メンデル協会について

日本メンデル協会が任意団体として設立されたのは、33年前の1984年12月10日のことです。目次9参照 翌1985年には長野県教育委員会を主務官庁とする財団法人に指定され、1990年になると任意団体であった国際細胞学会が日本メンデル協会に加わり、その機関誌であったキトロギア(CYTOLOGIA)の刊行母体となりました。2013年9月2日には公益財団法人に認定され今日に至っております。目次8参照

  1. 会長挨拶
  2. 協会役員
  3. 評 議 員
  4. 公益財団法人としての出発に際して 長田敏行
  5. 就任のご挨拶  日本メンデル協会会長 長田敏行
  6. 日本メンデル協会の現況  廣川秀夫
  7. 日本メンデル協会の設立に際して 篠遠喜人

会長挨拶

河野重行(第8代会長)

私が日本メンデル協会にかかわるようになったのは、黒岩常祥先生が第4代キトロギア編集長をお引き受けになった1993年頃からです。当時、黒岩常祥先生の研究室は東京大学本郷キャンパスの南端にある理学部2号館にあって、日本メンデル協会があった本郷2丁目の東真ビル(現エスペランサV)とはつい目と鼻の先でした。私が、東京大学の黒岩先生の研究室に所属していたのは1988年1月から1999年3月まで、その頃は論文の査読を随分手伝わせていただきました。また、1990年に国際細胞学会と日本メンデル協会が合併した頃やその後の運営のご苦労などもよく存じ上げております。

第6代日本メンデル協会会長の廣川秀夫先生から依頼され、私が日本メンデル協会副会長とキトロギア編集長を黒岩先生から引き継いだのは2007年のことです。編集長を11年も務めたことになります。11年というのは随分長いようですが、黒岩先生の14年に及びませんし、初代編集長の藤井健次郎先生は24年(1929-1952)、第2代編集長の篠遠喜人先生は37年(1953-1989)、第3代の田中信徳先生は3年(1990-1992)編集長を務めておいでです。第4代の黒岩先生から私が第5代編集長を引き継いだ頃は、世界がIT化に大きく舵をきった時期で、電子メールによる投稿に切り替えるところから始め、インパクトファクター(IF)を復活させ、Web投稿システムを導入するところまで漕ぎ着けました。ここで編集長は第6代目の日詰雅博先生に替わりますが、これからのキトロギアの発展が楽しみです。

日本メンデル協会は、第7代会長の長田敏行先生のご尽力で、2013年に公益財団法人化し、2016年には下諏訪町の諏訪湖博物館・赤彦記念館で念願の「メンデル特別展」を開催しており、ギャラリートークやメンデル講演会は大盛況でした。公益財団法人日本メンデル協会の定款には、遺伝学の普及・振興と遺伝学の祖メンデル(J.G.Mendel)の業績の顕彰を行い、社会における細胞遺伝学と細胞生物学の理解を深めることを目的としており(第3条)、第4条2項には「収集したメンデル資料の一層の充実とその整理、さらに一般公開事業の推進」とあります。事業を規定した第4条にはこの2項の他に、5項が定められていて、「講演会開催」、「キトロギア刊行」、「キトロギア優秀論文の顕彰」、「優れた研究の顕彰と助成による国際交流」と「その他の事業」となっています。初代会長の篠遠先生は下諏訪町に「メンデル記念館」を建設することを夢見ておりました。その夢はかないませんでしたが、着実に歩を進め遺伝学の普及や国際交流の先には、チェコのブルノにある「メンデル博物館」との連携などもあるもあるように思います。この博物館はメンデルがエンドウの遺伝の実験をした修道院が改装されたもので、メンデルがエンドウを植えた小さな庭も残っています。

会長以下新執行部としては、第2回メンデル特別展に照準を合わせて、準備万端怠りなくするのが最も着実でしょう。第1回メンデル特別展は、諏訪大社の最大行事の式年造営御柱大祭大祭すなわち「御柱」の年だったので、次も御柱の年がいいでしょう。御柱は数え年で7年に一度なので、次は2022年になります。2022年は奇しくも「メンデル生誕200年」で、チェコをはじめ世界中で関連イベントが開催されるでしょう。日本でも御柱と絡めた独自の「メンデル特別展」が生誕200年を記念して開催できればと思っております。日本メンデル協会の今後の活動にご期待ください。

