サリドマイド問題における報道の検証
ー医薬品副作用被害の「原点」の本質ー
グリュネンタールという名前, この検討の背景,医療事故ビジネスと同様の手法、マスメディアに染みついた隠蔽体質, サリドマイドとその副作用の歴史、日本だけが「どうしようもない駄目な国」だったのか?,各国の被害者数比較,ケルシーの業績は確かだが・・・、永遠に「封印」される米国のサリドマイド被害、FDAに50年間眠っていた資料、胎児毒性・催奇形性の試験は50年代から常識だった! ドイツで却下され、日本で歓迎されたレンツ証言、グリュネンタール社に対する刑事裁判へ西ドイツ政府が干渉、名前が消えた功績者
グリュネンタール社に関するThe Guardianの記事翻訳
グリュネンタールという名前
「西ドイツでは, ケルシーの行動と同等の行動は, 起こり得なかった。なぜなら, 政府は, 医薬品を禁止する権限を有しておらず, 医薬品の回収を命じることしかできなかったからである」(ヘンリー・N・ポンテル, ギルバート・ガイス 小西暁和(訳)日本の経済犯罪におけるパラドックス--サリドマイド禍・ロッキード事件・構造的な政治汚職 埼玉大学経済学会 社会科学論集 2008 (123), 49-63)
この見解は,西ドイツばかりでなく,日本の含めて他の国にも当てはまる.事故が起こる度に,その真の事故原因を究明せずに,役所や企業や政治家をただただ
攻撃するばかりで,事故原因を究明しようとしない自らの不明に気づかなければ,事故は何度でも繰り返される.「薬害」とやらが何度でも起こり,医療事故が
何度でも起こるのは,正に我々自身の不明が為せる技なのである.
サリドマイドの副作用被害者以外で,サリドマイドという名前からグリュネンタールという名前を連想できる人が日本にどれほどいるだろうか.サリドマイド問題に関する日本の報道の最大の問題はグリュネンタールという名前を忘れさせてしまったことにある.他のどこの国でも,サリドマイドとグリュネンタールは切っても切れない.いや,サリドマイドという薬はあっても,グリュネンタールという会社さえなければサリドマイドの副作用被害は起きなかったのだから,たとえサリドマイドという名前は忘れたとしてもグリュネンタールという名前はいつまでも残るのが本来なのだ.そのグリュネンタールは会社が傾くどころか,現在も非常に羽振りがいい.一体そんな金がどこから出てくるのだろうか.
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ドイツのGrunenthalが米国の研究集積地ボストンに進出〜同地区で提携先を探す BioTodayニュースレター 2017年5月12日
痛み・痛風・炎症分野の製薬会社Grunenthalが米国ボストン地区ケンブリッジKendall Squareの拠点オープンを発表しました。米国ボストン地区から痛み、炎症、希少疾患、機器/装置分野の有望なプロジェクトを見つけて開発することを目指します。既に同地区で10の提携が合意に至っていると同社の広報担当者は言っています。
As M&A buzz heats up, Parexel plans 1,200 layoffs; Grunenthal is hiring for its−− new Boston/Cambridge center
Grunenthal Opens Innovation Hub in Boston as Next Step in Strategy to Drive External Innovation in Pain, Specialty Therapeutics and Medical Devices Forward
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いわゆる「薬害」を巡っては、
海外の失敗事例から学ぶどころか、それを隠蔽して市民の学習機会を奪い、、日本の企業と行政を諸悪の根源として攻撃するコンテンツを大量に販売し多大な収益を上げてきたのが日本のマスメディアである。このような薬害ビジネスに騙されないためには、市民自らがメディアを批判的に吟味するメディアリテラシーを持って学んでいくことが、メディアを通して、司法・立法・行政を監視していくことになる。
この検討の背景
このページを書いている2015年は、フランシス・ケルシー(Frances Kathleen Oldham
Kelsey 1914/7/24-2015/8/7)が101歳で亡くなった年として記憶されるはずである。といっても、医師の中でさえも「ケルシーって、誰?」という人がほとんどだろう。サリドマイドの副作用を未然に阻止してケネ
ディ大統領から表彰されたFDAの審査員と言えば、思い当たる人が少しは増えるかもしれないが。
2012年8月31日、サリドマイドを製造販売して多くの国でその副作用被害者を出したドイツの製薬企業グリュネンタール社が、被害者に対して初めて謝罪したことを知っている、そしてそのニュースを今でも覚えているのは、被害者とその支援者に限られているのではないだろうか。むしろ、グリュネンタールがまだ存続していたこと、さらに、50年間にわたって謝罪せず、裁判闘争を続け、一度も負けたことがない(訴訟は判決を受けずにすべて和解で解決)と聞いて、驚く人がほとんどだろう。でもそれは決して国際標準の反応ではない。サリドマイド問題について、日本のマスメディアは数多くの重大な事実を隠蔽してきた。もし、それを知っていたら、日本の市民も決して驚きはしなかっただろうに。
日本では、サリドマイド問題について,企業と旧厚生省を攻撃する人々の声だけが大きく響く.その時,第二次大戦の戦勝国であり,世界一の富と社会インフラを誇っていた米国のFDAと,1952年にGHQによる占領政策が終了しサンフランシスコ講和条約が発効してようやく独立国として歩み始めてから間もない日本の貧弱な社会インフラや、PMDAもICHもインターネットも、どれも影も形もなかった時代、基礎研究者が船便で届いたネイチャーやサイエンスを読んでいた時代に、極東の島国が置かれていた医薬品副作用情報収集の困難さを、冷静に比較分析しようとする声は聞こえてこない.
血友病HIV問題と同様、サリドマイドによる副作用被害は、1950年代末から1960年代初めにかけて、世界各国で重大な問題となった。しかし,日本では今日に至るまで、他国でのサリドマイド副作用被害状況に関する情報が非常に乏しい。サリドマイド被害の大元は、前述のようにグリュネンタール社であり、同社は「completely safe」との宣伝文句とともに、欧州11カ国、アフリカ7カ国、アジア17カ国、北米・南米11カ国の計46カ国でサリドマイドを販売した (The Tragic Children of Thalidomide)。50ヶ国以上とする公式資料もある(Compensation for Thalidomide Survivors).それも多くの国で、医師の処方箋が不要なOTC (over the counter drug)として。サリドマイド被害者は日本とドイツだけではない。販売された46カ国全てでサリドマイドの被害が生じていた。しかも後述するように、欧州のほとんどの国で、日本よりも単位人口当たりの被害者数が多かった。
サリドマイドの被害者は少なく見積もっても全世界で1万人ほどと推定されている。サリドマイドの重篤な副作用がより早期に気づかれて、その情報がより広い範囲で、より多くの人々に共有されていれば、被害をより少なくできたはずだ。将来的に医薬品副作用被害リスクをより低減するために、サリドマイド問題から学ぶべきは、まさにこの点である。
それは日本、米国、ドイツに限らず、被害が及んだ他の国にも目を向けて初めて可能なことであって、被害を回避したと言われている優等生米国と,GHQの占領から1952年に独立(サンフランシスコ講和条約発効は1952年4月)して間もない日本だけ比較して、日本の企業や規制当局を攻撃するのは、家庭教師を雇う余裕のあるお金持ちの家に育った優等生と,給食費を払うのがようやくの貧乏な家庭に育った自分の子供を比較して、「○○ちゃんはあんなによくできるのに、全くお前はできが悪いんだから。もっと頑張らなくちゃだめじゃない」と怒鳴りつけることと同様の愚行である。
一連のサリドマイド問題の報道で聞こえてくるのは,日本の企業・旧厚生省・医師に対する批判・非難だけである.米国や欧州各国の医薬品規制に対する批判は全く聞こえてこない.その根底には敗戦から今日まで続く対米追従主義に基づく思考停止がある.とにかく日本が最悪に決まっているのだから,外国からは学ぶ必要は一切無いとでも言うのだろうか?
