大医達のゼロコロナ:無癩県運動の悪夢再び
−改正感染症法は癩予防法成立90周年の年に成立した−
この記事には独創性は全くない。なぜならば、「コロナ ハンセン病 無らい県運動」で検索しただけで、287000件もヒットするからだ(2021年3月27日現在)
『”鬼畜SARS-CoV-2撃滅!”と唱えさえすればバカな国民どもはみんなひれ伏す』とでも思ってるのか?
「小医は病を医す 中医は人を医す 大医は国を医す」の出典→レファレンス事例詳細
嘘つき村の広告塔:ゼロコロナ三人衆→ゼロコロナって何?(池田信夫 アゴラ こども版 2021年01月22日)
●宣伝相気取りの感染症専門医:「ウィズコロナなんて甘い。ゼロコロナを目指せ」
●ドイツ秘密日本自粛警察長官気取りの日医会長:「ゼロコロナ」目指すことこそ最強の経済対策
●インパール作戦指揮官気取り(*)の野党政治家:感染封じ込め優先の「ゼロコロナ戦略」菅政権との対立軸に→(*この「対立軸」とやらのおかげで来る総選挙の敗北が決定的となった)
高名な二人の医師と大物政治家の3人組と言えばアビガン薬害事件を思い出す方も多いかも知れない。しかし,ゼロコロナ運動はそんなおままごとではない。ゼロコロナ三人衆の叫びからは、インパール作戦司令部あるいはニュルンベルク裁判党大会もかくやと思われるほどの熱気が伝わってくる。ところが,お三方は裸踊りを買って出た広告塔に過ぎない.黒幕は別にいる。ゼロコロナのどんちゃん騒ぎの背後にいるのは,御存知国を医す大医気取りの医系技官,いやさ,千代田区しか知らない田舎者達である。
失業率がいくら上昇しようと自殺者がいくら増えようと,そんなことはどうでもいい。とにかくゼロコロナを目指せ。そんなスローガンは「本土決戦」と同様,大本営こと嘘つき村の末期を象徴している。それでも嘘つき村は国民がついてくると思っている。終わっているのは自分たちであることに全く気づいていない。何とお目出度い連中だろうか。
Arbeit Heilung Macht Frei
立法事実の元々存在しない法律,官僚と学会がぐるになって漁った利権,憲法違反の隔離政策,よくもまあこれだけ二番煎じを並べ立ててくれたものだ。「治れば自由になれる」とのスローガンは二重の意味で剽窃である。一つが「働けば自由になれる」,もう一つが無癩県運動である。「ゼロコロナ運動」も「無癩県運動」の焼き直しに過ぎない。→ハンセン病患者の隔離はアウシュビッツの思想と同じ
----------------------------------
ゼロコロナ運動(ぜろころなうんどう)とは、2020年代から2050年
代にかけて、県内からすべてのCOVID-19患者を療養所に隔離・強制収容させて、放浪患者や在宅患者を県内から一掃しようという目的で行われた日本の社会運動であ
る。医師の(お好みで名前を入れてください)や各都道府県が主導した。官民一体となって患者を摘発し強制的に療養所へ送り込んだ他、一般市民によるCOVID-19患者の監視制度でもあ
り、周囲に隠れ暮らしているCOVID-19患者を市民が発見した場合、警察などへ通報して患者を強制収容することを奨励する運動だった。日本のCOVID-19患者
の人権侵害問題で画期となった熊本地方裁判所判決 (2091年5月11日)
によれば、ゼロコロナ運動は「今日にまで続くCOVID-19患者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言ではない」。(アンサイクロペディア投稿予定)
----------------------------------
無癩県運動(むらいけんうんどう)とは、1930年代から1960年
代にかけて、県内からすべての癩病患者を療養所に隔離・強制収容させて、放浪患者や在宅患者を県内から一掃しようという目的で行われた日本の社会運動であ
る。医師の光田健輔や各都道府県が主導した。官民一体となって患者を摘発し強制的に療養所へ送り込んだ他、一般市民によるハンセン病患者の監視制度でもあ
り、周囲に隠れ暮らしているハンセン病患者を市民が発見した場合、警察などへ通報して患者を強制収容することを奨励する運動だった。日本のハンセン病患者