公益財団法人日本メンデル協会 役 員 

理事(6名)任期2年(令和3年6月~令和5年6月)

河野重行(会長) 東京大学名誉教授・専修大学客員教授
日詰雅博(副会長) 愛媛大学名誉教授・キトロギア編集長
松永幸大 東京大学教授
數藤由美子  国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構
量子医学・医療部門 高度被ばく医療センター
計測・線量評価部 生物線量評価グループ グループリーダー
永田典子 日本女子大学教授
佐々木成江 お茶の水女子大学特任教授

監事(2名)任期4年(令和3年6月~7年6月)

平野博之 東京大学名誉教授
山口正視 千葉大学真菌医学研究センターグランドフェロー

公益財団法人日本メンデル協会 評議員 

評議員(12名)任期4年(令和3年6月~7年6月)

中村俊夫 信州大学名誉教授
馳澤盛一郎 東京大学名誉教授
宮村新一 筑波大学准教授
邑田 仁 東京大学名誉教授
草場 信 広島大学教授
酒井 敦 奈良女子大学教授
佐野俊夫 法政大学教授
三谷啓志 東京大学特命教授
石川 滋 和田薫幸会
東山哲也 東京大学教授
那須田 周平 京都大学教授
稲田のりこ 大阪公立大学教授

公益財団法人としての出発に際して

公益財団法人日本メンデル協会   会長 長田敏行

日本メンデル協会は、2013年9月2日より公益財団法人として出発いたしました。かなり複雑な手続きと相当な労力を払い、会員諸兄姉にもたびたびお手を煩わせて、ここに到達いたしました。しかし、これで公益財団法人日本メンデル協会として認められたわけですから、先ずはこのことを喜びたいと思います。

この機会に、いささかの感慨を込めて関係される諸兄姉に当協会成立の経緯を知っていただくことは意義有と思い本稿をしたためます。というのは、財団の経てきた道は正確には我々にも伝わっていないことをかねがね気にしていたからです。ところが、公益法人化を機に経緯を調査したところこれらが明らかになりました。本協会は、1984年に故篠遠喜人教授(東京大学理学部遺伝学教室教授で、後に国際基督教大学学長)の主宰で最初任意団体として出発しますが、1985年長野県教育委員会を主務官庁とする財団法人となりました。その折の主要な基金である基本財産は、主として故三井養藏氏より提供されました。当初の財団の意図は遺伝学の振興、メンデルの功績顕彰と長野県下諏訪町にメンデル記念館を作ることでしたが、それには基金は十分ではありませんでした。その後、1990年になって任意団体であった国際細胞学会が日本メンデル協会に加わりました。

国際細胞学会とはキトロギア(CYTOLOGIA)の刊行母体ですが、こちらは1929年に創立されたわが国で最も古い生命科学関係の欧文編集の国際学術誌です。これについては、2009年に詳しくその経過を述べているので、詳細はそちらへ譲るとして1)、簡単に要点のみ述べます。コムギの合成の研究で世界的に著名な木原均博士の主要な論文が、本誌に度々登場しておりますが、特に第1巻第1号の最初の論文が木原博士のものです。これらの論文は、今日でも古典として引用されております。更に、第二次世界大戦中、そして戦後の混乱期に学術誌の多くは休刊になりましたが、キトロギアは紙質を落とすことなく刊行し続け、後に学問の花を咲かせる著名な研究者が寄稿されており、神谷宣郎博士、木村資生博士、柴谷篤弘博士などです。しかし、その後分子生物学の勃興とともに、やや後塵を拝する時期がしばらくありましたが、黒岩常祥前編集長、現在の河野重行編集長の尽力の下で向上しつつあるとだけ申します。

国際細胞学会が日本メンデル協会へ加わったと申しましたが、書面の上では、当時の責任者であった田中信徳教授より、やはり同教授が代表であった法人格の日本メンデル協会へ全ての権限を委譲していることになっております。その際、創立時の基本金に匹敵する基金が何回かに分けて国際細胞学会より、日本メンデル協会へ寄託となっております。従って、私どもとしては、これら先人の意図と努力を十分認識して、公益財団法人としてより発展させていくことを心すべきであると思います。

