くなると、なぜ悲しいのか?当たり前だという莫れ。CBTを勉強しようとする人間ならば、当たり前だと思う時ほど、自動思考に 支配されていることを忘れないでもらいたい。愛する人が亡くなると、なぜ悲しいのか?我々は実はよく理解していない。以下は私の個人的な推 測。
愛する人の肉体が消滅すると、絆が失われたと誤認する。絆が失われると、自分の愛と、その愛が与えてくれた自分の幸せも消失してしまうと誤 認して悲しくなる。しかし、それはあくまで誤認である。
愛する人の肉体が消滅しても、絆、対話は消失しない、従って、愛も、幸せも消失しない。それが、服喪期間の間に、徐々にわかってくる。さら には、むしろ愛する人の肉体が消滅することによって、愛する人の新たな姿、お父様の場合には教育者としての業績が判明して、絆、対話、そして 愛が強化されれば、肉体がこの世に存在していた時には生じなかった新たな幸福感が生まれる。
どうしてこんなことを考えたかというと、自分の死に対する認知行動療法を外挿し て、自分の親のような、非常に近しい人の死に対する認知行動療法はどうやればいいかなと、かねがね考えていたからなのね。
> この1週間、私自身、ある患者さんの今後の事でずっとずっと迷っていました。
> どうしてあげることが患者さんにとってベストなのか?迷いに迷い。
> 結局、一生こうして迷い続けて医者をやっていくんだろうかとか
> こんなんでいいのかなとか1人の患者さんの事で悩み迷っていたのが
> いつの間にか自分の医者としての生き方まで迷う始末。
「いつまでも決断できずに愚図愚図している人間は医師として不適格」という幻聴がしょっちゅうやってきて,我々を悩ませます.統合失調症の 場合には,明確な音声言語の形を取って自分を攻撃する幻聴がやってくることが多いので,まだ対処しやすいのですが,精神障害のない場合には, もやもやとした霧のような自動思考(根拠が無く自分の中に生まれてくる声=やっぱり幻聴か・・・)の形をとるので,攻撃として意識しにくく, 自分を防御しにくいのです.
そのような自動思考(もやもや型幻聴)は,誰の中にも,日常,無数に生じています.宮沢賢治の「雨ニモマケズ」は,膨大な自動思考リスト の,ほんのごく一部を羅列しただけの作品です.このリストを全部満たそうという欲求に駆られる人は気をつけてください.それは聖人になろうと することだからです.聖人になれればそれで結構ですが,なれない場合には,聖人になれない自分への攻撃性がますます高まります.
「べ てる」の当事者研究は,我々にこのような幻聴への対処法の原則を教えてくれます.
○幻聴を,「幻聴さん」という名の困ったお客さん,あるいは隣人として言語化,外在化する.
○頼みもしないのに押しかけて来たときは,お茶ぐらい出して,適当にあしらってから帰ってもらう(=棚上げ,先送り).忙しいときは,今,忙 しいからとはっきり言って,すぐに帰ってもらう(=仕事の優先順位を明確にして,自動思考の不当な要求は却下する)
上記の対応をした上で,さらに,自動思考に対して「ツッコミ」を入れます.「雨ニモマケズ」を例に取ると
1.組み入れ基準・除外基準を明確にせよ:一体,誰に対して負けないことを要求しているのか?3ヶ月の乳児なのか?90歳のお婆さんなの か?健常人成人に限るのか?それとも何らかの疾患を持った人も含めるのか?その疾患とは何か?花粉症?肺癌?アルツハイマー病?高血圧症?
2.用量設定を明確にせよ:「雨」とは何か,霧雨なのか土砂降りなのか?1時間あたり何ミリ以上を雨というのか?その定義を明確にしてくれ ないと,要求には応じたくとも応じられない.
