検察という病:無医村としての検察
ー千代田区霞ヶ関1-1-1にある無医村の患者達:その信仰の病態ー

病気を呪うことによって退散させることができれば,医者は失業してしまうだろうが,日本国内だけでも30万人近くの医者がいるという事実は,病気を呪っても駆逐できないことの証左である.全く同様に,「検察はひどい」と,何万回愚痴を言っても,冤罪は決して無くならないし,「悪代官から事故調を守れ!」と,どんなに大声で叫んでも,事故調調査報告書の証拠としての価値は変わらない.病気を治療するためには,適切に診断し,病因・病態を解明する必要がある.検察という病も全く同様である.

霞が関にある「無医村」

東京のど真ん中に無医村がある。無医村の所在地は千代田区霞が関1-1-1。そこに検察庁がある。この上も無い一等地に居を構える検察庁が無医村になっているのには十分な理由がある。そこに棲息する患者達に、全く病識がないのだ。無医村になっているのは、住人が皆、医者なんて要らないと堅く信じているからだ。21世紀の天動説であるところの北陵クリニック事件における筋弛緩剤中毒説が、世界中でも検察庁の中だけで信仰されているのも、この無医村という検察庁の特質に全面的に依存している。

検察が「すごい組織だ」と,長年根拠もなく思考停止していた我々は,いきなり「検察が無医村だ」という逆のスローガンを聞いて,決して反感は覚えずに「そんなこともあるかもしれないな」と,これまた根拠なく思考停止してしまう.では,検察無医村説の根拠はどこにあるのだろうか?そんな素朴な疑問が検察に対する思考停止を解除する.まずは制度面から見ていこう.ちなみに下記は国家機密でもなんでもない.いずれも公開情報から無理なく判断できることである.「検察のベール」なんてのは,我々自身が作ってきた幻に過ぎない.

1.検察庁には厚労省の医系技官に相当するような,医師の技官のポジションがない.矯正医官は検察庁とは全く別組織である法務省矯正局に所属し刑務所,少年院,少年鑑別所の収容施設における被収容者の健康管理が業務であって,一般社会の医療事故には全く関わらない.つまりあくまで塀の中の診療が仕事であって,塀の外で活動する医療者と検察庁の関わりである業務上過失には一切関与しない.検察庁の仕事に矯正医官が関与することは決してない.
2.医療者を業務上過失で逮捕,起訴する過程で臨床医が意思決定に加わることはない.もちろん,「自白調書」を作製する過程にも.一方,眼科の再生医療の開発を行っているベンチャーと今や50人の臨床医を擁するPMDAとの面談では,PMDA所属の眼科医が同席する.もちろん心筋梗塞の新規治療開発についての面談の際には循環器内科医が同席する.その背景には人間の人生や命に関する意思決定の場には規制当局からも臨床医が参加する必要があるという社会常識が存在する.
3.委嘱可能な外部委員もいない.検察が医事案件を「相談」するのはもっぱら大学法医学教授であるが,法医学教授は臨床医ではない.さらに捜査関係者そのものという重大な利益相反問題を抱えている.またその相談内容は一切記録に残されない.外部の臨床医に鑑定を依頼する際も,その専門性や中立性・利益相反は全く考慮されない(というより,当然ながら検察官には全く判断できない).
4.上記1,2,3の問題点に対する検察の危機意識はゼロである.それは,検察改革のための分野別専門委員会には臨床医の関与は全くないことからもよくわかる.

上記1-4の構造的な数々の問題が,北陵クリニック事件に象徴される冤罪事件となって表出する.

検察ムラに見られる特異な症候
有罪依存症: これはすぐにわかりますよね。有罪にせずにはいられない病です。これは個々の検察官レベルではどうにもならない制度上の問題が絡んでいます。一旦起訴すると起訴を取り下げることが許されない仕組みになっているのです。法令上では、法務大臣がハンコを押せば起訴は取り下げられるのですが、実際には法務大臣の机に決裁書がたどり着くまでに何十もの検察庁内の関所を通らねばならないのです。全ての起訴は、御聖断を仰がなければ一歩も引くことができなかったガダルカナルというわけです。そのうちに抗命事例が頻発したインパール作戦になるかどうかは??。
失敗否認型認知症(DDM)と検察改革失敗否認型認知症(DDM)の詳しい解説を読むと、典型的なDDM患者ムラである検察に絶望してしまう方もいらっしゃるかもしれません。しかし、木っ端役人の真似をして、できない理由探しをするのは止めましょう。検察に絶望する必要は全くないと私は思っています。その理由は以下の通りです。