薬害ビジネスと医療事故ビジネスの手法は同じ
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[医療ルネサンス]薬害の背景<1>回収遅れたサリドマイド 読売新聞 2015年10月27日
千葉県松戸市の増山ゆかりさん(52)は、右肩の先にある3本の指と、両足を巧みに操って生活する。鏡に向かって座り、目元まで伸ばした足の指で化粧をする。台所では卵を足の指でつかんで割る。 腕が短いのは、1960年前後に世界中で鎮静剤として使われたサリドマイドが原因だ。(中略)
本でサリドマイドの歴史を知ったのは35歳の頃だった。西ドイツでは、胎児の奇形につながることが指摘され、製薬会社が61年11月に回収に踏み切った。日本の製薬会社は西ドイツの情報を得ても、根拠がないと販売を続けた。 62年5月に出荷中止を決めたが、薬局での販売は続き、回収が終わったのは63年後半。増山さんは63年5月に生まれた。高度成長期に産業活動による大気汚染などを「公害」と呼んだことから、企業や行政の過失などで起きる薬による大規模な健康被害を「薬害」と呼ぶようになった。(中略)今、増山さんは、体が不自由でもできる料理を教えている。製薬会社がもっと早く回収していれば、との思いは消えない。「薬害は人災。扱う人間に責任がある」と考えている。
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「不都合な真実」を隠蔽することは個人には憲法で保障されているが,組織はどうだろうか?マスメディアは「許さない」と言う。自分たち自身を例外として。自分たちの作ったシナリオに有利な事実だけをつまみ食いしてシナリオをでっち上げて売りさばき、そのシナリオに少しでも不利な事実は全て隠蔽するのはマスメディアの最も得意とするところである。その典型例が医療事故ビジネスだが、医薬品副作用問題でも全く同じ手法を使って、多大な収益を上げてきた。サリドマイド問題でも、「海外の製薬企業も政府も回収に迅速に動いたため、被害者は最低限に抑えられた。それに対して日本の悪徳製薬企業とその企業と癒着した行政は回収を遅らせて他国を大幅に上回る被害者を出した」という陳腐なデマを被害者に繰り返し吹き込んで企業や行政に対する処罰感情を煽り、「責任追及」を繰り返してきた。この薬害ビジネスの手法は、A子さんが毒殺魔守大助の哀れな被害者であるした北陵クリニック事件や、本質的な事故原因を全て隠蔽したウログラフィン誤使用事故裁判で、マスメディアと検察が一体となって患者・家族、そして市民を騙してきた手法と何ら変わるところはない。
マスメディアに染みついた隠蔽体質
サリドマイド問題の報道にしても,他の医薬品副作用被害報道にしても,マスメディアの報道には,失敗から学ぶ姿勢が欠如している.ジャーナリスト達は失敗を非難・批判することしかできない.失敗から学び,どういう対策を立てれば,次の失敗のリスクを低減できるのか?実行可能性のある提案をして,その対策のアウトカム評価をどうするかという議論を聞いたことがない.それもそのはずである.彼らは企業や行政により失敗が繰り返されることを願っているからである.彼らのできることと言えば,その失敗を非難することだけだからである.
さらに重大な問題なのは,マスメディアが,医薬品副作用被害のリスク低減という本来の報道の目的を忘れ,日本の企業や規制当局を非難することが目的化してしまっていることだ.そうして,海外で起こったことを隠蔽する体質がマスメディアに染みついてしまった.なぜなら,海外の企業や規制当局が日本のカウンターパートよりもっと酷いことをやっていれば,日本の企業や規制当局の非難が非常に困難になるからだ.この場合でも,副作用被害リスク低減策を考え,市民に提案していくことは十分可能であるにもかかわらず.以下に示すのは,これまで,日本のマスメディアが日本の企業や規制当局を非難するために仕立てたシナリオを維持するために隠蔽し続けてきた事実の数々である.
医療事故と同様、事故防止のためには事故原因究明が必須である。典型的な医療事故である医薬品副作用被害でも、それは同様である。それは何よりもサリドマイドの副作用被害者達が願っていた
ことだった。その願いに対して、日本では長い年月をかけて裁判が行われ、企業は賠償し、行政は医薬品の安全体制を整備していった。では、日本と同様に被害者を出した他の国では、どうったのだろうか?そして、なぜ米国だけが優等生扱いされたのだろうか?そう考えると次のような疑問が浮かんでくる。
1.ドイツ、日本以外では、いつ、どのような被害が生じていたのか?その事実はいつどこでどのようにして露見し、情報としてどのように伝播し、誰がどのようにして販売停止とする決断に結びつけたのか?
2.FDAはサリドマイドの安全性に重大な懸念を持っていたために承認しなかったと日本では言われているが、もしそうならば、なぜFDAはその「重大な懸念」を世界各国と共有しようとしなかったのか?
日本のマスメディアは事故が起こる度に、日本の企業や役所や大学の仕業と決めつけ、それらの組織に所属する個人を血祭りに上げることを収益モデルとしてきた。それが医療事故ビジネスであり、これから解説するサリドマイド副作用や血友病HIV問題を利用した薬害ビジネスである。これらのビジネスのからくりは実は非常に単純なものである。現実世界で生じる事故は、複数の組織と大勢の人々が関与し、多数のシステムエラーとヒューマンエラーが組み合わさった結果生じるのに対し、そこからごく一部のヒューマンエラーだけを取り出し、他のエラーを全て隠蔽して、特定の組織、特定の人間が悪事を働いたという虚構を創作・販売し、その特定の組織・特定の個人を血祭りに上げることによって更に大きな収益を上げる。ウログラフィン誤使用事故を巡るマスメディアの報道はその典型例である。
同種の事故が海外でも同様に起こった場合には、日本の企業、日本の行政だけを攻撃する必要に迫られるため、外国で起こった同様の不祥事を全て隠蔽し、あたかも日本以外の全ての国々では、善良な企業と優秀な官僚のおかげで、市民が不幸から免れたという空想医学物語をでっち上げる。それが日本の「バカなマスコミ」の一つ覚えである。ところが、今は海外で公開されている資料は直ぐに手に入るから、この種のペテンは簡単に見破ることができる。それがギリシャ語であろうと、スウェーデン語であろうと、Googleが翻訳してくれる。マスメディアに騙されたくない人間にとっては、ようやくまともなツールが手に入った。
以下に示す検討は、上記の二つの疑問に対し、誰でも入手できる公開情報のみを拠り所に回答を得た結果である。この回答を知れば、「サリドマイド問題における世界に冠たる悪役ナンバーワンは、大日本製薬と旧厚生省である」としてきた日本のマスメディアの真っ赤な嘘が、根底から崩壊することがわかる。
誰でもができる作業をやらないことを不作為という。私は特定の人物についてこの不作為の「責任追及」をするつもりは毛頭無い。私の意図するところは、何かというと「隠蔽」と騒ぎ立て、金儲け目当ての記事をでっち上げて市民に売りつける人々に対し、利益相反に基づいて「不都合な真実」を明らかにしない行為もまた「隠蔽」と呼ばれる、そう指摘することだけである.