3.評価指標を明確にせよ:「負ける」とは何か?傘を差しても負けなのか?雨宿りしても負けなのか?雨宿りぐらいならいいとすれば,何分, 何時間までいいのか?・・・
4.試験実施場所,観察期間を明確にせよ:サハラ砂漠のど真ん中では,何百年にもわたって雨ニモマケズの状態を保つことができる.どの地 域,どの時間帯,どのくらいの期間,負けないことを要求されるのか?
そう,臨床試験プロトコール作成→結果の吟味の際のチェックポイントと全く同じ事です.PMDAの治験相談では,まさにこういう議論が繰り 広げられます.こういった議論を支える生物統計学とは,「ツッコミ力」なのです.生物統計学の本質を語る時には,数字など要りません.
こうして,雨以外にも風にも,雪にも,夏の暑さにもツッコミを入れていくと,そのうちに向こうも嫌になって二度とやってきません.あるいは 再度やってきても,簡単に撃退できるようになります.
患者に助けてもらう
希死念慮のあるうつ病患者にさえ(こそ!),医者が助けてもらえるのです.下記はあるメーリングリストでのやりとりから.
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> 5年前は恐る恐るのお付き合いで、半年くらい治療し、自殺企図さえもよくなってからしか「あの時死にたくなったりしませんでしたか?」って聞けな かっ た中途半端なものでしたが、今回は不思議に、最初にさらりと聞くことができました。
> ただ、その答えが「ええ。仕事中も家にいる時もいつと話に考えてしまいます」と返ってきたので、かえってあせりました。
この、”あせり”を利用できればと思いました。なぜあせるのか?と自分に問いかけます→重大な秘密を知ってしまった→重大な秘密を教えてく れた→信頼してもらえた→よくぞ話してくれました。私を信頼してくれてありがとう。
「誰でも実は死にたくなんかありませんよね。死にたくなるってことを素直に話してくれたということは、実は助けてもらいたいってことですよ ね。私を頼りにしてくれているってことですよね。ありがとうございます。」
「私を信じてもらえなかったら、死にたいという気持ちを隠していたでしょうね。そして、万が一あなたが、本当に死んでしまったら、私は医者 として信頼されていなかったことを知って絶望のどん底に突き落とされていたでしょう。そんな事態に陥る前に、あなたは私を助けてくれた。」
患者が医者を助ける。そうやって助けてもらった医者が患者を助ける。win/winって、決して特別なことではなくて、実は我々の日常診療 関係そのものなんですね。
そもそも、問診がそうでしょ。患者に教えてもらわないと、医者は商売にならない。診察だってそうです。患者の体に問いかけて非言語性メッ セージを教えてもらう。だから検査も同じ事。そうやって患者に一々教えてもらって、助けてもらわないと、医者は育たない。
医者を助けられる患者、患者に助けてもらえる医者。
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無駄な絶望止めましょう
あなたは絶望したことがあるだろうか?ないと答えるがいい。なぜならあなたが神ではないからだ。絶望は神のみに許された特権である。続きはこ ちら→暇な神様の趣味
CBTを使うことで,”異常に低くなっている自己評価を改善するにはいいかもしれないが,図に乗って,自信過剰にならないか”との懸念をあ る方から受け取って:
○まず、”図に乗って”という言葉に、CBTに対する認知の歪みが潜んでないかな? ”使い込む”って言い換えられない?
○CBTを躁鬱病に適用して躁が増悪するというエビデンスがある?多分ないだろ。躁状態だって認知の歪みだからね。
○”自信過剰”の判断基準、根拠は?
○CBTはpeer reviewを正しく評価し、受け入れやすくする。例えば、嫉妬のような歪んだ感情から生じる攻撃も、自分にネガティブな感情を生じさせることなく、適切 な批判部分を取り出して自分の糧とすることができる。ましてや、適切な批判だったら、そのまま受け入れられる。
○CBT手法の一つである、自己外在化は、”自信過剰”に対する強力な抑制手段である
上記のように考えれば,CBTで自信過剰になることなど決して無く,CBTはむしろ裏づけの無い自信過剰を抑制するのに役立つであろうこと は容易に推測できる.
