北陵クリニック事件、高濃度カリウム製剤誤投与事故、ウログラフィン誤使用事故といった医療事故の経過とその裁判は、「裁判は真実発見の場ではない」「刑事裁判は全て冤罪である」といった、元刑事裁判官の弁護士の主張を裏付けています(森 炎 教養としての冤罪論 岩波書店)。では、裁判が事故原因を隠蔽し、事故を再生産するのは、有罪率99.9%を誇る日本の刑事裁判に特有な現象なのでしょうか?それは違います.民事は刑事よりも医療事故の真相究明能力が高いというエビデンスはどこにもありません.というのは,刑事の検察官が民事では原告側弁護士になるだけで,どちらも脈の取り方一つ知らない素人であることには変わりがないからです.刑事であろうと民事であろうと医療事故裁判には勝者がいないのです.では,医療事故裁判に勝者がいないのは,中世裁判が横行する日本独自の減少なのでしょうか?それも違います.実はすでに90年代初頭に、訴訟(民事)大国である米国で医療事故訴訟のアウトカムについて系統的な研究が行われ,医療事故訴訟は被害者を救済しないというエビデンスが出ています(関連記事).
ハーバード大学医学部・公衆衛生学部(HMPS)の研究者が,1984年の1年間にニューヨーク州の51病院に入院した患者からランダムに抽出した約3万のカルテついて,医療事故・過誤の頻度と,損害賠償訴訟との関係を調べたところ(N Engl J Med
1991;325:245-51),280例に医療過誤が同定されましたが,この280例のうち実際に医療過誤の損害賠償を請求していたのは8例(2.9%)のみでした。一方,この3万例のうちの損害賠償事例についてHMPSの医師たちが過誤の有無について判定した結果から、訴訟全体の中で実際に過誤がある可能性は14%(2967例中415例)に過ぎないと推定されました。さらに,損害賠償訴訟の帰結を10年間追跡した結果,賠償金支払の有無と,HMPSの医師たちが客観的に認定した事故・過誤の有無とはまったく相関しませんでした。(N Engl J Med
1996;335:1963-7)。
上記のHMPS研究の結果は,実際に過誤にあった人のほとんどが損害賠償を請求していない一方で,過誤に対する損害賠償の訴えの多くは,実際の過誤の有無とは関係がなかったことを示しています.検査に喩えると,民事医療訴訟の医療過誤に対する感度は2.9%,陽性的中率は14%ということになります.翻って日本ではどうでしょうか?系統的な研究は寡聞にして知りません.つまり,日本の医療事故訴訟の品質が米国のそれよりも優れているというエビデンスはどこにもありません.系統的な研究によるエビデンスがない時は,case seriesを検討します.
『弁護医師Ⓡが斬る 医療裁判ケースファイル180』(田邉昇 中外医学社)を読めば、明らかに過誤が認められない事例で、医学常識を無視したトンデモ判決により被告が有責とされる判決が乱発されていることが一目瞭然です。
民事訴訟でトンデモ判決が出る背景は複雑ですが、原告と被告の間で情報量の差があるとの考えは捨て去る必要があります。さらには、原告側が立証責任を果たさなくても「患者・家族がかわいそう」という感情のバイアスがトンデモ判決を生んでいることを、被告ばかりでなく、原告も裁判官も心得ておくべきでしょう。
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けれども一方で、裁判官が、本当に言葉のうわべだけを捉えて判断すると、もっと変な判決を出す可能性もあります。患者側救済のために「これはかわいそうじゃないか」と判決を書く場合もある。それをされると、ちょっとかなわない。立証責任を果たすのは、裁判というゲームをやる上でとても大事なルール。患者側にとっては、意見書を書いてくれる医師がいる上、今は以前とは異なり、インターネットでいくらでも資料は集まるし、大学の図書館に行けば誰でも文献をコピーできる。むしろ医療機関、医師の側の方が、時間がなく十分な資料を用意できないこともある。情報収集能力については対等であり、裁判所は変なひいきはしないでもらいたい。(m3.com『ハンムラビ法典』に医療は逆行?
- 田邉昇弁護士に聞く◆Vol.3)
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医療事故ビジネス全盛の昨今、裁判官が原告側、そしてしばしばその背後に控えるマスメディア・世論から受ける圧力も関係者は常に念頭に置いておくべきでしょう。それは刑事裁判で裁判官が検察官とマスメディア・世論から受けるのと同様の圧力です。医療事故裁判では、それが刑事であろうと民事であろうと、事実関係がどうあろうと、マスメディアは医療者・医療機関を悪役と決めてかかったシナリオを販売し、世論を喚起します。原告にとってこれ以上の力強い味方はありません。