迷いについての考察
進路を決めかねている若手への手紙から
迷う=複数の選択肢がある
「迷う」ということは複数の選択肢があることですから,本来は歓迎すべきはずです.なのになぜ複数の選択肢があることを歓迎せず,そのことを呪い,嘆くのでしょうか?私は複数の選択肢があることを呪いません.逆に一つしか選択肢がないことを呪います.論文を書かなくてはいけない時など常にそうです.共同研究者が「別に書かなくてもいいよ.自分が書くから」と言ってくれたら,どんなに楽になることか.
放置プレイの意義:優先順位を厳しくすること
複数の選択肢がある時に私が取っている方法はとっても簡単です.それは放っておくことです.放っておけば,周囲の人達が「あいつはどうでもいいと思っているのだな」と思ってくれますから,選択肢が自動的にどんどん絞り込まれていきます.この方法の最大の利点は,何もしないことによって,迷う時間を他の時間に振り向けられる点です.放置することは思考停止することではありません.時間を味方につけ,効率良く思考することです.自分の時間・自分の思考といった貴重なリソースを優先順位の高いことに集中的に投下するのです.
あなたが複数の選択肢があることを呪うのは,この放置プレイの最大の利点を知らないからです.そして放置することはいかなる場合でも悪い結果に繋がるという妄想に囚われているからです.しかし,そんな妄想にエビデンスはこれっぽっちもありません.
決断力信仰から距離を置く
「複数の選択肢があることは悪いことではないと受け止めろ」と言われても,それがすんなりできない人も多いでしょう.あなたもその一人かもしれません.そういう人は「複数の選択肢があることが重大な問題である思い込み」へのこだわりがあり,さらに「重大な問題は自分で解決しなくてはならない.放置するなんて堕落した・能力の無い人間のすることだ.重要なのは決断力だ」という思い込み=何の根拠もない思考停止・決めつけがあります.決断力とは思考停止力の代名詞に過ぎません.「私は決断力で困難を克服し成功した」という奴がいまだに時々メディアに登場しますが,そんな奴はただの馬鹿です.
複数の選択肢を前にして迷って悩むのは,その根底に決断力信仰があるからです.「決断できずに,くよくよしている自分」を自分で攻撃し,「決断できずに,くよくよしている自分」が「周囲から決断力の無い人間だと見られている」との妄想に苦しんでいる.それがあなたの姿です.決断力なんて思考停止力の代名詞に過ぎないのに.このような「決断力信仰」という思考停止から距離を置くことが,「放置・やり過ごし」という出口戦略に繋がります.
参考→思考停止と正解依存症
自分は神ではないこと知る:人は失敗からしか学べない
決断力信仰の裏には「後悔への予期不安」があります.ところが後悔にも何のエビデンスもありません.全て後悔は無駄です(失敗のコホート研究).私もあなたも神ならぬ身ですから,タイムマシンを持っているわけではありません.私もあなたも神ならぬ身ですから,過去は変えられません.だから全ての後悔は無駄です.後悔が無駄ならば,後悔への予期不安はなおさら無駄です.
「後悔への予期不安」の類似品として,「失敗への予期不安」があります.これもまた無駄です.なぜなら,私もあなたも神ならぬ身ですから,何が失敗なのか判断する失敗認定能力を持ち合わせていないからです.一方で「うまく行った」と思った瞬間に,そこで思考は停止し,そこから学ぶこともありません.(失敗認定能力に関する一考察)
あらゆる側面(空間軸)から考えて未来永劫(時間軸)に失敗であり続ける事象など,この世に存在しません.そこにあるのは成長の糧だけです.そしてそれが認識できる人間と,できない人間がいるだけです.
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