自分のコントロールできることに集中する
松井秀喜がよくそう言っていますね.審判の判断,観客の野次,マスコミの記事,監督の判断,フロントの意向・・・どれも彼がコントロールでき ないことばかりです.そういうものをコントロールしようとして衝突するのは時間の無駄以外の何物でもない.自分は神様ではないから,自分のコ ントロールできることに集中する.
自分は松井秀喜以上の才能を持っていると信じている(認知の歪み)人や,自分は神であると信じている(極端な認知の歪み)人以外は,松井秀 喜を見習った方が良さそうですが,できますか?
厚労省と戦い
マスコミと戦い
病院経営者と戦い
事務職と戦い
患者家族と戦い
配偶者と戦い
時間と戦い
お金と戦い
二正面作戦どころか八面六臂の御活躍,御苦労様ですなあ.でも,敵が増えれば,過労死のリスクも高まりますよ.自分のコントロールできるこ とに集中すれば,自然と無駄な戦いをしなくなります.相手が敵ではないことがわかれば(認知の歪みが正される),味方につける(=利用する (^^;)工夫する方が面白くて,ためになるんじゃないか発想ができます.さらに,味方になるということは決して一方通行ではなく,必ず双方 向であること.利用するされるという一方通行の関係ではなく,それぞれの足りないところを相手から補ってもらうよう,お互いに利用してもら う,そういう理解ができるようになります.(認知の歪みが正される)
参考文献
「戦わない経営」(浜口隆則著:かんき出版)
手段の目的化
本来,目的を達成するための手段だったものが目的と誤認(典型的な認知の歪み)されると,ありとあらゆる種類の不幸が生まれるが,驚くべきこ とに,多くの人がそれと気づかないまま事態は進行していく.さらに恐ろしいことに,手段の目的化は,極めて普遍的な現象である.例えば,お金 や地位.お金は幸せを達成するための手段に過ぎないのに,地球上のありとあらゆるところで,偉くなることやお金を稼ぐことが人生の目的とな り,多くの人が呻吟している.念のために言っておくが,私自身がお金が必要ではない,偉くなりたくないと言っているのではない.手段としての お金や地位は多々益々弁ずである.
自分の所属組織の目的が,お金を稼ぐことであるからといって,自分の人生の目的までお金を稼ぐことにする必要は無い.あなたにとって勤め口 は,あくまで幸せになるための手段であって,目的ではない.大学医局であろうと,病院であろうと,組織というのは利用するものであって,利用 されるものではない.ましてや,組織の目的と自分の人生の目的を同一視するのは,認知の歪みどころか,立派な病である.
お金を稼ぐことも,偏差値の高い大学に入ることも,教授になることも,あくまで,(その時は魅力的に見える)手段であって,目的ではない. そう考えれば,思ったより収入が低くても,滑り止めの大学にしか合格できなくても,教授選に落ちて開業しても,幸せを見つけるために,もう一 つの手段を与えられたと,正しく認知できる.
もっと日常的な手段の目的化も,そこらじゅうに転がっている.”熱が出ているから解熱剤,抗菌薬をください”,”頭痛があるのならMRIを 撮りましょう”,”教授になるためにはもっと英語の論文を書かなくては”・・・手段の目的化と,おまじないを繰り返し呟いていると,あれよあ れよとうい間に,自分の頭の中も外も,手段の目的化で溢れかえっていることがわかるだろう.だから,手段の目的化認定作業は,自分の仕事場で も,日常生活でも,効率化とストレス軽減に大いに役立つ.
臨床試験を知っている人なら,手段を代用エンドポイント(例;血圧を下げる,コレステロールを下げる),目的をハードエンドポイント(例; 心血管疾患を予防する)と置き換えれば,試験デザインでの悩みを通して,手段の目的化を理解しやすい.
