医療事故裁判が隠蔽する「不都合な真実」
「習政権、天津爆発で責任追及へ 批判かわす狙い」(日本経済新聞 2015/8/19)
国や事故の種別を問わず、責任追及の目的は批判をかわすことであって、事故原因究明でも事故防止でもありません。高濃度カリウム製剤誤投与事故に見られるような同種事故の反復は、業務上過失致死傷罪(業過罪)を問う医療事故裁判の底流に、「責任追及→批判をかわす→裁判→事故原因隠蔽→事故再発→責任追及」という事故再生産サイクルが存在することを示しています。今回は2015年7月14日に一審判決(禁固1年、執行猶予3年)が言い渡されたウログラフィン誤使用事故裁判(以下、本裁判)による事故原因の隠蔽と事故再生産への貢献を検証します.
責任追及が事故原因を隠蔽する
医療事故裁判は、そのシステム自体が必然的に事故原因を隠蔽する構造になっています。なぜなら、全ての診療が複数の医薬品、複数の医療機器、複数のシステムが関与してチームで行われる環境下で医療事故が発生するのに、裁判では、事故原因の究明を被告人一人の業過罪にすり替えてしまうからです。下記は、本裁判で隠蔽された膨大な数の事故原因の、ほんの一部に過ぎません.
1. 脊髄造影をやらなければ患者さんを失わずに済んだ
MRI普及率がダントツの世界一である我が国はもちろん(関連記事)、海外でも(Radiology Research and Practice)、ペースメーカー装着のような特殊な場合を除き、腰部脊柱管狭窄症における脊髄造影を原則不要とする意見は多々あっても、MRI使用可能環境下で脊髄造影の適応を明確に示した研究は見当たりません。
2. ウログラフィンを脊髄造影に使用不可能にするシステムは十分構築可能だった
オーダリングの際に、脊髄造影という検査名を入れるとウログラフィンがオーダーできないようにしておけば、そもそもこの事故は起こりませんでした。今や衝突回避システムの開発に自動車メーカー各社がしのぎを削る時代です。この事故が起こったナショナルセンター病院よりも、はるかに予算も人員も少ない民間病院で、治療用医薬品の併用禁忌チェックシステム、さらには注射薬監査支援システムにより、ウログラフィンを脊髄造影に使用できない体制が既に構築・稼働されていたのです。
3. 救命可能性は十分あった
ウログラフィンを始めとした高浸透圧性イオン性造影剤の脊髄造影への誤使用事故例をまとめた報告(Eur Radiol 12 Suppl 3:S86-93)によれば、32例中21例、実に3例に2例が救命されています。この32例の中には東北大学(Intensive
Care Med 1988;15:55-57)と、三重大学(Intensive
Care Med 19:232-234)から各2例ずつ合計4例の救命例も含まれています。いずれの論文でも、髄液より比重が重い造影剤を腰髄以下の髄腔内に留めることにより、それより上位の神経毒性を減弱する座位保持や、造影剤を除去するための髄腔内の潅流(intrathecal
lavage)といった、造影剤事故特異的な治療法の重要性が強調されています。今回の事故で、病院長名で公開された報告書に記された通り、事故原因が判明したのが死亡後だったとすれば、造影剤事故特異的な治療は行われずに患者さんを失ったことになります。
裁判が隠蔽する「不都合な真実」と事故再生産
事故の「責任」は全て被告人にあることを「立証」し、被告人の罪をなるべく重くする使命を負った検察官にとって、事故原因はどれも有罪立証に不利に働く邪魔物にほかなりません。「どうすれば事故を防げたか?」「どうすれば患者さんを失わずに済んだか」――。この最も本質的で素朴な疑問をすべて無視し、最良証拠主義(下記注も参照のこと)に基づき事故原因を隠蔽(検察官用語では「非開示」)するのが検察官の使命です。
上記の事故原因は、いずれも単独で検察官の大切な業過罪シナリオを一挙に崩壊させる「ちゃぶ台返し」になりますから、もしもそんな「不都合な真実」の一つでも言い立てるような「空気が読めない」医師がいたとしても、直ちに検察官によって天下のやぶ医者と誹謗中傷され、その意見書も全面的に否定されていたでしょう。
