「世界大戦」は博物館送りになったけれど
お断り:ここを読む前に『「COVID-19との戦い」の意味:国家権力という文脈で考えるCOVID-19』を読んでおくと、このページをより楽しく読むことができます。
今、我々の目の前で繰り広げられている、このどんちゃん騒ぎを見ていると、「世界大戦」という枠組みが、大陸間弾道弾ともども博物館送りになったとことがわかる。どうしてそんなことが言えるのかというと:
第一に,世界大戦という企画そのものが陳腐化したこと。自分に対する大衆の幻覚を維持するために、権力者は「パンと見世物」という原理に従って、仮想敵を設定した上で、今回のようなお祭り騒ぎを企画する必要がある。ただし、どんな企画であれ実行する際には「新奇性」が必須だ。新奇性がなければ大衆は振り向いてくれない。唯一のネタであった「冷戦」も炎上させる前にベルリンの壁とともに消失してしまった。
第二に、19世紀あるいはそれ以前と違って、戦争のプロデューサーである権力者自身が戦争によって権力はもちろんのこと,時には命までも失うリスクが高くなったこと。過去の事例に例外はない。
●第三帝国総統閣下はもちろんのこと、彼のライバルだった「鉄の男」の評判も今や散々だ。
●アメリカのライバルの場合は、戦争指揮の過労と、医師団が彼の持病の高血圧を放置したために、第三帝国総統閣下が身罷る18日前に惜しくも脳出血に斃れた。
●その後釜も、再選で辛勝はしたものの、原爆投下、冷戦開始、朝鮮戦争、マッカーシズムと、悪評ばかりで、高評価を受けた業績は何一つない。
●葉巻が好物のVサインの元祖だって、ドイツが降伏すればお前にはもう用は無いとばかりに、1945年7月の選挙で労働党にあっさり負けた。ポツダム宣言合意の記念写真に写っているのが,彼ではなくクレメント・アトリーなのはそのため。
●キューバやベトナムを舞台に、第三次世界大戦瀬戸際ドラマを演出した張本人の運命は世界中が知っている
第三に、「軍事力」というツールが、お祭り企画に使えなくなってしまったこと。
戦争が勃発する大前提として、「お互いの軍事力が拮抗している」と双方がそう信じ込んでいる必要がある(*)。裏を返せば、たとえ先制攻撃によってぼろぼろにやられても、反撃したらまた倍返しされるだけだと判断したら、やられた方は沈黙するだけだ。これでは戦争は発生しないし、事実そうなっている。
*ただし大東亜戦争は例外。詳細については「経済学者たちの日米開戦」参照
以上の理由で、「世界大戦」のシナリオは博物館行きになった。それに代わって世界中の首脳が競って採用したのが「悪夢の新興感染症との戦い」である。それは「世界大戦」とは大きく異なっているように見える。ところが、本質的には何ら変わるところがない。世界大戦と「悪夢の新興感染症との戦い」の本質的な共通点が「正邪の演出」である。
「COVID-19との戦い」の場合には、一義的な邪悪はSARS-CoV-2のはずなのだが、相手はウイルスだから、邪悪な敵をどうすり替えようと「俺が主役なのに勝手にシナリオをでっち上げるな!!」と抗議の声を上げたりはしない。それをいいことに権力者達は互いに相手を「責任者」呼ばわりする。それが目下進行中の米中の罵倒合戦であり、COVID-19が終息するや否や早速始まる欧州諸国間での不況→経済恐慌に対する責任のなすり合いである。→EU崩壊の引き金を引いたCOVID-19
ユヴァル・ノア・ハラリ「人類はコロナウイルスといかに闘うべきか――今こそグローバルな信頼と団結を(Yuval Noah Harari :In the Battle Against Coronavirus, Humanity Lacks Leadership)」(訳文は全文オープン)
ハラリの言っていることは正論なのであろう。「なのであろう」というのは,私には「正論」を吐く度胸がないし,そもそも「正しい」の何たるかを知らないからだ。私が知っているのは,当人が「正論」と信じて吐き,多くの人が賛同した論が,その当人がこの世から消えてなくなってからは「邪悪な論理」として遺棄された数多の事例だけである。賞味期限前から悪臭を放っていた鉄の男は別としても,古畑種基は文化勲章をもらったし,カール・マルクスは万国の労働者の守護神だった(この点に関連して、映画好きの方は「新ドイツ零年」参照)。
その立場に立てば,「人類」(Humanity)「闘う」(Battle)、Leadership(*)といった言葉を題名に使っていること自体が、ハラリ論説の限界を示している。なぜなら、この3つ揃いは、歴史的にしばしば「正邪の演出」と密接に関連してきたからだ。たとえば、『この3つの言葉は1933年のニュルンベルク党大会のスローガンだった』と嘘をついても、誰も疑わないだろう。そう考えると、タイトルの日本語訳では「Leadership」が訳出されていないことについて下衆の勘ぐりが生まれる。ハラリの出自をふまえれば、まさか総統閣下を気取るわけもなし、たとえ直訳しても何の問題もなかったはずなのだが、サイモン・ヴィーゼンタール・センターに対する訳者独自の「忖度」でも働いたのだろうか。
→「COVID-19との戦い」の意味:国家権力という文脈で考えるCOVID-19
→EU崩壊の引き金を引いたCOVID-19
→[FT] コロナ危機で露呈、無極化した世界 20/4/10 日本経済新聞
→人類滅亡教
→コロナのデマに飽きた人へ
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