手段の目的化が不幸を生む理由は簡単だ.本来の目的が見えなくなってしまうからだ.これが第一種の過誤,第二種の過誤は,手段の目的化が起 こっているからといって,手段そのものを否定してしまうこと.例えば,お金を稼ぐことや,英語の論文をトップジャーナルに載せること自体を否 定してしまうこと.手段の目的化に気づくことが,CBTの日常生活への応用編における,極めて有力な手段の一つである所以は,目的を明確にし て手段を活用することにある.なのに,手段そのものまで否定してしまっては,元も子もない.
手段の目的化に気づけば,目的を一つに”絞り込んで,残りを手段に回せる”.つまり手段は必ず複数あることが理解できる.複数だから二つあ ればいいやと油断してはいけない.二つとも非現実的だとすぐに諦めると,またもや手段の目的化が起こりかねない.そこで,”マッキンゼーの5 つ”が生きてくる.3つとけちなことを言わずに,5つ考える訓練をする.思考停止に陥らないための作戦である.すぐさまその場で,自分一人で 5つ考えられなくてもいい.週単位,月単位,年単位の時間をかけて考えつづける.要は,思考停止に陥って手段の目的化を再発させないためであ る.手段の目的化は,もぐらたたきのように,非常に再発,転移しやすいことも心得ておこう.
代用エンドポイントは、ハードエンドポイントへの道筋を遮る遮蔽物のような役割を果たします。そこがゴールと思って満足して、歩むのを止め てしまう人が大勢いる。逆に、なんだ、こんなことだったのか、こんなところなら来るんじゃなかった。骨折り損のくたびれ儲けと思う人もいる。 でも、そこで、ちょっと回り込むと、ハードエンドポイントへの道筋が見えてくる。そこに面白さがあります。
参考→あなたにとってのエンドポイント(あなたが何を望んでいるか,言い当てるパワー ポイントスライドです)
自己攻撃性の迷彩を見破るには
抑鬱の主な要因である自己攻撃性は,後悔,反省,懺悔といった,ごくありふれた言葉の迷彩服をまとっているので,非常に気づきにくいが,その 迷彩を見破るこつの一つにoutcome-based thinking(OBT)がある.OBTといっても,簡単なことだ.それを後悔(反省,懺悔)して何なるのか?何のための後悔か?その後悔 にエビデンスはあるのか?その問いにすぐ答えられなければ,それは自己攻撃性以外の何物でもないから,その攻撃はすぐさま止めるか,攻撃から 自分を遮断すればよい.
outcome-based thinking(OBT)の典型例が下記である.
「100メートルを速く走ると、なんかなるんか?」
(「できる社員」は 表の顔だった!大抜擢直後に異変 47歳男性(既婚/金融機関勤務)の場合)
楠木さんはもともと神戸の新開地の出身。「西の浅草」と呼ばれるこの町は、戦前から映画館や演芸場が立ち並ぶ一大歓楽地だった。ことに彼が 少年期を過ごした昭和30年代は、映画文化がもっとも華やかだった頃だ。近くに川崎造船の工場があったおかげで、商業地としても活気がみな ぎっていた。
「みんな商売人ですから、結構ちゃっかり者なんです。でも、それでいて涙もろくて、人情に厚い連中ばかり。だから、いわゆるア ウトローと呼ばれる人たちが、ごく自然に町に溶け込んでいました。それは面白い人がたくさんいましたよ。極道の妻とか、流しの演歌歌手とか、 オカマさんとか。みんなてんでに自由に、そしてたくましく生きていました」
「あの町の人たちにとって大切なのは、いい気持ちで長く商売ができることだった。ビジネスマンがこだわる数値目標や効率化など、そこでは誰 一人関心がない。常識やタテマエより、具体論で生きているようなところもありましたね」
「小学生のとき、貸し本屋のおっちゃんに言ったことがあります『アメリカのボブ・ヘイズ選手が、100メートル10.0秒の世 界タイ記録を出したよ!』。そうしたら、おっちゃんは真顔でこう返した。『人間が100メートルを速く走ると、それでなんかなるんか?』。
毎日少しずつ死んでいる→解釈モデル図
CBTが有用なstress coping skillならば,人間にとって最大のストレスであろう自分の死に対しても,何らかの手立てを与えてくれるはずだという仮説を検証しよう.参考→”お迎え”は死の認知行動療法
生物学的な死,心肺停止と瞳孔散大,対光反射消失を以って全てが終わりと思い込むと,それまでに何とかしなければ必死になり,締め切りを一 日でも延ばす方法はないものかと,ありったけの時間,ありったけの金,ありったけの情熱を注ぎ込もうとする.でも,それで期待通りの結果を得 られることはない.ここで,”ほとんどない”との譲歩節を使わずに断言するのは,人間の欲望には限りが無いからだ.生には限りがあるのに,生 存期間を1時間でも延ばしたいという欲望には限りが無い.限りのない欲望にとって,期待通りの結果など存在しない.あるのは裏切られた期待ば かりだ.