さて、こういう重要な節目に当たり、今後の抱負を簡単に述べさせていただきます。会務は会員全員で支えることとし、キトロギアはこれまでも十分に国際的学術雑誌でしたが、その質をより高め、遺伝学関連領域の進展に貢献するとともに、遺伝学の啓蒙活動に一層の力を注ぎたいと思います。ついては、関係者各位の一層のご支援をお願いしたいともいます。

ニューヨークJFK空港から成田への機中にて。 2013年9月14日

引用文献

  1. 長田敏行: 「キトロギア」(CYTOLOGIA)は、創刊80年を迎える! 遺伝63、16-19(2009)

就任のご挨拶

日本メンデル協会会長 長田敏行 (法政大学教授・東京大学名誉教授)

既に旧聞ではあるかと思いますが、私は、昨年来、廣川前会長の後を受けて、日本メンデル協会の代表を務めております。就任とともに「日本学術振興会のCytologiaに対する学術刊行助成が2007年度はなされない」という通知を受けて、急遽財務の見直しなどの作業に追われて、ご挨拶が遅くなりました。
廣川前会長は日本メンデル協会の諸業務とCytologiaの刊行の業務を併せて遂行されておりましたが、今回は日本メンデル協会の業務は私が責任を持ち、Cytologiaの刊行業務は新編集長の河野重行氏が行うということになりました。今後は、Cytologiaの編集は、出来るだけインターネットを通じて行うということで、英語版のホームページも充実してきております。

この間光明を見るようなニュースもありました。現在審査中ではありますが、懸案であったCytologiaにインパクトファクターを付けてもらう件で、Thomson Scientificとのコンタクトの結果は、実に好意的でし た。それは、Cytologiaに掲載された論文の分析から、何故この雑誌にインパクトファクターが付いていないか不思議であるという先方の回答にも表れております。審査結果を待つ必要はありますが、これはCytologiaの国際的位置を反映していると思います。また、数多くの生物で全ゲノムが決定された今日、染色体研究の重要性が増していることは、Cytologiaがその地位を再度向上できる状況にあろうかと思います。そして、それ以上に、Cytologiaがインド、ブラジル、エジプトを始めとする世界の多くの国々に投稿者を持っているという国際性は重要かと思います。

私としても、鋭意日本メンデル協会の運営と発展に努めるつもりですので、会員各位には是非日本メンデル協会への一層のご協力をお願いいたします。新年度にあたり是非次のことをお願いしたいと存じます。

  1.  財務状態の改善のために、これまでネット会員になっておられる会員は是非とも正会員になってくださるようお願いいたします。
  2. 上記のCytologiaのネットでの運営とも絡んで、各位にはE-mailアドレスをお知らせください。
  3. Cytologiaの向上は会の発展に直結しますので、積極的な投稿をお願いいたします。

上記を勘案して新年度の会費納入をお願いいたします。会員諸氏の一層のご助力をお願いして、就任のご挨拶といたします

2008年3月10日掲載

日本メンデル協会の現況

廣川秀夫 (上智大学名誉教授)

私がメンデル協会に責任を持たされてからほぼ1年がたちました。メンデル通信の場を借りて協会の現況を報告することにより、会長就任の挨拶に代えたいと思います。

そもそも、本協会との係わり合いが始まったのは、1999年の春浅い頃でした。 滞在先のマックスプランク分子遺伝学研究所(ベルリン)に本協会会長の平野正先生(当時)から理事就任の話が持ち上がり、さらに、これに関連してブルノーのメンデル記念館を訪問する様にとの話でありました。

私は分子遺伝学領域で主にDNA複製、とくにタンパク質をプライマーとするDNA複製機構の解析を中心に研究をしてきました。また上智大学を定年退職後、古巣のマックスプランク分子遺伝学研究所で26年前と同じ研究室でコケ植物(蘚類)ゲノムからDNAトランスメチラーゼ遺伝子を釣り上げる仕事をして居りました。ですから平野先生からの話には極めて唐突の感を抱きました。 しかし、メンデルが研究を行ったブルノーに機会があれば一度訪問したいものとかねがね思っておりましたので、先生のお話に従う事に致しました。これが言ってみれば本協会との係わり合いの始まりでした。