サリドマイドとその副作用の歴史
コンテルガン発売(1957/10/1)以前:ドイツのグリュネンタール社(Chemie Grünenthal )により、
サリドマイドが「鎮静作用を併せ持つ、つわりの特効薬」コンテルガン(Contergan)として欧州各国で(処方薬としてではなく)OTCとして売り出されたのが1957年10月1日である。サリドマイド問題の歴史は通常この時点で始まるとされ、その後、欧州ばかりでなく、アジア、アフリカ、南米を含め世界46カ国で販売されることになるわけだが、実はコンテルガン以前にサリドマイドは市販されていた。それも総合感冒薬のOTCとして.というのは、製造販売元のグリュネンタール社が20年間の特許を取得したのが1954年であり、コンテルガンとして売り出される1年前、1956年11月には、Grippexという商品名の「総合感冒薬」として販売を開始していたからだ。ただしGrippexはサリドマイドの単剤ではなく、キニン、ビタミンC,フェナセチン、アスピリンと配合剤だった。(Wikepedia英語版)。つまり、コンテルガンが売り出される1年前からサリドマイドは配合剤として出回っており、コンテルガン発売以降も平行してGrippexも販売されていた点に留意しておく必要がある。ちなみにGrippeはドイツ語で風邪の意味。日本語で言うと「カゼナオール」のような、随分と安易なネーミングだったわけだ。
催奇形性以前に末梢神経障害の副作用が指摘されていた
From 1958 the drug had been widely praised, advertised, and prescribed on the grounds that it was unusually safe―largely because it was almost impossible to commit suicide with it. (Dally A. Thalidomide: was the tragedy preventable? Lancet 1998;351:1197-9)
グリュネンタールがサリドマイドを万病に効く魔法の薬として世界各国に盛んに売り込んでいたことは,The Tragic Children of Thalidomideに詳細な記述がある.コンテルガンは当初、バルビツールに比べて、翌朝に眠気が残らず、大量服薬による自殺につながらない(「サリドマイドでは自殺できない」は宣伝文句の一つだった)、「優れた睡眠薬」として販売された.ストレス・いらいらに対する「鎮静作用」から、泣き止まない子どもを手っ取り早くおとなしくさせて眠らせる効果も謳われて爆発的に売れた。このため,サリドマイドは当時「西ドイツのベピーシッター」と呼ばれたほどであったという(Taussig HB. A study of the German outbreak of phocomelia. The thalidomide syndrome.JAMA 1962;180:1106-14) 「妊婦も安心して使える」として、「つわり」への効能効果が謳われたのはその後である。
売れれば売れるほど副作用も目立って来るのは世の常である。催奇形性が判明する前に、サリドマイドで頻度の高い副作用として末梢神経障害はすでに1959年以来指摘されるようになり、同年にはグリュネンタールは副作用被害賠償請求に対応するため、弁護士に秘密裏に相談していた。1960年12月31日付けのBMJには、スコットランドの田舎町Turriffの一開業医Leslie Florenceがサリドマイドによる末梢神経障害に関するレター(Br Med J 1960;2:1954) が掲載された。このFlorenceの報告と同時期の1960年末、英国でDistavalという商品名でサリドマイドを販売していたDistillers (DCBL)は、添付文書に末梢神経障害に対する警告の文章を掲載せざるを得なくなった(Compensation for Thalidomide Survivors).しかし,この時,グリュネンタール社は何も行動を起こさなかった。
それだけではない。このFlorenceの報告は、それよりほんの3ヶ月ちょっと前の1960年9月12日にサリドマイドの承認申請を受け、申請者のMerrellから強い圧力を受けていたケルシーにとって非常に強い味方となったのである。1961年2月に、Florenceの報告を読んで意を強くしたケルシーは、自分の専門とする胎盤の通過と胎児毒性についての試験を申請者のMerrellに求めていくことになる(後述)。肝心のグリュネンタールと言えば、ようやく1961年の5月になって添付文書に末梢神経障害の警告文を掲載したが、末梢神経障害の副作用被害を被ったのは4万人とも言われている(Financial Times Thalidomide: not over yet September 22, 2007)。サリドマイドの被害者が全世界で1万人と言われているので、末梢神経障害の副作用被害が如何に大規模だったがわかる。
情報鎖国の中で:当時の日本が置かれていた状況:特に医薬品副作用情報の収集と伝達について
Natureを始めとするトップジャーナルが船便で1ヶ月遅れで日本に届いていた時代である.今では想像もつかないことだが,末梢神経障害のような重要な副作用情報も,Distillersによる添付文書への警告記載も,FlorenceによるBMJのレターでの報告も,何もかもが日本には全く伝わらなかった.そして後述するように2012年に謝罪するまで,サリドマイドの催奇形性を頑として認めなかったグリュネンタールがネガティブな情報を積極的に外に出すはずがなかった.日本でサリドマイドを製造・販売していた大日本製薬に末梢神経障害の副作用など届くはずがなかったのである.研究者も,医師も,薬に関する海外の情報と言えば,Nature, Scienceといった基礎系のトップジャーナルばかりに注目していた時代である.BMJのレターなど読むわけがない.ましてや,マスメディアや,旧厚生省が知るわけがない.誰も何も知らずに,日本のサリドマイド販売は続いた.敗戦の焼け野原から,驚異的な努力で様々な社会インフラを整備し,ようやく日常生活が「欧米並み」になった当時の日本で,医薬品の副作用情報を迅速に収集する体制などあるわけがなかった.
実際に厚生省自身は1962年9月18日の回収以前には,国内での副作用発生は一例も把握していなかった.そもそも,医師から厚生省に対して副作用症例報告の仕組みさえ存在しなかったのである.そんなていたらくだった.さらに,賠償金問題に早晩直面することを覚悟していたグリュネンタール社はサリドマイドに関するネガティブな情報は一切出さなかった.そんな悪条件だらけの中で日本の医師・研究者達は精一杯動いた.当時北海道大学小児科学教室講師だった梶井正氏の,日本でのサリドマイド副作用症例に関するレターが,マクブライド,レンツらのレターから半年以上遅れたとはいえ,1962年7月21日にランセットに掲載されたのは,傑出した業績と言えよう.そういう当時の状況を考えもせずに,後出しじゃんけんで,特定の企業が悪,旧厚生省が悪い,症例を見逃した医者が悪いと,犯人捜しばかりしても,悲劇の再来を防げるはずがなかったのである.
マクブライドの警告も黙殺された
日本では,表向きには,1961年11月15日,レンツによるグリュネンタール社への電話での警告が最も早いと言われており,11月26日の回収の指示は,グリュネンタール社がこの警告を認めたからであるかのように伝えられているが,下記に示すように実際には11月26日に新聞(Welt am Sonntag)にレンツ警告の記事が出てしまったために,あわててとりあえず回収したに過ぎない(平沢正夫『あざらしっ子 ― 薬禍はこうしてあなたを襲う』三一書房).もしも,Welt am Sonntagが出なければ,50年経って初めて謝罪したほど,徹底抗戦してきたグリュネンタール社のことだから,回収指示はもっと遅れていただろう.ちょうどマクブライドの警告が黙殺されたように.
オーストラリアの産科医ウィリアム・マクブライド(William McBride)は,1961年12月16日,世界で最初に公開学術文書(ランセット論文)でサリドマイドの催奇形性を報告したが,実は口頭による企業の警告でも,レンツよりもさらに早く,1961年6月に,オーストラリア・ニュージーランドでサリドマイドを販売していたDistillersの当時の幹部William Pooleに対し電話で警告したのだが,その警告は黙殺され,Distillersはその後半年以上にわたって,サリドマイドを有効で安全な薬として売りまくり,政府に対して保険償還を働きかけてさえいたのである.(Company knew risk of thalidomide six months before it was pulled, says book 2015.5.24 The Guardian)
日本だけが「どうしようもない駄目な国」だったのか?
グリュネンタール社の「一貫した」姿勢と「粘り腰」
グリュネンタール社は現在でも存続している.一度も潰れてはいない.またグリュネンタール社は,2012年に謝罪するまで,サリドマイドと胎児への影響の因果関係を認めていなかった.これはサリドマイドの催奇形性が疫学調査で示されただけで,2010年にサリドマイドがセレブロンという四肢の発達に重要なタンパク質を阻害することが発見されるまで,生物学的な因果関係が証明されていなかったためである(*).これはちょうどタバコ会社が様々な癌や心血管疾患に対するタバコの因果関係を認めないことと同様である.この一貫したグリュネンタールの姿勢は,これまで一度も訴訟で負けていないという実績につながっている.グリュネンタールが賠償金を支払ったのは訴訟で負けたためではなく,いずれも示談・和解によってである.(Dukes NMG, Swartz B. Responsibility for drug-induced injury: a reference book for lawyers, the health professions and manufacturers. 1988 Amsterdam : Elsevier).さらにグリュネンタール社は1967年に始まった刑事訴訟でも,サリドマイド回収の端緒となる警告を発したレンツの証言を排除し,1970年に裁判停止に持ち込んだため,グリュネンタール社は刑事罰を受けていない.(後述).
いわゆる「レンツ警告」の弱点とセレブロン仮説
1961年11月15日のレンツ警告(文書ではなく,電話による)後に同社が極めて迅速に回収に応じたように見えるのは,決してレンツの疫学調査の結果を受け入れたからではなく,11月26日に新聞(Welt am Sonntag)にレンツ警告の記事が出てしまったために,あわててとりあえず回収したに過ぎない(平沢正夫『あざらしっ子 ― 薬禍はこうしてあなたを襲う』三一書房).なお,この11月26日のWelt am Sonntagの記事で,レンツはdessen Name er nicht nannteとして原因薬物名を明らかにしていない(Anders verlaufende Gefäßsysteme: Contergan-Schäden größer als bisher gedacht).それだけレンツは慎重,裏を返せば,レンツ自身,サリドマイドの催奇形性に関して,疫学調査のデータだけでは確信が持てなかったということを推測させる.これはレンツの検討があくまで疫学的研究であって,何らかの交絡因子の影響をどうしても排除できなかったからである.上記の刑事裁判で,レンツの証言が排除されたのも,正にこの点を突かれたものである(デイヴィッド・ヒーリー 抗うつ薬の功罪 みすず書房).
*ただし,サリドマイドよりも強力なセレブロン阻害薬であるpomalidomideポマリドマイドに催奇形性が認められないとして,セレブロン説に疑問を投げかける向きもある.下記は Wikipedia Thalidomideより) .もしかしたらcereblon-Fgf8 pathwayには何らかのredundant pathwayがあって,それが,chick and zebrafish embryosの場合には発達しており,ヒト胎児で,サリドマイド感受性の時期はそのredundant pathwayが発達していないので,cereblon-Fgf8 pathway阻害の影響がもろに出るというようなストーリーなのかもしれない.
Thalidomide binds to and inactivates the protein cereblon, which is important in limb formation[Science. 2010 327(5971):1345-50] and for the proliferative capacity of myeloma cells. This was confirmed in studies that reduced the production of cereblon in developing chick and zebrafish embryos using genetic techniques. These embryos had defects similar to those treated with thalidomide.