の人権侵害問題で画期となった熊本地方裁判所判決 (2001年5月11日)
によれば、無癩県運動は「今日にまで続くハンセン病患者に対する差別・偏見の原点があるといっても過言ではない」。(Wikipedia 無癩県運動 より)
----------------------------------
療養所=強制収容所(左は「療養所」に患者を強制収容するための列車。「お召し列車」と言われた。クリックして拡大)
わが国で最初にハンセン病に関する対策が講じられたのは、1907(明治 40)年の「癩予防ニ関スル件」という法律によるものである。それ以前、わが国では放浪するハンセン病患者もあり、これらの人々を救済していたのは、主に外国人の宗教家などであった。何ら救済措置を取らない日本政府への海外からの批判も強くあった。国はこうした事情を背景に、ハンセン病を文明国にあるまじき「国辱」であると捉えていた。1907(明治 40)年の法は、こうした放浪する患者を警察的に取り締まるという意味を強く持っていた。この法律に基づき、全国にハンセン病療養所が造られていった。
1916(大正 5)年には、療養所の所長に対して懲戒検束権が与えられた。所長は裁判手続によらず自由に療養者に対する懲戒を実施できた。各療養所には監禁室が設置され、極めて恣意的な処分がなされた。特に療養者たちが恐れたのは、全国の「不良患者」を収容する目的で 1939(昭和
14)年に設置された群馬県栗生楽泉園の「重監房」と呼ばれた拘禁施設である。厳重な施錠がなされ、光も十分に差さず、冬期には零下 17 度にまで気温が下がった。監禁されると十分な寝具や食料も与えられず、記録によるだけでもここに収容された 92 人のうち 14 人が監禁中または出室当日に死亡した。療養所は社会と完全に隔絶された治外法権の収容所となっていったのである。
1931(昭和 6)年には、新たに「癩予防法」が制定された。「癩予防法」は、戦争とファシズムを背景に、「民族浄化」の理念の下、ハンセン病を根絶するという目的を持っていた。この法律により、放浪する患者のみではなく、全ての患者が収容されることとなった。わが国のハンセン病絶対隔離政策がこの法律の下で確立されていった。(二 日本の強制隔離政策(国の責任) ハンセン病国家賠償請求訴訟)
----------------------------------
国を医すのは医系技官の本懐:「日本のアウシュビッツ」と呼ばれた負の遺産
「”エイズ撲滅運動”と聞くと,我々HIV感染者を撲滅しようという運動ではないかと思い,恐ろしくなる」。私がこの言葉を聞いたのは,もう20年以上前だったように思う。しかし,まだ「エイズ撲滅運動」という言葉は生きている。決して忌み言葉になっていない。むしろ世界的な大企業の宣伝に華々しく使われている。(右の写真は隔離のために作られた壁 菊池恵楓園)
「LOUIS VUITTON | (RED) トレイナー」の新作スニーカーでエイズ撲滅運動をサポート 2020/12/01)
------------------------------------------------------------------------
さて,筆者は牛海綿状脳症(BSE)についての勉強をする過程で,池田正行氏のBSEに関するホームページに,非常に興味深い考察を見いだした.以下に,その記載を引用する.「ゼロリスク探求症候群を一言で表現すれば, "ゼロリスクを求めるあまり,リスクバランス感覚を失い,自分の行動が重大な社会問題を起こすことも理解できなくなる病的心理"である.少し専門的な表現をすると,この症候群の特徴は,自分自身に正義があるとの幻覚妄想症状と,自分が差別や風評被害の加害者であることを忘れる失認症状だ。ゼロリスク探求症候群は,これまで,しばしば重大な社会問題を起こしてきた.。ハンセン氏病患者の隔離,ダイオキシンの風評被害による埼玉県産の野菜拒否,メチシリン耐性ブドウ球菌 (MRSA) 保菌者隔離 といった問題がその代表例だ.」