当時、本協会に対する情報としては、初代会長の篠遠喜人先生の遺志をついで長野県下諏訪町にメンデル記念館を作ろうという夢を抱きつづけているが、現今の諸情勢から計画そのものも全く宙に浮いていると言った程度でした。本協会が刊行している国際細胞学雑誌 キトロギア については その刊行の実体について全く認識が有りませんでした。

さて1999年に初めて理事会に出席してすこしづつ協会の現状を知る事になりました。その第一はキトロギア刊行こそが現在の協会の主な事業であるということでした。キトロギアについては、黒岩常祥立教大教授・協会副会長が本メンデル通信No.18(2001年)に詳しく書かれて居ります。 第二には協会設立地であり、また財団法人の本籍地でもある下諏訪町、所管の長野県教育委員会とは年一度の事務報告程度の関係である事です。さらに第三としては、故篠遠喜人先生のお手元にあったメンデル関連資料が分散保管されており、保管されている先生方が扱いに苦慮されいる、等々の実状でした。

キトロギアの刊行については後で触れますが、早速やらねばならぬと感じた事は、先達の先生方が収集されたメンデル関係資料の安全な保管という事でした。そこで渉外担当理事として、本協会理事でもあった新村益雄下諏訪町町長(当時)に資料保管について相談したところ、下諏訪町町立の諏訪湖博物館が適当であろうと言うことで、ここに保管される運びになりました(2003年3月)。これに関連して本協会の目的の一つである遺伝学の啓蒙・普及事業として学術講演会を下諏訪町で開催する事を提案しました所、町および教育会の賛同を得て2002年6月に長田敏行東大教授(協会副会長)、米田好文東大教授(理事)のお二人に、主に中・高等学校の教員、さらには下諏訪中学校生徒を対象に講演をして頂き、2003年11月には中込弥男先生(元日本人類遺伝学会会長)と伊藤建夫信大教授に下諏訪町公民館との共催で一般の方々を対象に講演会を開催致しました。このような活動は協会設立当時、1985年頃には数回行われて以来、長い休眠を経て地域活動の一環として再開された事になります。今後とも毎年このような講演会を実行して下諏訪町と諏訪湖周辺の方々と接することで初代会長の志の一端を稔りあるものとしたいと考えて居ります

下諏訪町立諏訪湖博物館
下諏訪町立諏訪湖博物館
故篠藤喜人先生(元会長)、故中沢信午先生(元副会長)が収集されたメンデル関連の貴重な資料が収集されている下諏訪町立諏訪湖博物館。
研究・整理の後、展示公開の予定です。

キトロギアの刊行については先に述べた様に本誌18号に黒岩副会長が記されていますので、ここでは補足的に現在の状況を報告致します。キトロギアは協会内の組織である国際細胞学会(会長・黒岩常祥立教大教授)が世界各国からの投稿論文の審査・編集を担当し、編集事務(論文受付、受理事務、投稿者との連絡、印刷原稿作成・校正等々)と投稿者、購読者、国内外の販売代理店との管理事務をメンデル協会が担当しています。これまでは キトロギア刊行がメンデル協会に移る以前(1981年)から事務一切を任せられていた、林よしえさんが、入稿原稿作成、校正を除き 長期に亘って献身的に担当してこられました。残念なことに協会の財政事情から昨年末をもちまして退職という事になりました。

長い間、ベテランの林さんに任せきりにしてきた協会の事務処理を整理・簡素化して誰でもが引き継いで行ける体制に変革が始まったところです。また数年前 黒岩編集長のもとで交渉が始まったキトロギアのIT化が2003年度から実行にうつされ、j-stageに67巻から公開されております。また河野理事によって、メンデル協会のホームページが作られ公開されて居ります。
http://square.umin.ac.jp/mendel/