However, the finding that cereblon inhibition is responsible for the teratogenic activity of thalidomide in the chick and zebrafish was cast into doubt due to a recent report that pomalidomide, a more potent thalidomide analog, does not cause teratogenic effects in these same model systems despite the fact that it is a stronger inhibitor of cereblon than thalidomide.[Proc Natl Acad Sci U S A. 2013; 110(31): 12703–12708],[Leukemia. 2012 Nov; 26(11): 2326–2335]
各国の被害者数比較:回収指示は遅れたが被害者数は実は少なかった日本
サリドマイド禍は欧州だけでなく、サリドマイドが販売された世界46カ国に及んだはずである。しかし、全ての国でその被害状況が明らかになっているわけではない。ここでは、主にネット上の資料を基に,私の個人的な検索でわかる範囲で欧州の被害状況を調査した結果である.単位人口あたりのサリドマイド副作用被害者数を算定、その被害規模を比較してみた。被害が全世界的に問題となった1960年当時の人口を元にして、単位人口あたりの数値で日本と北米・西欧のいくつかの比較すると、次のようになる。患者実数はWikepedia(日本語版、英語版)他、から、1960年当時の人口は、世界の人口(1950〜2010年の推移)を
参考にした。日本における単位人口あたりの被害者と比較した比率(括弧内は実人数)。
各国での販売停止,及び回収の時期を考える時に,その国での販売がグリュネンタールによって行われていたのか,あるいはグリュネンタール以外の会社がグリュネンタールと契約を結ぶことによって製造・販売していたのかという点は留意しておく必要がある.というのは,前述のように,グリュネンタール社自身が,サリドマイドと催奇形性の関係を50年間にわたって否定してきたぐらいだから,日本の大日本製薬を含め、海外で販売している他社にはサリドマイドに関するネガティブな情報は出さなかったからである.スペインの子会社に対しては、副作用情報を外に漏らすなと指示し、なんと1980年代まで(!)コンテルガンの販売が継続された(Sunday Times Magazine covers the tragic Spanish story)。グリュネンタール自身が1961年11月27日に回収を開始した時でさえ、「新聞が騒ぎ始めたからやむなく回収を支持したのであって、コンテルガンの催奇形性を認めたわけではない」と主張し、以降、50年間にわたって謝罪しなかったグリュネンタールの「回収指示」を額面通り受け取れるわけがない。その点だけでも、グリュネンタールが、さも良心的な会社であるかのようにサリドマイド被害者を騙し続けている日本のマスメディアの罪は重大である。
日本 309人:販売開始1958年 1月、1962年5月17日に大日本製薬が出荷停止(同日朝日新聞が報道),同年9月18日に回収開始.FDAがケルシーの判断に基づいて承認を拒否して,Merrellが申請を取り下げたのが62年3月8日だから,遅くともこの日までに戦勝国アメリカのFDAがサリドマイドに関する安全性情報と規制当局としての判断を厚生省に対して連絡していれば回収は半年以上早まっていたのである.しかしそうしなかった.FDAは敗戦国の人間の命などどうでもいいと考えていた何よりの証拠である.
ドイツ 12.5倍(3049人):販売開始1957年10月1日、回収開始1961年11月27日
英国 2.6倍(466人):販売開始1958年4月、回収開始1961年12月。英国の被害者数については資料により多少差はあるが,ここでは2010年1月の英国政府による謝罪と補償の際に発表された466人という数字を示した。
カナダ 1.9倍(115人):処方箋薬としての販売開始は1961年4月1日だが、1959年後半から既に「試供品」として出回っていた。出荷停止は1962年3月2日だが、あくまで販売停止であって,回収開始は遅れて同年5月中旬まではカナダ国内の一部の薬局では販売が継続されていた.スペイン,イタリア,ポルトガルやブラジルでも回収が遅れた(Thalidomide Victims Association of Canada)。なお、実はケルシーは、ブリティッシュコロンビア州生まれのカナダ人である。彼女は合衆国には貢献できても,母国カナダには貢献できなかったわけだが,彼女がカナダ人であることは、母国カナダでもほとんど知られていないようである。(Canadian doctor averted disaster by keeping thalidomide out of the U.S.The Globe and Mail Nov. 24, 2014)
スウェーデン
4.3倍(107人):販売開始1959年1月、回収開始1961年12月12日 Neurosedynの商品名でAstraが販売した(The Swedish Thalidomide Socieity)
スペイン 30倍(3000人):1970年代から80年代まで、サリドマイドは出回っていた。スペインでの最年少被害者は1985年生まれである。これは国の規制が杜撰だったために、グリュネンタールがマドリッドにある子会社に対し、裁判をより有利に導くため、スペインの医師達に安全性情報を提供しないように仕向けたためである.また1975年まで続いたフランコ政権下では,北欧諸国のように医薬品規制制度は整備されず,メディアが医薬品副作用被害を積極的に報道することもなかった,このような特殊事情も手伝って,スペインではいまだにサリドマイド被害者に対し補償が行われていない.(Spanish victims of thalidomide meet Pope Francis. Guardian 2015/6/24、Sunday Times Magazine covers the tragic Spanish story)
オーストラリアとニュージーランド:2.4倍(100人):正確な人数は不明だが,2013年12月に英Diageo社(当時オーストラリアとニュージーランドでサリドマイドを販売したDistillers 社を1986年に買収した会社)に対する訴訟で810万豪ドルの賠償を勝ち取った被害者数は100人以上と言われるので,ここでは仮に100人として算出した.販売開始と回収開始の年月日は私が調べた限りでは不明。
アイルランド共和国 3.4倍(32人):販売は1958年-1962年.34人は公式の数字だが,1963年3月23日付けのVictoria Coffey医師の手紙では87人という数字が挙げられている.(Compensation for Thalidomide Survivors April 2010).
欧州の被害拡大:回収通知に実効性に疑問
1962年5月17日の大日本製薬の出荷停止も、朝日新聞が同日夕刊で第一報を報じた。しかしこの時はまだ誰も日本国内での被害者の実態を把握し
ていなかった。その時点で出荷を停止した大日本製薬の出荷停止は、被害を実際に把握していたレンツの警告を受けてから回収を始めたグリュネンタールと比較
すればむしろ判断は速かったとも言える。
その後、日本で初めて副作用被害が文書で確認されたのが、7月21日、北海道大学小児科学教室の梶井正講師によるランセットへのレターである (Lancet 1962;280(7247):151)。後述の マクブライドの
レターとそれに対するレンツの返事、そして梶井のレターと、サリドマイドの副作用報告を学術的な裏付けのある文書として多くの関係者が目にする媒体がラン
セットであった事実は,副作用報告を行政や企業にフィードバックして行動させる仕組みが,当時は世界のどの国にも存在しなかったことを物語っている.
回収が遅れた日本で被害が一番少なく、欧州各国,カナダ,オーストラリアとニュージーランド,いずれの国でも,日本を上回る被害が出ている。被害拡大を阻止するためには,製造販売企業による回収指示のタイミングだけではなく,その実効性が非常に重要だったことを示している.つまり,たとえ製造販売企業が回収を指示しても,それが迅速・広範・かつ隅々にまで行き渡り,かつ末端の薬局で実際に回収されなければ全く意味が無い.スペインやアイルランドの事例を見ると,
以下に紹介するのは,アイルランドのオンラインメディア The Journal ieの2013年12月16日付けの記事,Irish government deliberately didn’t issue warning about Thalidomideからの抜粋である.医薬品の市販後安全性に対する問題意識が如何に希薄だったかを物語っている。
これを読むと,1961年の冬にドイツや英国と同様に回収の呼びかけはあったが,アイルランド保健省は翌62年6月になっても「我が国ではサリドマイドの催奇形性の明確なエビデンスはないが,疑いはあるので注意が必要」とのコメントを出しただけだったことがわかる.そして回収が終わったかに見えた6ヶ月後になっても,「各家庭で保存されているサリドマイドについては公に広報したとしても対して効果は無いだろうから,医師会長宛に通知を出すに留めた」という,到底監視とは言えない非常に杜撰な体制になっていたことがわかる
The note says that thalidomide, which was first sold in Ireland in 1959, came under suspicion in 1961. When UK and German manufacturers suspended distribution in winter 1961, Irish distributors followed suit, asking chemists, wholesalers and doctors to return any stock of the drug they had.
A Department of Health conference in June 1962 noted that there as “no definite evidence in this country of a connection between Thalidomide and the occurrence of defects in infants”. Nonetheless, it accepted that “the drug was so suspect that precautions were necessary”.
Six months after the drug was supposed to have been withdrawn, the Department said that any supplies which had already reached domestic stocks presented a special problem “which could be tackled only by public announcements”.The note states: “This step was regarded as undesirable and it was thought that, even if it were taken, it would prove largely ineffective”.Instead, a circular was issued to Chief Medical Officers asking them to look after returning unused stocks.