To err is human. 「人は誰でも間違える」をスローガンに掲げたInstitute of Medicine(IOM)の報告書が出たのが2000年。米国医療界でさえ、DDMが公式の報告書に上がったのがわずか15年前、それはちょうど北陵クリニック「事件」が起こった年なのです。それから、太平洋の向こう側だけでなく、日本の医療界もDDMのリスク低減に業界を挙げて取り組んで、ここまできました。ここを読んでくださっているみなさんが、「ドクターX]をコメディとして捉えられる。そんな世の中になったのです。我々自身が先行事例なのです。さらに検察は非常に小さな(検察官の定員は2014年度で2734人)かつ旧帝国陸軍に類似した、トップダウンで全てが動く、典型的なピラミッド組織です。医師だけでも30万人いて、薬価一つ決めるのにも様々なステークホルダーの利害関係を調整しなくてはならない巨大な医療界とは訳が違います。我々の医療界で起きたことが検察で起こらないわけがない。検察でもDDMの病識が徐々に自覚されるようになり,ついには必ず大きな変化が起こります。それは崩壊とも改革とも鑑別できない、様々な濃度のグレーが入り交じったまだら模様のような変化が年余にわたって、それも内部から自然に起こります。だからこそ我々は混乱に備えなければならない。そう私が考えるのは以下の根拠からです。

冤罪という名の不良債権バブルすでに起こった未来
DDM患者ムラである検察では,冤罪という名の不良債権が積み上がっています.今,再審請求が行われている冤罪事件は,そんな不良債権氷山の一角に過ぎません.DDM患者ムラである検察が積み上げた不良債権に対するサイレントクレーマーは増加の一途を辿っているわけです.政治家を逮捕し刑務所に入れ、メディアに対しては厳密な報道管制を敷ける。検察は現代日本における最強の国家権力です。最強の国家権力に対してクレームを言い立てるような変人はほんの一握りであって、クレーマーの中に占めるサイレントクレーマーの比率は刑事裁判の有罪率と同じくらいでしょう。つまり、郷原信郎さん(検察が危ない)や市川寛さん(検事失格)といった「脱北者」の証言通り、今の検察は旧ソビエト共産党あるいは38度線以北の朝鮮半島にある最高権力と同様の立場にあり、市民の99.9%はサイレントクレーマーというわけです。そういう最強の国家権力の命運は誰の目にも明らかです。それが「いつ」になるかは誰にもわかりませんが、いつかは検察は必ずやソビエト共産党が経験したような変化の波を被り、決して崩壊しないように見えた再審の壁は,冤罪という名の検察不良債権バブルが崩壊して,ベルリンの壁と同様の運命を辿るのです。

すでに起こり、後戻りのないことであって、10年後、20年後に影響をもたらすことについて知ることには、大いに意味がある。しかも、そのような既に起こった未来を明らかにし、備えることは可能である」(上田惇生訳『P.F.ドラッカー経営論集-すでに始まった21世紀』ダイヤモンド社,1998,5頁

郷原さんや市川さんといった脱北者の証言を待つまでもなく、現在の検察は誰が見ても泥舟です。一方、法曹免許は伊達じゃありません。検察官一人一人は非常に優秀です。だからさすがに検察内部の人間にも、今の検察が,ロッキード事件の成功体験=大艦巨砲主義の権化である戦艦大和であり、刑事裁判を取り巻く現代の状況を戦争中に喩えると沖縄戦直前であることぐらいの認識は持っています。あとは彼らがどうするのかだけです。DDMの病識を失った集団のまま、警察はもちろん(彼らは検察のことなんか構っていられませんもの)、もう自分たちの分の救命ボートをしっかり確保しているであろう裁判所からも、総員退避指令がすでに出ている御用学者達からも、全て見放されても、敢えて鉄屑と一緒に海の藻屑となるのか、郷原さんや市川さん同様に脱北するのか、それとも組織内に留まって変化に対応しようとするのか、あるいは自分から積極的に動いて大和を何とか改修しようとするのか、様々な人が出てくるでしょうが、プライドの高い彼らは決して「助けてくれ」とは言いません。だから我々はただ見ているだけでいい。というより、我々には検察に構っている暇などありません。検察の変化は我々の生活我々の人生に大きな影響を及ぼします。ベルリンの壁が崩壊した後のロシアのように、刑事裁判を巡って大きな混乱が起こる可能性があります。たとえば医事裁判が今よりもっとメチャクチャになるかもしれない。だって、今は一時期より慎重になっている警察・検察のおかげで業務上過失による立件送致件数が減っているのですよ。医事裁判のコントロールを検察が放棄すればどうなるか、考えただけでも恐ろしいことです。

