Pathography

病跡学とは

 病跡学とは、宮本忠雄氏によれば「精神的に傑出した歴史的人物の精神医学的伝記やその系統的研究をさす」、福島章氏によれば「簡単にいうと、精神医学や心理学の知識をつかって、天才の個性と創造性を研究しようというもの」です。病跡学という用語は、ドイツの精神科医メービウスが20世紀初頭に造語したパトグラフィー(Pathographie)の翻訳で、他に、病誌・病蹟などとも訳されますが、こうした研究領域は古代からの天才研究にその源流をみる向きもあります。加藤敏氏は「学際的領域に位置して、創造性と精神的逸脱の関係を探ろうとする病跡学の独自性は、精神医学が築き上げた疾病概念や病態把握、および癒しといった観点から、人間の創造性に光を当てるという問題枠に求められる」と述べています。

 何らかの精神障害を病んだ天才の病理と創造性を論じるのが狭義の病跡学研究といえるでしょうが、現在、それに留まらず、病跡学の範囲は広がっています。対象となる「天才」も、従来、好んで取り上げられた小説家や画家のほかに、音楽家や写真家、さらには科学や政治あるいは哲学の分野の天才も俎上に載せられています。また、狭義の精神障害のない天才の生涯と創造を心理学的あるいは精神分析的に辿っていく研究、近親者の精神疾患が創作者に及ぼす影響の研究など、その裾野は広がっています。

 中谷陽二氏は天才研究のほかに、病理としての表現、精神分析的な作品分析にも病跡学の主要な端緒を認めています。特に傑出したとされるわけではない「普通の」患者の描いた作品において、その病理と創造性の関係を論じるのが表現病理であり、こうした方向の関心はアウトサイダー・アート(アール・ブリュット)への注目と結びついています。他方、芸術活動の治療的側面に関しては、芸術療法の実践とも関連を持った分野です。また、精神分析的な作品分析はフロイト自身が手を染めており、病跡学ともかかわりの深い分野といえましょう。

 病跡学に関する総説としては次のようなものがあります。


宮本忠雄:パトグラフィー研究の諸問題.異常心理学講座第9巻、みずす書房、東京、1973.(宮本忠雄:病跡研究集成──創造と表現の精神病理.金剛出版、東京、1997.に収載)

福島 章:パトグラフィー1965~1977.精神医学 19:664、1977

福島 章:天才の創造性.荻野恒一、宮本忠雄編:現代精神医学大系第25巻、文化と精神医学.中山書店、東京、1981.(福島 章:続天才の精神分析.新曜社、東京、1984.に収載)

中谷陽二:パトグラフィーの歴史と方法.福島 章、中谷陽二編:パトグラフィーへの招待.金剛出版、東京、2000.

加藤 敏:病跡学の今日.精神医学 43:118-127、2001.(加藤 敏:創造性の精神分析──ルソー・ヘルダーリン・ハイデガー.新曜社、東京、2002.に収載)