Thalidomide survivors’ groups say the ineffective recall meant some women continued to take the drug. A total of 20 of the 32 Irish Thalidomide survivors are currently engaged in legal action against the State, with mediation discussions due to get underway in the new year. (Irish government deliberately didn’t issue warning about Thalidomide)
サリドマイドは医薬品副作用の被害が全世界規模でほぼ同時に発生した初めての出来事だった。それまでサリドマイドのような医薬品副作用の大事故を
経験していなかった人々が,企業から舞い込んでくる紙切れにどれほどの注意を払っただろうか?そもそも,その注意喚起が,その国の全ての薬局に行き渡り,
その薬局の薬剤師が必ず目を通し,在庫のサリドマイドを全て回収して,企業に送りつけるなんて離れ業が,英国のように地下鉄一つ時間通り動かせない人々に
できるわけがなかったのである.
国内外比較のデータは,さらに上記の二つの疑問に対する答えを考えにあたって,重要なヒントをを示している.
1.日本を含めて米国以外の世界各国に共通した医薬品規制の問題,つまり,医薬品に対してFDAのような強い権限を持った規制当局はまだ存在していなかったことが,米国以外での被害拡大の主な原因となったとを示している.
2.FDAは米国以外の国の市民の健康には一切関知しない.FDAはあくまで米国民が払う税金に支えられている組織であり,その米国民に奉仕するのがFDAの使命である.もしFDAが米国以外の市民のために働くとしたら,米国民は黙っていない.だからサリドマイドの安全性にケルシーやFDAがどんな重大な懸念を持っていようと,それをわざわざ欧州各国,ましてやつい十数年ほど前に戦争状態にあった日本に教える義務などどこにもなかったのである.象徴的なのは,ケルシーがケネディ大統領に表彰(President's Award for Distinguished Federal Civilian Service)された日である.それは1961年8月4日,つまり大日本製薬が回収を決定した9月18日よりも1ヶ月以上前に,もたつく敗戦国日本を嘲笑うかのごとく,米国大統領は表彰式を行ったのである.
ケルシーの業績は確かだが・・・
ケルシーの業績は2001年のFDA Consumer magazine March-April 2001に掲載されており、誰でも読むことができる。ケルシーがサリドマイドの承認を阻止したおかげで、隣国カナダ(*)を含めて世界の多くの国々が苦しんだサリドマイド禍を、米国は回避できたと一般には信じられている。確かに、承認薬としては米国ではサリドマイドは出回らなかった。この点について、たとえ承認審査に携わった経験がなくても、医薬品の開発を少しでもかじった経験のある人間ならば、必ず以下の二つの疑問が生じるはずである。(*前述のように、実はケルシーは、ブリティッシュコロンビア州生まれのカナダ人である)
●ケルシーは一体全体何を根拠に欧州各国ですでに流通していたサリドマイドの承認を、断固として拒絶できたのだろうか?
●もし、サリドマイドの安全性に対して重大な懸念があって承認を拒絶しつづけいたのだとしたら、その懸念をなぜ各国の担当者と共有しなかったのだろうか?Lenzはグリュネンタールからどんなに攻撃されても、自分の疫学研究の成果を公表したではないか。ケルシーは「手柄を独り占めしていい子になりすまし、大統領から表彰されたトンデモ審査員」ではなかったのだろうか?
米国での承認申請とその取り下げの経過は以下のように考えられていた。1958年、グリュネンタールはサリドマイドを米国で販売するために、オハイオ州シンシナティにあるWilliam S Merrell
Company (後のRichardson-Merrell→ 後のMarionMerrell
Dow →後のSanofi)と契約を結んだ。Merrell
は1959年2月に動物実験と臨床試験を平行して開始し、1959年5月には臨床試験に妊婦も組み入れた(Thalidomide in America)。Merrell
その後、サリドマイドをKevadonの商品名で1960年9月12日に承認申請した。それはなんとケルシーがFDAに赴任してわずか1ヶ月後のことであり、サリドマイドは彼女にとって初めての審査品目だった。
Merrell は申請した1960年のクリスマス前(つまり申請から3ヶ月以内!)には承認を得たい&得られるものと思っていた(FDA Consum. 2001 Mar-Apr;35(2):24-9)。なんとなれば、親はクリスマスに子どもを早めに寝かしつけたいからである。何て正直な人達なんでしょう!
Richardson-Merrell may have been "over-eager," Kelsey admits. "They were particularly disappointed because Christmas is apparently the season for sedatives and hypnotics (sleeping pills). They kept calling me, and then just came right out and said, 'We want to get this drug on the market before Christmas, because that is when our best sales are.'"
承認申請後1ヶ月でseeding trialを初めてしまうような態度(下記)からも容易に類推されるように、Merrellは申請当初からFDAに着任して1ヶ月しか経たないケルシーをなめてかかっていた。しかし彼らの提出した非臨床・臨床試験は非常に杜撰なものであり、「欧州でもイングランドでも非常に評判が良くて売れ行きのいい薬だと主張を繰り返すだけだった。私を言うことを聞かせるのは赤ん坊の手をひねるように簡単だと思っていたのでしょうね」(“They figured it was so popular in Europe,” Dr. Kelsey says, “so I would be a pushover.”)とケルシーは述べている。(Thalidomide Victims Association of Canada)
優秀な新人の特性として、ケルシーは規則を厳格に守り、Merrellに対してまともな臨床・非臨床試験を要求した。しかし、承認申請後1ヶ月で(つまり承認前に!)seeding trialを初めてしまうようなMerrellに、臨床にせよ非臨床にせよ、まともな試験ができるわけがなかった。結局Merrellの提出したデータ(そもそもデータと呼べる代物を提出したのかどうかも怪しいのだが)はケルシー
の納得するところではなかった。何度かやりとりが繰り返された後、重要な転換点がやってきた。1960年12月31日付けのBMJに,サリドマイドによる末梢神経障害に関するレター(Br Med J 1960;2:1954) が掲載され,1961年2月にはケルシーもそのレターを読むことになった.そして英国でDistavalという商品名でサリドマイドを販売していたDistillers (DCBL)が、1960年末に添付文書に末梢神経障害に対する警告の文章を掲載したのである(上記)。
In February 1961, she read a letter in The British Medical Journal from a doctor who suggested that thalidomide might be causing a numbing condition in arms and legs. She notified Merrell, and the company began its own inquiry. In May, she told Merrell that the drug might affect the limbs of fetuses. The company called the evidence inconclusive. “I had the feeling,” she wrote after a meeting with company executives, “that they were at no time being wholly frank with me, and that this attitude has obtained in all our conferences, etc., regarding this drug.”(New York Times August 7 2015)
それから攻守所が変わり、ケルシーは自分の最も関心の高い胎児毒性の非臨床試験を要求した。というのは、FDAに赴任するはるか以前、1938年にPhDの博士号を取ったシカゴ大学で、すでに医薬品の胎盤通過と胎児への影響を研究していたからである。特に1939年に第二次大戦が始まり、1941年には日米が開戦し、戦地での兵士のマラリア感染が重大な問題になっていた折り、キニーネに代わる合成抗マラリア薬の研究は当時から非常に盛んだった。その中でケルシーはウサギを用いた動物実験により、古くから知られているキニーネが胎盤を通過し、胎児に悪影響を及ぼすことをすでに1942年の時点で掴んでいた。ケルシーにとって,サリドマイドの胎盤通過性は絶対に譲れないデータだったが、Merellに対応できるわけがなく、ただただケルシーに圧力をかけ続けるだけだった。そして、申請から1年余りが経過した1961年11月27日に、グリュネンタールが販売停止と回収を決定した。それでもまだMerrellは粘り、申請を取り下げたのはその4ヶ月後の62年3月8日だった(Thalidomide Chemical & Engineering News)。遅くともこの日までに戦勝国アメリカのFDAがサリドマイドに関する安全性情報と規制当局としての判断を厚生省に対して連絡していれば回収は半年以上早まっていたのである.しかしそうしなかった.FDAは敗戦国の人間の命などどうでもいいと考えていた何よりの証拠である.