以上概略を述べてみましたが、2003年は集中的にいろいろの意味での変革の時期に当たったということでしょう。とはいってもキトロギアの年4回の刊行を滞らせるわけにはいきません。 昨年度末に、69巻第1号を滞り無く刊行する事が出来ました。目下第2号を6月末に刊行する段取りとなって居ります。有り難い事に諸外国から沢山の投稿が途切れることなく続いております。この現状が有る限り重い責任を自覚せざるを得ません。協会の運営に協力頂いた黒岩、長田両副会長、米田、河野両常務理事と論文査読に当たられた先生方に感謝申しあげる次第です。財政的にキトロギア発刊以来多大なご援助を頂いております財団法人和田薫幸会には厚くお礼を申しあげます。また日本学術振興会から研究成果公開促進費として研究補助金を頂き刊行が維持されております。

協会の新しい体制が整うまでには まだ少し時間がかかる事でしょう。協会の理事、評議員ならびに遺伝学、細胞学、生物学に関心をお持ちの方々からのご支援をお願いする次第です。

注)「日本メンデル協会通信No.20-June2004」から転載しました。

日本メンデル協会の設立に際して

篠遠喜人(初代会長)

日本メンデル協会が、1984年12月10日に設立されました。その目的は、遺伝学の祖メンデルの業績を顕彰し、国際的に情報を交換し、遺伝学の資料を公開して世界の平和と繁栄とをはかる(会則第3条)にあります。その事業は多くをめざしますが、主なものは、メンデル記念館を設立し、メンデル個人に関する大小の資料ならびに日本における遺伝学の発達の資料を集めて展示し、かつ国際的な交流を促すほか、遺伝学とその教育との普及発展に寄与したい(会則第4条)と願っています。

メンデル記念館の建設予定地は、信州諏訪湖畔の下諏訪町有地で、付近は文化地区として風光にもすぐれています。メンデル記念館には、展示室、研究室、講堂、図書室、会議室、売店その他をそなえます。また展示は、室内のほか、室外にてもおこないます。たえず講演会、映画会、音楽会などをもよおして、一般文化の高揚をはかります。
メンデル記念館設立の理由としては、次のようなものがあげられます。

  1. 1900年に、3名の研究者によって、独立に、メンデルの遺伝法則が再発見され、これがもとで現代のすばらしい遺伝学が発達しました。今や遺伝学は、人類の運命を方向づけている、ともいわれています。メンデルの得た成果は、35年の間、眠っていました。しかし、彼が、必ず来る、といったといわれるように、“メンデルの時代"は来ました。
    日本の外山亀太郎は、カイコを使って動物で初めてメンデルの法則を追試しました(1906)。日本は世界に先がけて“日本遺伝学会"を創設し、また、『遺伝学雑誌』を創刊しました。日本はまた、世界に先がけてメンデルのドイツ語論文を日本語にうつし、その訳者の数も、世界に首位を占めるほどです。1965年には、メンデル法則発見100年の記念展を日本でも開き、記念図書やメダルなども創りました。
  2. このメンデルを記念する事業を日本に起こすことには、このように深い意義があります。
  3. この計画の直接の動機は、1970年にブルーノで開かれた“グレゴール メンデル国際会議"の際に、出席した私が、放送によって、日本にメンデル文庫を創りたい、と発言したことに始まります。しかし、その機がまだ熟さないでいましたが、私は、雑誌『遺伝』に“メンデルの会を創りたい"と訴え(1981-7)、ついで中沢信午博土が同じ雑誌に、“日本メンデル協会を実現したい”を載せて(1981-11)世に広く訴えました。
  4. 設立の地を東京でなく、なぜ長野県に選んだかをよくきかれます。それには次の理由があげられます。
    a)文化の中心が地方にあってもよいのではないかと考えました。
    b)ダーウィンの進化学説を、はじめて日本に紹介したのは、信州人の、伊沢修二でありました。(『生種原始論 1879、進化原論1887)。また、
    c)メンデルの遺伝学説を、はじめて日本に紹介したのは、やはり信州人の臼井勝三でありました。(『信濃博物学 雑誌』1903)。
  5. 昨1984年は、メンデルが亡くなってから100年目にあたり、世界各地でいろいろな記念事業がありました。私どもの日本メンデル協会も、その記念事業の一つと考えております。

本会に対し、多くのご理解とご援助とをいただきたく存じます。

注)「日本メンデル協会通信No.1―March 1985」から転載しました。転載に際して、一部の漢字を新しい用法に変えました。