業過罪を問う医療事故裁判では、弁護人も事故原因分析のために積極的に動くことはありません。特に本裁判のように事実認定に争いがない場合、もし弁護人が検察官に事故原因を含めた証拠開示を執拗に求めれば、「この期に及んでも他人に責任をなすりつけようとする往生際の悪い被告人」という印象を関係者に与え、情状主張に不利になるだけです。
一方、事故に関係した医療者達が事故原因について完全黙秘を保っているのは、「何人も、自己に不利益な供述を強要されない」とある日本国憲法第38条を遵守するだけで、ありがたいことに検察官から刑事免責が自動発券されるからです。マスメディアによる「責任追及」が、末端医療者への「責任転嫁」・事故原因究明の刑事罰へのすり替えといった卑劣な責任回避行動を誘発した構図は、北陵クリニック事件や高濃度カリウム製剤誤投与事故と瓜二つでした。
かくして本裁判でも、関係者一同が業過罪という名の予定調和に向けて粛々と公判を進めた結果、マスメディアと検察官が最良の事故防止策と主張するところの「厳罰」が被告人に言い渡されました。同様の事故がそれまでに6件も裁かれてきたウログラフィン誤使用事故の再生産サイクルは、こうしてまたもや温存されたのです。
業過罪により末端の医療者だけを厳罰に処す裁判そのものが、事故原因を隠蔽するシステムエラーであり、事故防止どころか事故再生産サイクルを支えている。さらには上記の3つの事故原因のうち一つでも対処できていれば、患者さんは死なずに済み被告人も医師としてのキャリアを継続できた。そんな「不都合な真実」の数々が、一般市民にはもちろん当事者である患者・家族にさえ隠されているとしたら、それは一体誰の「責任」でしょうか?
ここで留意すべきは,弁護人が必ずしも検察官の主張に不利となる材料をすべて把握しているとは限らないことです.実際には捜査した資料はすべて警察から検察に渡されているのですから,多くの場合,弁護人は徒手空拳も同様の状態で戦うことになります.さらにウログラフィン事故裁判では事実認定に争いがなく,無罪を勝ち取る可能性が実質的に皆無なのですから,弁護人は事故原因究明や事故防止の議論で公判を引き延ばしても得る物は少ないと判断するかもしれません.業過罪裁判は事故調査委員会ではありませんから,これは現実的な判断であり,非難されるものではありません.
一方,事故原因が被告人の診療行為以外に求められる有力な証拠を検察官が掴んでいたとしても,裁判官から開示を命令されない限り,検察官はそれを開示する必要はありません.これは,日本の刑事裁判では,専ら検察官が証拠収集を行い、被告を有罪にするために必要な証拠のみを裁判所に提出すればよいという「考え方」(法令ではありません)に基づきます(最良証拠主義).袴田巌さんが逮捕されてから来年で50年になりますが、この間検察の主張を支えてきたのも、この最良証拠主義です。現在も継続中の袴田事件抗告審で、弁護側の開示要求に対し、検察側が一審当時から「存在しない」と主張し続けて来た、 5点の衣類の写真のネガフィルムが、実際には警察で保管されていた事が判明し、検察側は謝罪しましたが(2014/08/05 共同通信)、これが氷山の一角ではないという証拠はどこにもありません。
科学研究者は,自分の実験データの正しさを証明するために,いつでも実験ノートを提出する用意ができています.医師は自分が適切に診療を行っている証拠として,診療行為の都度,診療録を書きます.一方,検官は,無謬の神である自分の仕事が疑われることなど金輪際あり得ないと思っています.そんな検察官の自信や,中世裁判の象徴である有罪率99.9%という数字や,袴田事件や北陵クリニック事件を含む数多くの冤罪事件を支えてきたのも,この悪名高き最良証拠主義です.
以下は参考資料
→ウログラフィン誤使用事故事例検討(さらに詳しく知りたい人向け.論点がきれいに整理されておらず,ごちゃごちゃして読みにくいかも)
→Vol.155 だんまりを決め込む人たち –ウログラフィン誤投与事件の責任の所在−(なお,この記事によれば,この事故の前に起こった同様の事故は7件あり,すでに同じ単純誤薬で9人が亡くなり、7人が有罪となっているとのことである)
→事故調検討会で日本医療機能評価機構監事を務める弁護士が「発言過誤」:弁護士にとっては,「刑事訴追に至る例が4%というが,そんなもんはものの数ではない」とのこと.「本音トーク」ですね.
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