1937年のエリキシール・スルファニルアミド事件(抗菌剤シロップに甘味をつけるために加えられたジエチレングリコールによる中毒で、児童を中心に100名を越す死者が出た事件)をきっかけとして制定された法令(1938 Law)によってFDAが生まれた.1938 Lawは,当然のことながら,新有効成分の承認申請にあたって,安全性試験を義務付けていた.1960年にFDAにやってきた新米審査官は,,赴任後1ヶ月で最初に担当したサリドマイドの申請に対し,これも当然のことながら,安全性試験を厳密に要求した.何と言ってもそのために審査官が存在していたのだから.それをMerrellは理解できていなかった.以上が全世界的な理解だった。少なくとも2010年までは。
注:下記がサリドマイドの副作用に関するレターとして最も早いものである。いずれもグリュネンタールが販売停止・回収した11月27日よりも後に出ていることに注意。有名な「レンツ警告」は1961年11月に出たことになっているが、それは論文・レターの形ではなく、グリュネンタール社に対して11月15日に口頭(電話)で行われたと言われている。英国やオーストラリアではもっぱらマクブライドの指摘の方が採り上げられ,レンツの警告に関してはほとんど言及がない.たとえば,サリドマイドに関するGuardianの年表にはマクブライドだけでレンツの名は載っていない.
McBride, W.G.: Thalidomide and congenital abnormalities, Lancet 2:1358 (Dec. 16) 1961.
Lenz, W.: Kindliche Missbildungen nach Medikament wahrend der Gravidität, Deutsch Med Wschr 86:2555-2556 (Dec. 29) 1961.
Lenz, W.: Thalidomide and congenital anomalies, Lancet 1:45 (Jan. 6) 1962.
永遠に「封印」される米国のサリドマイド被害
1960年9月2日のFDAへの承認申請の1ヶ月後(!)、Merrell はKevadon Hospital
Programと称する大規模な「臨床試験」を開始した。つまり承認前にすでにseeding
trialを開始してしまった。このKevadon
Hospital
Programにおいて、1267人の医師を通して提供されたサリドマイドは250万錠、処方された人数は2万人にも上ると言われる。そういうトンデモ臨床試験が、Kevadon
Hospital Programだった(Thalidomide in America、Financial Times記事)。米国の被害者はこのKevadon
Hospital Programサリドマイドを提供されたと言われている。その数はFDAによれば17人(FDA Consumer magazine March-April 2001)とされているが、2010年3月15日付けのニューヨークタイムズによれば40人となっている。実際にはアメリカでの被害者数は正確にはわかっていないし、今後とも調査が行われることもない。それは以下の理由による。
Kevadon Hospital
Programにより米国内で流通したサリドマイドは250万錠にも上る(Thalidomide in America、Financial Times記事)。これは1958年4月から1961年の3月までの3年間で英国で販売された640万錠(The Tragic Children of Thalidomide)の実に4割にも当たる。英国での被害者数が466人だから、単純計算すると200人近くの被害者が米国でも発生していたことになる。しかし、「FDAはサリドマイドの被害を阻止した」という伝説が世界中に流布してしまった以上、いまさらFDA自らが進んでその伝説を真っ向から否定するような行動を取ることはありえない。さらに、Kevadon Hospital
Programは、承認前のもぐりの臨床試験だったから、サリドマイドの流通販売状況をFDAが把握していたわけではない。その上、処方された患者のその後の経過について、医師は報告義務を負っていなかったため、何も記録が残っていない。
さらに、サリドマイドの副作用被害者の認定業務も、その気になればいくらでも恣意的に診断基準を操作できる。というのは、サリドマイドによる四肢の障害だけでも様々な変異があるからだ。Sunday Times Magazineの記事の写真を見ると左右非対称の障害を持った被害者がいる。一方米国では、サリドマイド被害は左右対称のはずだから、左右非対称の場合には認定されないという事例も報告されている。こんな体たらくだから、米国でのサリドマイド禍の実数はだれも明確に把握できていないし、今後とも明確になる可能性は無い。
60年後に明らかになった米国での真実
と思っていたら、関係者の努力により、US Thalidomide Survivors (USTS) により、The True Story of Thalidomide in the USというサイトが2018年にできていたことがわかった!このサイトによれば、少なくとも60人以上の被害者がいることがわかっている。また様々な資料から新たに明らかになった事実も公開されているので、関心のある方は御覧になることをお薦めする。ここまで来ると、やはり米国と比較して日本を非難する前世紀型の薬害訴訟には、もはや限界があると言わざるを得ない。今後は日本における事実関係を明らかにすることによって初めて勝訴が見込めることになっていくだろう(2021/11/2更新)
偽りの名声を維持せんがために,自国のサリドマイド被害者達を黙殺してきたし,これからも確実に黙殺し続けていくFDA.自国民の命もないがしろにするような組織が日本人の命など構うはずがない.サリドマイド被害に国境はないことは当時からわかっていたことだった.にもかかわらず,FDAは日本に対してサリドマイドの安全性に関する懸念を一切伝えなかった.自国のサリドマイド被害を隠蔽し続けるFDAとそのFDAを崇め続ける日本のジャーナリスト達は,米国の被害者ばかりでなく,日本の市民と日本のサリドマイド被害者をも裏切っていることになる.
50年間にわたったFDAによる隠蔽と日米マスメディアの黙殺
さらに、2005年にケルシーが90歳で(!)FDAを引退してから5年後の2010年になって、実はMerrellが承認申請する以前に起こった重大な事実をFDAが掴んでいたことがわかった。グリュネンタール社は、Merrellと契約する以前の1956年に、Smith, Kline & French (SKF 現在の GlaxoSmithKline GSK) を介して米国にも売り込みをかけていた。グリュネンタールのアプローチを受けて、SKFは動物実験とともに、875人(その中には妊婦も含まれていた)を対象にした臨床試験を1956年から57年にかけて行った。その一連の開発の中で、SKFの研究者は、すでに1956年の時点で、グリュネンタール社がヒトに対する有効であるとする用量の60-650倍(!)の用量を投与しても、マウスが眠らないことを見いだしていた(*)。さらに臨床試験に組み入れられた妊婦の一人から、1958年8月に生まれた児に奇形が見いだされたことも記録されていた。こうして1958年、SKFはグリュネンタールに対してサリドマイドの開発・販売承認申請を断った。以上の経緯を記した資料が、なんと(GSKではなく!)FDAに保存されていたことが、サリドマイド禍から50年近く経った2010年に初めて明らかになった。(以上は、Thalidomide in America、Wikepedia英語版、Financial Times記事による)
(*1956年の時点でSKFがサリドマイドに鎮静・催眠作用が認められないと考えていたのは、2010年に初めて判明したわけではなく、1987年4月に開示された文書「The Tragic Children of Thalidomide」にすでに「totally worthless as a sedative」と記載されている。ただし、その根拠は示されていない)
以上の事実について、ケルシーが関知していたという証拠は全く無いし、またケルシーは以上の事実と無関係にサリドマイドの承認を拒絶している。だとすると、ケルシーの上司を含めたFDAの幹部は以上の事実を知りながら、ケルシーにはそれを伏せていたことになる。ではなぜ50年間も隠していたのだろうか?サリドマイドは世界のベストセラー。Merellはすぐにも承認され、クリスマス商戦には十分間に合うだろうと思って申請してきている。しかし実はSKFの試験でぼろぼろの結果が出ており、SKFが販売を断ったイカサマ薬だとのネタをFDAは掴んでいた。その申請を拒絶しようとすれば、Merellは大変な圧力をかけてくるだろう。そんな仕事は誰もやりたくない。だから何も知らない新米のケルシーに押しつけてしまえ。入職して1か月しか経たない新人審査官の最初の審査品目として、よりによってサリドマイドを任せたのは、そういう筋書き以外に考えられないではないか。
結果は瓢箪から駒。上述のように新米審査官、怖い物知らずのケルシーは孤軍奮闘・徹底抗戦して、FDAは「市民の安全に貢献する正義の役所」という国際的な名声を獲得した。そうなったら、SKFの実験データやグリュネンタールとの契約解除の資料など、百害あって一利なしとFDA幹部は判断して、関連情報を隠蔽したのである。「とてもよく効く魔法の薬が、実は全然効かない」という事実を、ケルシーだけでなく、ケルシーの母国であるカナダを含めた他国へもっと早く知らせていれば、より早いthalidomideの市場撤退と副作用被害をより少なくできたであろうにもかかわらず。このFDAの隠蔽に対し,米国のサリドマイド「薬害」被害者は抗議・非難の声を上げてはいるが(Thalidomide in America、Financial Times記事),米国のマスメディアはそれを決して取り上げようとはしない.まして況んや日本のマスメディアをや.
2010年は、ケルシーの名を冠したDrug Safety Excellence Awardが ケルシーに与えられた(つまり彼女が第一回の受賞者)年である。そしてグリュネンタールが正式に謝罪したのが、その2年後の2012年。このタイミングは非常に深刻な問題を示唆している。もし、FDAに「眠っていた」資料が50年前に開示され、サリドマイドの副作用被害を被った世界各国と共有されていれば、グリュネンタールの謝罪に50年を要することは決してなかっただろうし、そもそも世界中の被害者達が補償問題で何十年にもわたって苦しむこともなかっただろう。もちろん米国における被害者も含めて。ところが,FDAは自らの偽りの名声のために,米国の被害者を隠蔽した.そんなFDAにとって自国以外の被害者なんてどうでもいいのだ.自国民の命もないがしろにするような組織が日本人の命など構うはずがない.FDAを崇める日本のマスメディアのお目出度さは正にここにある.