自分の寿命を予言し,死の時期を延長する努力が無駄と悟れば,生きている時間を,より有効に使うことができる.不治の病に冒されないと,そ んな悟りはできないと考えるほど,あなたは馬鹿ではない.だって,不治の病があなたを利口にするわけじゃないからね.自分の命の限界が明確に 示された時ほど,生き残りの欲望が燃え盛り,判断力が低下する.むしろ病気がないと思い込んで心が安定している今こそが,自分の死に対する認 知の歪みを正す絶好の機会だ.
そもそも,死んだ経験が全くないのに,なぜ我々はひたすら死を恐れるのだろうか?宇宙人のように,遭遇したことのないもの,未知の物は,必 ず恐れの対象になるのだろうか?たとえば,あなたは冥王星を恐れるのだろうか?現状の自分自身が全く変わった状態になることは確かだが,死後 が苦しみになるのか,喜びになるのかは誰にも全くわからない.全くわからないものをなぜ恐れるのだろうか?
認知行動療法によって死の恐怖を無くす なあんて言うと,誰も寄り付かなくなるけれど,呼吸・心拍停止,瞳孔散大・対光反射消失の瞬間の前 後で白と黒のデジタルに分離するだけが,唯一絶対の死の解釈モデルでしょうかね?北斗の拳じゃないけれど,見た目には明らかにぴんぴんしてい るように思えても,”もう死んでいる”っていう部分がある,そういう解釈モデルってあってもいいと思いませんか?→解釈モデル図
”毎日少しずつ死んでいる”というグレースケール解釈モデルは,何も池田オリジナルモデルではなく,すでに昭和20年代に,寺山修司が青森 高校時代に発案したもの(1)を,名郷直樹が紹介した文章(2)を読んで,それをここで回りくどく解説したに過ぎない.このモデルは,癌,痴 呆など,人生の終末期に付き物の定番商品にも当てはまる(2,3,4)ので,参考にされたい.
”毎日少しずつ死んでいる”というグレースケール解釈モデルでは,死に行く人,死者とのつながりが意識できます.白黒デジタルモデルでは, 生きている自分は死に行く人や死者とは別で,「自分だけが生き恥を晒して申し訳ない」という自動思考にとらわれてしまいますが,自分も,毎日 少しずつ死んでゆく存在だと考えれば,死に行く人や死者との共感が生まれ,生きていることに対する罪悪感から逃れられるばかりでなく,不老長 寿幻想から解放されて,残された時間をより強く意識し,自分の生きている部分をより大切にできるという利点があります.
必ず訪れるのに,いつやってくるかわからない自分の死と折り合いをつける準備を始めるのが,早すぎるということは絶対にない.
なお,ここで論じているのは,決して一般化した死ではないことに注意してもらいたい!自分以外に一般化した死を議論すると,議論の目的が見 えなくなり,思考は迷走する.決して他人ではなく,自分自身の死に絞って考えて初めて,思考が活性化する.