池田氏が指摘するように,我が国における戦前の「患者収容」や「無痛県運動」は,まさに国を挙げてのゼロリスク探究症候群であったといえよう.。我々の社会が,本当の意味で,障害者と共に生きる,精神病者と共に生きる,エイズと共に生きる,MRSAと共に生きる社会へと成熟できたときに,ハンセン病に対する社会の偏見も自然と消滅すると考えている.(ゼロリスク探究症候群とハンセン病 後藤正道 太平洋の島々におけるハンセン病 南太平洋海域調査研究報告 No.36 (2002年12月) pp43-52)
------------------------------------------------------------------------
歴史に学べない「千代田区しか知らない田舎者達」
Nur
ein Idiot glaubt, aus den eigenen Erfahrungen zu lernen. Ich ziehe es
vor, aus den Erfahrungen anderer zu lernen, um von vorneherein eigene
Fehler zu vermeiden. (「愚者は経験に学び、賢者は歴史に学ぶ 」 Otto von Bismarck)
-------------------------------------------------------------------
1947(昭和 22)年、基本的人権の擁護を基調とする日本国憲法が制定された。本来であれば、人権侵害の絶対強制隔離政策は根本から見直されるべきだった。しかし、国の政策に変化はなかった。国は同じころに、全てのハンセン病患者を入所させる方針を打ち立て、強力な強制収容を進めた。「第二次無らい県運動」である。わが国のハンセン病患者のほとんどが療養所に収容された。多くの療養者の願いをよそに、国は隔離を強化する規定を持つ新「らい予防法」を「癩予防法」の
改正案として国会に上程した。1953(昭和 28)年、多くの入所者の命をかけた反対運動にもかかわらず、「癩予防法」はその政策の基調を維持したまま「らい予防法」に改正された。これに反対する入所者の運動は、社会に知られることもなかった。1960(昭和 35)年、世界保健機関(WHO)がハンセン病の隔離政策をやめるようにとの勧告を出すが、これも日本の隔離体制を揺るがすことはできなかった。(二 日本の強制隔離政策(国の責任) ハンセン病国家賠償請求訴訟)
-------------------------------------------------------------------
医療の名を借りた「大衆の国民化」
他のウイルス感染症と同様に、SARS-Cov-2もヒトに感染することによってのみ生きながらえることができる。従ってゼロコロナ運動の目標はCOVID-19患者を撲滅することに他ならない。ゼロコロナを叫ぶ政治家、そして大医達が目指す「ゼロコロナ運動」と,「無癩県運動」,「エイズ撲滅運動」,あるいは「ユダヤ人撲滅運動」のどこがどう違うというのか?「ゼロコロナ」はもやは医療ではない。医療の名を借りた社会運動、ジョージ・モッセの言うところの、「大衆の国民化」である。自殺の急増,出生数/妊娠届/婚姻数の激減も全てこのゼロコロナ運動,
COVID-19に対するstigmaに基づく性行動の自粛で説明可能である。
ゼロコロナ運動の破壊力に比べたらアビガン薬害事件なんぞはお子様ランチ
だった。千代田区しか知らない田舎者達(日本のThe Best and the Brightestとも)の考えたことは癩予防法が成立した90年前と何も変わっていなかった。彼らは歴史から何も学べなかった。それどころか,21世紀に国の敗訴が確定したハンセン病国賠訴訟からさえも何も学ばなかった。挙げ句の果てには90年前の法案の丸写しで利権をむさぼることしか考えられなかった。多くの国民の皆様が記憶から消し去ったはずの無癩県運動の悪夢を思い起こさせてくれた。それがゼロコロナ運動を推進する大医達の最大の功績である。
『”鬼畜SARS-CoV-2撃滅!”と唱えさえすればバカな国民どもはみんなひれ伏す』とでも思ってるのか?
→ゼロコロナって何?(池田信夫 アゴラ こども版 2021年01月22日)
→「日本のアウシュビッツ」と呼ばれた負の遺産
→ハンセン病患者の隔離はアウシュビッツの思想と同じ
→癩予防法の悪夢再び:n度目も悲劇として
→新コロバブルの物語