ケルシーだけが特別に偉かったのか?
今でこそ胎児毒性の検討は、いかなる医薬品の承認申請あたっても必須とされるが、当時はそもそも規制当局という概念がなかった。だからこそ新有効成分であるサリドマイドが、米国以外のどこの国でも、いきなりOTCとして出てしまったのである。そんな時代にサリドマイドの申請に対して胎児毒性の試験を要求したケルシーには「素晴らしい先見の明があった」。そう考えている人は多いし、実際に2012年のグリュネンタールの謝罪でも、「50年前の当時は、胎児毒性・催奇形性の検討は必ずしも必要とされていなかった」“Grünenthal acted,” he said, “in accordance with the state of scientific knowledge and all industry standards for testing new drugs that were relevant and acknowledged in the 1950s and 1960s.”と主張している。しかし、サリドマイドハンターの異名を取るロイターのハロルド・エバンスによれば、それは真っ赤な嘘だという(Harold Evans Thalidomide’s big lie overshadows corporate apology Reuter September 12, 2012) 下記はその記事からの引用である。
It is 39 years since, as editor of the Sunday Times of London in the early seventies, I was associated with thalidomide investigations. Our survey of the scientific literature, consultations with reputable pharmaceutical companies and independent specialist advice swiftly found that reproductive studies were routinely done in the 1950s, because it was widely recognized that a drug could indeed reach the fetus. The tranquilizers in direct competition with thalidomide were all tested for teratogenic effects and the results published. If reproductive tests had been done on thalidomide, they would not necessarily have shown precisely what deformities would be produced, dependent on the time of ingestion in relation to the development of the fetus, but they would certainly have shown that drugs could endanger unborn children in some way.
We went to see the pharmacologists. An investigative reporter visited the laboratories of Hoffman-LaRoche in New Jersey, producers of Librium, Valium and Mogadon, and checked their records. Reproductive testing had been routine since 1944. So, too, with Lederle, Burroughs Wellcome, Pfizer, SmithKline and ICI in Britain. Dr. G. Edward Paget, director of Inveresk Research Institute, a member of the Medicines Commission and the World Health Organization Expert Committee, and author or joint author of some 48 distinguished publications, said that as a toxicologist, he, and others like him worldwide, were testing drugs on pregnant animals in the fifties. “Any ICI drug likely to be used by pregnant women would have certainly been tested for its effect on pregnant animals.” All this we published in the newspaper and in books.
オーストラリア人の産科医Norman Greggが先天性風疹症候群を報告したのは1941年である。母体に侵入した感染症病原体に代表される外来性の因子が、直接あるいは間接的に胎児に悪影響を及ぼすことは、サリドマイドよりもはるかに以前から知られていた。胎児に対するアルコールの悪影響は既に19世紀から知られていた。医薬品の胎児への影響に関しても、1960年にPharmacological Reviewにすでに大部の総説が出ている(Baker JB. The effects of drugs on the foetus.Pharmacol Rev. 1960 Mar;12:37-90.)1960年に総説がでているぐらいだから、それ以前からたくさん研究があったことになる。その証拠にこの総説には354もの文献が引用されている。
さらに驚くべき事は、グリュネンタールは、自分の会社の研究者の論文(BLASIU AP.[Experiences with contergan in gynecology].Med Klin (Munich). 1958 May 2;53(18):800.)さえも、変造(というより捏造ですな、ほとんど)して、安全性を主張した。産後授乳期の褥婦に投与した結果を妊婦に投与したことにしてしまったのである!
Deception was the pattern for Chemie Grünenthal. On May 2, 1958, Dr. Augustin Peter Blasiu, who was retained by the company, published the results of using Contergan on 370 patients of whom 160 were nursing (not expectant) mothers: “Side effects were not observed either with mothers or babies.” Grünenthal distorted Dr. Blasiu’s careful report with a cunning promotional letter giving the impression he had tested Contergan on expectant mothers (my italics):
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Dear Doctors,
In pregnancy and during birth the female organism is under great stress. Sleeplessness, unrest and tension are constant complaints. The prescription of a sedative and hypnotic that will hurt neither the mother nor child is therefore often necessary.
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Blasiu did not see this material before a mass mailing. He condemned the Grünenthal letter as “unfair, irresponsible and misleading.” His anger made no difference.
本来味方にすべき自分の会社の研究者まで裏切り、怒らせてしまうような会社が勝てるわけがない。
以上を総合すると、ケルシーだけが時代を先取りしていたのではなく、サリドマイド以前にも医薬品の胎児毒性・催奇形性の懸念を、研究者、医療者、そして行政担当者の間で共有できる「素地」はあった。ただ、それを、催奇形性を研究していた研究者を含め多くの人が、研究成果を現実世界に生かす努力をしなかった (Lancet 1998;351:1197-9) 。これは、サリドマイドの副作用被害が明らかになるまでは、胎盤が「胎児を守る完璧なバリアーである」という「信仰」が根強かったためである。この「信仰」は何も日本に根強かったのではない。世界中で同様の信仰が根強かった(Lancet 1998;351:1197-9) 。ケルシーは他の人が本来もっと早くに手をつけておくべきだったことを敢然と遂行した。それがケルシーの功績である。
ドイツで却下され、日本で歓迎されたレンツ証言
以下は,ヘンリー・N・ポンテル, ギルバート・ガイス 小西暁和(訳)日本の経済犯罪におけるパラドックス--サリドマイド禍・ロッキード事件・構造的な政治汚職 埼玉大学経済学会 社会科学論集 2008 (123), 49-63 からの引用である.いささか長くなるが,グリュネンタールに警告した後のレンツが置かれた立場を記載した資料が乏しいのでここにそのまま引用する次第である(*1).こうやって日独の裁判を比較検討すると,「最初から製薬会社の側に立っていた」(木田盈四郎)のは日本政府よりもむしろ西ドイツ政府の方であったことがよくわかる(*2)
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(引用開始)1967 年に, 西ドイツ政府は(*2), サリドマイドが招いた危機的状況の結果として, 18 名の被告人に対する刑事訴追を行った。その主要な罪責は,被告人達が, きちんとこの薬を治験したり, この薬の危険性に関する警告に留意したりするのを怠り, その代わりに不利な情報を隠そうとしていたというものであった。その公判は, 1968 年1 月から1970 年12 月まで3 年間続いた。それは, この国の歴史上で最も長い期間にわたる司法的判断となった。こうした公判で, 判事団は, 60 名の専門家を含む120 名の証人から証言を聞いた。被告人側弁護人は, 主要な専門家証人であったレンツを激しく攻撃した。14 ヵ月後に提起された申立てが功を奏し, 彼の証言は却下されることになった。彼は, 手紙のやりとりの中で自分がサリドマイド中毒の被害者の側に立っていることを明らかにしていたので,