参考
1.続・寺山修司詩集.思潮社 (1992/10)(ただしこの詩の初出は1982年9月1日の朝日新聞紙上である.それは寺山の死の8ヶ月前であり,この詩は彼の遺稿である)
2.名郷直樹.構造主義医療の挑戦 第11回 不完全な死体と天国.JAMICジャーナル 2003年3月号 p43
3.池田正行.完全な痴呆患者
4.池田正行.職務か趣味か
5.藤原新也.Memento mori
伊藤絵美.「認知行動療法、べてる式。」(医学書院)
私は、この本で認知行動療法(CBT)にはまりました。それまで、うつ病に対するCBTの有効性については、知識としては知っていたのです が、”だって心理療法だろ。きちんとしたトレーニングを受けないと、とてもじゃないが、自分にはできないに決まっている”と思いこみ、CBT には近づかないでいました。
それが、カムアウト患者としての自分の経験を、感受性の高い若い人達に役立ててもらうために、医者やめたい病のサイトを開設し、その治療法としてCBTによるセルフケ アを思いついたのがきっかけで、俄然興味が湧き、かねてから興味を持っていた”べてる”とCBTという二つのキーワードが交叉したこの本に飛 びついたというわけです。予想を遙かに上回る衝撃を受けました。”こんなものが世の中にあったのか”との思いは決して誇張ではありません。驚 いた点は数々ありますが、要約すると下記のようになります。
○精神障害の当事者と自分の共通性を理解するのに役立つ。あなた病人、私健常者というデジタルな分け方、ラベリングの意義がどこにあるの か?という構造主義的な問いかけが自然と生まれる
○当事者研究と称して、CBTと意識せずに自分でCBTを考え、実行し、修正・改訂し、またそれを検証することがごく当たり前に行われてい る。→様々なストレスに苦しむ”健常者”が、CBTによるセルフケア、stress copingができないはずがない。
○schizophreniaの中核症状への対処に、CBTこれほどまでに威力を示すとは!という、その威力への驚き →schizophreniaに効くなら、医者やめたい病に効かないわけがない。
○たとえば、幻聴を、”幻聴さん”と呼んで外在化することによって、対応能力を”手厚くする”というべてる方式が、実はCBTだったこと
○social skill trainingの方法論の多様性
「べてる式。」は、手に入れた当日から3日足らずで読破しました。私にとって本が読めるのは、通勤電車の車内と夜寝る前の15分ほど(あ と、地方巡業行き帰りの飛行機の中)なのですが、本を広げるのが待ち遠しくてたまらない気持ちになりました。
”いつまでもデブと思うなよ”は典型的な認知行動療法の書
心理学の専門家でないと、できない、やってはならないとの思いこみが、CBTを多くの人から遠ざける壁になっていますが、こういう壁が架空の ものであることを、岡田斗司夫 いつまでもデブと思うなよ 新潮社が示しています。病名というレッテルがつかなくても、心理学を学んだ経験がなくても、誰でも、 自分でCBTを使ってその恩恵に与れるようになれば、ちょうど食事療法と運動療法が誰にとっても御利益があるように、そう思って、CBTの勉 強をしています。
認知の歪みを捉える秘密
認知行動療法(CBT)といっても、何のことだかよくわからない。ましてや、その、認知行動療法のもとになる、認知の歪みというのが何だかよ くわからない。具体例を教えてもらいたい。そう考えている人も多いと思います。しかし、あなたが心配するほど、難しいものではありません。認 知の歪みは驚くほどあなたの周囲、それどころか、あなた自身の中に蔓延しています。
たとえば,もっと一生懸命働かなくてはならない.もっと実績をあげなくてはならない といった,自動思考(根拠の無い!考え!)に支配され ていませんか?「○○しなくてはならない」,「××であるべきだ」という考えは,働きたい,実績を上げたいという,自分の意志ではなく,何者 かに強制された結果です.本当は,休みたい,もっと楽しいことをしたいと思っているあなたに,強制しているのは誰ですか?やはりあなた自身で すよね.あなた自身の中に生じたあなたへの攻撃性.それが認知の歪みの典型例です.