矯正医官を藪医者呼ばわり
隣の法務省本省には、定員332名のところ、私が辞令を発令された2013年4月1日現在で260名(8割弱)もの臨床医(矯正医官)が所属している。その中にはNHKに4年連続で出演し、医師と一般市民の両方から高い評価を受け、臨床のトップジャーナルにいくつも論文を書いている名医もいるのだが、検察は矯正医官のことを全て、塀の外であぶれて仕方なく塀の中に働き口を求めざるを得なかった落ちこぼれ医者とでも思っているらしい。それどころか、それまで10年以上にわたって筋弛緩剤中毒と誤診されていた患者さんがミトコンドリア病であることを見つけた矯正医官を天下の藪医者呼ばわりする始末である。。「矯正医官へのリスペクト」が聞いて呆れるが、コペルニクスがローマカトリック教会の司祭だったことを考えれば、筋弛緩剤中毒と誤診されていた患者さんがミトコンドリア病であることを見つけた矯正医官が検察官から天下の藪医者呼ばわりされるのも納得できる。いずれにせよ、検察という病における主要症状の第一は、まともな臨床医に対する異端呼ばわりである。看過されたもう一つの医療崩壊>矯正医官募集と壁の中
動物病院に対して「ヤブ医者」と2チャンネルに書き込むことだけでも、名誉毀損になるのに、検察官が公文書で私を藪医者呼ばわりするのは名誉毀損に他ならないのはもちろん、威力業務妨害にもなるのですが、どうせ彼らは「冤罪」であるとして、たとえ逮捕されたところで否認ないしは完全黙秘を貫くため、どんな腕利き検察官でも、彼らが一番大切にする「自白調書」は取れませんから、「起訴」、「立件」は不可能でしょう。

法医学教授を神と崇める
検察が仲良くしている法医学者の中には医師免許を持っている人たちがいる。その多くは大学教授である。医師免許を持っている大学教授ならば、医療のことは何でも知っているから、矯正医官なんて下等な医者に相談する必要は全くない。そう考えて法医学教授の言葉を神の御託宣と尊重し、その御託宣通りに仲良く警察と暴走する。そして後になって、その御託宣がとんでもないガセネタだということがわかって、しかもその神様がデタラメな御託宣に対して何の責任も持たずにしらばってくれていても、絶対に神様を恨んだり非難したりしない。矯正医官は天下の藪医者呼ばわりしても、法医学教授は神として崇め続ける。それがたとえでっち上げ鑑定の常習犯であっても。無責任極まりない法医学者に対するこのような盲目的な信仰が、検察という病における主要症状の第二である。

診断は存在しない.あるのは信仰のみ
無医村の人々は、医学・医療・科学の何たるかを全く理解しない。X線CTに写らなければ、脳の病気が全て否定できると主張する。病歴や症状が全く違っていても、世界標準とは方法も結果も全く異なり、しかも再現性の全く無い鑑定だけで、筋弛緩剤中毒が診断できると主張する。血中の乳酸値がどんなに上昇していても、乳酸値の上昇が筋弛緩剤中毒で全く説明できなくても、筋弛緩剤中毒だと主張する。このような何の科学的・医学的根拠も無い誤診に何の疑いも持たず、ミトコンドリア病患者の適切な診療を受ける権利を踏みにじっても何とも思わない。エセ医学・エセ科学に対するこのような盲目的な信仰が、検察という病における主要症状の第三である。

助言が耳に入らない裸の王様夫妻
筋弛緩剤中毒説が天動説であることが明らかになった以上、再審を開始するかどうかは全て検察側の判断に委ねられている。最高検が決断しさえすれば、明日にでも再審請求は認められるだろう、一方、筋弛緩剤中毒説などという子供だましが通用すると検察が信じ続ければ、再審開始まで400年近くかかることになる。なぜなら、筋弛緩剤中毒説とミトコンドリア病の診断との関係は、天動説と地動説の関係にあるからだ。ローマカトリック教会が地動説を異端としたのが1616年、天動説を放棄したのが1992年である。これが再審開始まで400年近くかかると私が考える根拠である。

実際には、もう、筋弛緩剤中毒説などという子供だましは、検察が神と崇める法医学者達を含めて、誰も信じていない。再審請求審で、検察側に立つ御用学者が一人も出てこないのが何よりの証拠である。もはや神を気取れなくなった検察という裸の王様を褒めそやす詐欺師はとっくの昔に金だけもらって逃亡してしまった。さらに裸の王様の行進についていく家来も、かつて物見高かった市民も馬鹿馬鹿しさに呆れて裸の王様に見向きもしなくなった。そんな裸の王様を哀れに重い、親切な助言をする神経内科医を、裸の女王様(仙台地裁の河村俊哉裁判長と二人の陪席)と王様は一緒になって藪医者呼ばわりするばかり。はてさてこの王様夫妻が率いる刑事裁判王国の運命や如何に。

一般市民としての医師と法