先入観に捕われた(befangen)人物であるということが, その理由であった。この訴訟の進行が止まった時には, いかなる判決も下されなかった。裁判所は, この刑事事件はもはや全く公益を欠いているため手続は停止されることになる, という奇妙な宣言を出した(*2)。製造会社がサリドマイドによる被害者に補償をするための基金を設立することに同意した時に, 全ての罪責は, 不問に付されることになった。やがて,およそ2,866 名の人が支払金を受け取った(Curran 1971)。医薬品が市場に出回るまでの手続を変えるための取り組みがなされた。しかし,アーサー・デームリッヒ(Arthur Daemmrich)(2002, 14 ; さらにはDaemmrich 2004, 5065 参照) は, 「その後もドイツでは医学界・産業界・政府の間で権限を分配するシステムが維持された」と述べている。
我々の比較研究の目的にとって幸いなことにも,レンツは, 日本国内でのサリドマイドの使用が元となった日本での裁判手続に参加するように要請された。日本でその薬害が蔓延した絶頂期は, この薬がもはやドイツでは市場に出されなくなった時に来た。木田盈四郎は, 日本政府がサリドマイドによる危機的状況に対処するために適切な措置を講じなかったことに厳しい判断を下している。そこで, 木田は, 「この問題に対処する際の日本政府の態度は, 他の国々とは全く違っていた」と記している。「政府は, 最初から製薬会社の側に立っていて, 長い時間をかけてようやくサリドマイドが関連する様々な問題の原因であるという結論に至った」。彼は, 「こうした態度は今日まではびこっている」と付言している(Kida 1987, 2)。
レンツは, 1971 年に日本にやって来て, サリドマイドを販売していた大日本製薬に対する訴訟で証言を行った。彼は, 東京の裁判所の様子が,ドイツで経験していたのとは「際立って違って」いることに気がついた。「言葉遣いが口調や表現においてより一層丁寧であったということだけではない。被告側の弁護士は, 一層よく事情に通じており, 事実により関心があるように見えた。さらに, こうした弁護士は, 侮辱的なあてこすりで対立する側の人達の面目を失わせたいとはそれほど思っていないようにも見えた」。両当事者は刑事(ママ *3)事件に決着を付けることを強く望んでいるのだが, 被害者達はむしろ賠償請求に有利な決定を手に入れたがっている, という噂が立っていた(Lenz 1992)。1974 年10 月までに, さらに3 年を要して, ようやく東京や日本中の他のいくつかの都市で最終的な和解が成立した。日本の厚生省は, 全体として300 名のサリドマイドによる被害者を認定するに至った。(引用終わり)
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*1 この論文には以下に述べるように上に引用した部分以外は,事実誤認,誤りが非常に多く,論文の名に値しない.まずこの論文に掲載されている,ロッキード事件その他の経済事件に対する著者らの評価は,事件当時のマスメディアの報道そのまま,検察の垂れ流しをそのまま記事にするだけしか能が無い日本の「事件記者」達の見解の丸写しに過ぎない.この論文が出た2008年には,『宮本雅史 歪んだ正義 角川書店
(2003年に出た当時は情報センター出版局)』を始めとして優れた検察批判書がすでに豊富に出回っていたにもかかわらずである.日本語が読めなくたって,検察の現状を知る手段はいくらでもあるのに、それを怠るような研究者に「日本の経済犯罪」などと偉そうに論考する資格はない.この論文を読む方々はこういった点に注意されたい.ロッキード事件についネット上で手っ取り早く知るには→田中角栄、ロッキード事件40年後の「驚愕証言」,特捜検事を騙した医師
*2 グリュネンタールの不作為 (negligence)を問うこの裁判で、西ドイツ政府があたかも同社を刑事訴追する側に立ったように表現しているが、事実は全く逆である。この刑事裁判が判決無しに途中で公判停止となったのは、実は西ドイツ政府がグリュネンタールに不利な判決が出ないように裁判所に干渉したからである。→下記
なお、裁判が始まったのは1967年ではなく、1968年5月27日である。非常に重要な裁判の公判開始日までデタラメを書くのが、この論文の特徴である。
*3 日本では企業に対しても行政に対しても刑事訴追は行われていないので,これは誤り.また,本論文では,米国でのサリドマイド被害について,「米国ではわずか17 の奇形の事例が判明しただけであり, しかも全員, 外国から薬を入手した女性であった(Bren 2001)」(P52)とあるが,上記に説明した通り,米国での被害はMerellにより米国内で流通していたサリドマイドによるものであり,Brenの記事にもそのように説明されているので,この点も明らかな誤りである.著者はBrenの記事を読まずに,一般に流布されている風説を元に執筆したとしか考えられず,このような重大な部分で事実と異なる説明をするのは,研究者としての良心が疑われる.他の部分についてはそのようなことがないことを望んでいるが,私が一つ一つ検証したわけではない.
グリュネンタール社の刑事訴追へ西ドイツ政府が干渉し公判停止となる
政府が裁判所に干渉するという、驚くべき憲法違反行為は、長い間疑われつつも、明確な証拠がなかった。それが初めて明らかになったのは、2014年、英国のThalidomide
Trustが法律事務所Ince &
Coに依頼して、ドイツのノルトラインウェストファーレン州に保存されていた裁判資料を検討して、当時の西ドイツ連邦政府による、グリュネンタール社刑事訴追裁判への干渉の証拠を見いだしてからである(Reuters, The Guardian)。しかし、欧州で大々的に報道されたこのニュースは、日本では一切報道されていない。マスメディアが沈黙するのは、決まって自分にとって都合の悪い知らせの時であることを考えればすぐに合点がいく。もしこのスキャンダルを報じれば、サリドマイド問題における、世界に冠たる悪役ナンバーワンは、大日本製薬と旧厚生省であるとしてきた真っ赤な嘘が、根底から崩壊するからである。詳しくはReuters, The Guardianを参照されたい。
参考
グリュネンタールとナチスの結びつきを解説したサイト→Thalidomide, Grünenthal and the Nazi Connection
グリュネンタールはあの悪名高きI・G・ファルベンと密接な関係を持ち、I・G・ファルベンは「国際企業」としてスタンダード石油(現エクソン、海外ブランド名は「エッソ」)を始めとするアメリカの企業とも密接な関係を持っていた→ナチスとアメリカ企業の協力関係
マクブライドの名前が消えたわけ
サリドマイドの副作用被害が語られる時、必ず出てくるのがケルシーとレンツである。もう一人の功績者、レンツとは独立して、ほぼ同時期にサリドマイドの副作用を報告したウィリアム・マクブライド(McBride, W.G.: Thalidomide and congenital abnormalities, Lancet 2:1358 (Dec. 16) 1961)の名前が消えてしまった理由をご存じの方は、ケルシーの名前をご存じの方よりも,もっと少ないだろう。
ランセットのレター1本で一躍ヒーローとなったマクブライドは、1962年、オーストラリア賞(Australian of the Year)を受賞し、その賞金と寄付金で、小児疾患を研究するFoundation 41という財団を創設した。しかし、その後の財団の業績ははかばかしくなかった。その中でも、とびきりはかばかしくなかった というか、結局10年後にマクブライドを転落させることになったのが、1982年にマクブライドが筆頭著者となってスコポラミンの催奇形性を報告した論文である(McBride WG, Vardy PH, French J. Effects of scopolamine hydrobromide on the development of the chick and rabbit embryo. Aust J Biol Sci. 1982;35(2):173-8)。マクブライドはこの論文も根拠にして、Bendectinに対する大規模な訴訟で原告側の証人となった.
Bendictin(後の米国での商品名はDiclegis。英国での商品名はDebendox)は,pyridoxineつまりビタミンB6と抗ヒスタミン剤であるdoxylamineの配合剤であり,1956年にFDAによって承認されていた.その効能効果はなんと,「つわり止め」! 1956年といえば,グリュネンタールがサリドマイドをドイツで販売開始する1年前,MerellがサリドマイドをFDAに承認申請する4年も前である。に催奇形性があるとして,Merrell Dowを相手取って起こされた膨大な数の訴訟の原告側の証人になったのである。
結局マクブライドの上記論文以外には、催奇形性の明確な科学的根拠がなかったのだが、Bendectin/Debendoxの製造販売企業であるMerrell Dowは、300以上の訴訟と、年間1000万ドルもの損失を抱え込むことになり、Bendectin/Debendoxは1983年に市場から一旦撤退に追い込まれた(Jane E. Brody SHADOW OF DOUBT WIPES OUT BENDECTIN New York Times June 19, 1983)。マクブライドが筆頭著者となった上記論文がFoundation41の調査委員会からデータ改ざんと認定され、彼が財団から解雇されたのは、Bendectin/Debendoxの市場撤退から5年後の1988年11月だった。そして、ニュー・サウス・ウェールズ医療裁判所が、やはりデータ改ざんがあったとして、マクブライドの医師免許登録を停止したのは
Bendectin/Debendoxの市場撤退から10年後の1993年だった(Nature. 1993 Feb 25;361(6414):673)(Thalidomide doctor' guilty of medical fraud)。
このようなマクブライドの転落は,その後のオーストラリアのサリドマイド被害訴訟に重大な影響を与えたと思われる.というのは,サリドマイド被害訴訟が始まったのは,サリドマイド問題発生後,50年も経った2010年に始まり,2013年にようやく決着を見たからである.
私が彼の事績を検討して最も疑問に思ったのは以下の点である.後に捏造があると認定されたマクブライドの論文は,スコポラミンの催奇形性についてであった.一方,Bendectinの有効成分はpyridoxineつまりビタミンB6と抗ヒスタミン剤(H1ブロッカー)であるdoxylamineであって,スコポラミンとは全く違っている.そもそも,この根本的な点からしてマクブライドの主張は見当違い,今から考えるとどう見ても言いがかりとしか言えないような証人だったのだが,当時もそして今も,この肝心の点について言及した記事,論考は私が検索した限りでは見あたらない.もし,このあたりの経緯をご存じの方がいらしたら教えて頂きたい.
なお,彼の転落の経緯を語った日本語の資料はきわめて乏しいか、あるい正確性を欠いたものが多いので、詳細を正確に知りたい方は英語の記事を参照されたい。ここでは特定の資料を挙げることはしない。なぜなら、William Mcbride thalidomide Bendectin
Debendoxで検索すれば、いくらでも出てくるのだから。
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