認知の歪みを見つけて、それを治す方法については、「いやな気分よさようなら」(星和書店)をお読みください。これは絶好の認知行動療法実 践書です。
日記・ホームページ・ブログ・外来診療教育,peer reviewとCBT
> 池田さん、問題点をきちんと整理して言語化するって大切ですね。ず?っと前から教えていただいていましたが、最近その意味がようやくわかってきたよう な、、、色々問題が起こってくると(そのように感じているだけですが)、それを書いてみたり、言葉にして整理することで、何が問題なの か、実は怖いような気がするだけで対処可能であったり、もともと対処不可能な事柄に対しては仕方ないという気持ちになれます。
「いつまでもデブと思うなよ」 を読めばわかると思うけど、その意味で日記は認知行動療法の一つになっているのね。診療科に喩えると、日記 は定点開業医で、レコーディングダイエットは生活習慣病科、こうやってメールを書くのは、在宅診療ってとこかな。
僕は日記が書けない人なんだけど、ホームページが日記代わりになっている。ここに多くの人のreviewが入ると思うだけで、ホームページ の原稿を書く際にreviewerの目を意識して、認知の歪み是正力が強力に働くところがホームページの利点だ。不愉快なブログっていうの は、reviewerの目を全く意識していないという共通の特徴がある。
良質なpeer(その分野の仕事仲間)reviewを継続的に受けるのは、仕事の質を向上させるために最も効率的な方法だ。peer reviewというと論文査読がすぐに思い浮かぶけど、自分の診療を公開してpeer reviewを受けると臨床の腕がめきめき上がる。僕みたいに、各地に地方巡業して学生さんから30年選手のベテランまで、あらゆる階層の reviewerの目で吟味してもらうという贅沢は誰にでもできることではないけれど、自分の外来に学生さんや研修医の目が入り、外来が一段 落した後の食事の時間に一緒に議論するだけでも、全然違うから、チャンスがあったら是非やってみて。初めのうちは恥ずかしいと思うかもしれな いけれど、それこそ、謙遜であって、指導医として何かを与えなくてはいけないという、認知の歪み(教育は指導者→学習者の一方通行)から、” 恥ずかしい”という気持ちが生まれる。限られた時間内でベストを尽くしている姿は、素直な若い人は理解してくれる。そこで、外来では、こんな ことで苦労しているって、こちらから愚痴をこぼすことから始める。そこでなぐさめてもらう。共感していただく。それが若い人から教えてもらう 第一歩。
宗教は伝統的なCBTの一つ
宗教は伝統的なCBTの一つである.究極の生物兵器に対する最も効果的な迎撃兵器である。なぜそうなのかは,直感的にわかってもらうことにし て,ここではくどくど説明しない.CBTとして使うにあたって,あなたが気に入ったものならば,どんなものでもいい。一神教だろうと、多神教 だろうと構わない。宗教は、本来地域に根ざして育つものであり、神様の数の違いも、その地域特性に応じて決まってくる。だから、一神教と多神 教とどちらがいいかなんて議論は意味がない。どんな宗教だろうと、自分に合ったものを使えばよい。多くの人は出来合いの宗教を採用するだろう が、パソコンでもbuilt to orderや自作があるように、無宗教と称して、いろいろな宗教から自分がつかえそうなパーツを寄せ集めてCBTとしてもいい。ただし、宗教が,本来,幸 せを実現するための手段に過ぎない金と権力を目的と考えるようになると(認知の歪みそのもの)、宗教がとたんにその威力を失なうどころか、逆 に教団が認知の歪みに凝り固まった集団に転換してしまう。
最新医学は宗教の神を否定し、医師や医療を神と崇めよという傲慢な点がしっぺ返しを食らっている。もちろん個々の医師は自分を神と崇めよな どと、一言も言わないが、患者個人にとっては最新医学の枠組みの中で、医師は,神とは行かないまでも、神の代理人に位置付けられており,その しっぺ返しを喰らっている。この窮地を抜け出すためには、本来の医師の姿、つまり自分では何もできなくて,患者に助けてもらわなければ食って いけない占い師であることを公式に宣言する必要がある。
それも一度宣言したからといって、それでおしまいというわけではなく、継続的に、患者ごと、診断と治療後とに神様ではない宣言をしなくては ならないので、ひどく面倒な話だ。まさに”神の手と呼ばないで” である。
”お迎え”は死の認知行動療法
”お迎え”は伝統的な認知行動療法で,自分の死を外在化する作用がある。保育園や幼稚園を思い出してもらいたい。大好きなお父さんやお母さん と一緒に過ごせるおうちに帰って、一家団欒でおいしいご飯を食べる。それが、お迎えという言葉の背景にある幸福感である。日本人は、人生最大 のストレスになるはずの自分の死に対してさえも、来迎図という、極めて単純明快な、そして美しい認知行動療法によって、見事に対処していたの に、非科学的だという非合理的な理由(非科学的だという非難自体が自動思考である)で,来迎図は一般市民の間から消えていった.非科学的で何 が悪いというのだろう?来迎図を拝んで幸せになりこそすれ,誰かが不幸せになるとでもいうのだろうか.
来迎図によって,死を悲劇ととらえれば,その責任を医者になすりつける理不尽な行為は排除される.このように,来迎図は,患者ばかりでな く,医療者も救う.
保険適応下での認知行動療法の問題点:
これだけ普遍的なもので,セルフケアもできて,ダイエットにまで使えるものを商売にしようというのは、実はかなり無理がある.認知行動療法で お金を取るのは,海洋深層粋や名水で商売するよりももっと難しいかもしれない.下手をすると水道水をペットボトルに詰めて売る行為になりかね ない.あるいはドリップよりもインスタントコーヒーの方がおいしいとか?認知行動療法を難解と見せればありがたいように見えるが、実際に全然 役立たないとなればドリップコーヒー以下に見なされてしまう.
”患者様”と同様に、”お医者様”という呼び名がなぜ問題なのか
お医者様という名の背景には、医者は神たれという命令が潜んでいる。患者様からは、お医者様は神様になってくださいと頼まれる。すると調子に 乗って、自分の手は神の手だとか、ラストホープだとか称する医者が現れる。しかし、現実にはどんな医者も神の手ではありえない。なのに、医師 は常に神であれという命令による圧力の高まりは、神でない医者は全てだめな医者という暗黙の全否定に直結する。
「神の手」が独り歩きするのは、目の前の医師よりももっと良い医師、超人がいるはず、と皆さんが無意識に考えているからだと思います。それ は要するに人間不信の一つの表現といえます。(亀田総合病院主任外科部長 加納宣康)
そこまでいかなくても、研修は神になるための修行だと思っている人は、患者サイドにも医療人サイドにも多い。一人前=神様と考え、神様目指 して精進する。一生勉強し続ける。それは、”まあ”いい。あるいは、PMDAの治験相談用語を使うと、”否定しない”。
しかし、そこに問題点が二つある。一つは、研修(修行)は辛いのが当たり前で、楽しくあってはならないという自動思考。もう一つは、勉強 し、進歩している自分に評価を与えず、まだ足りない部分だけに注意を向け、まだあれが足りない、ここがだめだ、そういった自己に対するネガ ティブキャンペーンだけが延々と続くことだ。楽しいことがなく、自己評価がどん底のままだったら、一体誰が研修など続けられるだろうか。
笑いは認知行動療法の基本的手法
認知行動療法の重要な手法の一つに、歪んだ認知に搦め取られた自分を外在化して眺めて、その歪みを笑うことである。メディカル二条河原も、英 国文化の柱であるBritish humourの底力を示す傑作であるミスタービーンやジョ ニー・イングリッシュも、大 嘘新聞も,すべて,この種の笑いが基本になっている.
CBT Toolkit(認知行動療法の道具箱):みなさん自身が使い やすいように、カスタマイズして使うのが、これまた面白い(クリックするとパワーポイントファイルがダウンロードできます)