薮原病院事件
(20XX年、とある検察庁の一室 準強制わいせつ事件の被害者の夫である遠西御免に対して,脈の取り方一つ,ピペットマンの操作法一つ知らない阿部泰雄検事と,矯正医官の井下駄正行が,被疑者の乳腺外科医 守大助を不起訴とする方針について説明している)
阿部 「遠西さん,今日は,お忙しいところ,わざわざお出でいただき恐縮です.私、検事の阿部泰雄と申します。早速ですが、準強制わいせつ罪の被疑者 守大助についてなのですが,結論から申し上げますと不起訴の方向となります」
遠西 「ええっ?!それは一体どういうことなんですか?」
阿部 「大変申し上げにくいことなのですが,我々も鋭意努力したのですが,お話を裏付ける決定的な証拠がどうにも・・・・」
遠西 「証拠があったからこそ,警察が逮捕,身柄拘束し,検察庁に送検後も勾留し続けたのではないのですか?あの卑劣な男の唾液が動かぬ証拠じゃなかったのですか?」
阿部 「その点に関してはですね,私ども検察官は,医療や科学研究などという下賤な仕事には関わりませんので,担当の井下駄から説明させます」
井下駄 「初めまして。法務省 法務技官・矯正医官の井下駄と申します」
遠西 「ああ、あの、テレビに出ていらした。ドクターGの・・・」
井下駄 「よく間違われるのですが、人違いです.私は池田よりも頭の毛が三本だけ多いゆえに,池田よりもはるかに優秀である.そういう決定的な違いがあるのですが,初対面の方には,なかなかわかっていただけないので,いつも非常に悔しい思いをしております」
遠西 「それは失礼しました.それにしても瓜二つ。どうなさったのですか。本物、いや、失礼、決して井下駄先生がニセ医者っていうわけじゃなくて。池田先生は・・・」
阿部 「奴は、法務省職員のくせに,同じ法務省の行政庁に過ぎない検察庁を ”今様大本営”,我々検事を “脈の取り方一つも知らない冤罪製造機” と誹謗中傷した名誉毀損罪により懲役3年の実刑が確定したので懲戒免職とし,医師免許も剥奪してやりました.ざまあみやがれ.」
遠西 「ええっ,正義の神様達をそんな誹謗中傷するなんて.池田がそんなひどい藪医者人だとは全く知りませんでした.世の中,油断もすきもありませんね.井下駄先生も池田のような極悪人と間違えられて,さぞご迷惑でしょう.先ほどは知らぬ事とはいえ失礼しました」
井下駄 「いえ,私の方が頭の毛が3本だけ多いので,池田なんかよりはるかに優秀な医師である.その肝心のことをご理解いただけて光栄に存じます」
遠西 「ところで,証拠がないって,どういうことですか?DNA検査で動かぬ証拠を掴んだって聞いたのですが・・・」
井下駄 「それは一部の新聞記者が垂れ流したデマに過ぎません.今回の件では、DNA検査は意味がないのです」
遠西 「・・・一体どういうことですか?・・・」
井下駄 「DNA検査というと,必ず犯人がわかる万能の検査のように考えてしまいがちですが,それは大きな誤解です.DNA検査の本質的な欠点は血液型や指紋のような,伝統的な犯人特定のための検査と基本的には何ら変わるところはありません.例えば凶器の包丁についていた指紋の主が一人ではなく,100人だったら,犯人を特定することはできません.お話によると,守医師がわいせつ行為に及んだと奥様がおっしゃったのは,4人部屋でしたよね?」
遠西 「そうです,あの男は周りに他の患者さんや看護師さんがいる中で,妻を辱めたのです.本当にひどい男です.なのに不起訴なんて,一体どういうことなんですか!!」
井下駄 「守医師が舐めたとされる奥様の左のお乳には,手術中も麻酔科医や看護師が何度も触れる可能性があります.手術後も体を手術台から移動したり、手術の時に喉に入っていた管,気管チューブといいますが,その管を抜いたり、手術室から大部屋に移動する間も,そして移動して部屋に落ち着いてからも,たくさんの人がたくさんの処置に関わります。そこで奥様の体には,守医師以外にも,麻酔科医やら複数の看護師やら,いろいろな人のDNAが付い
てしまうのです.先ほどの包丁の指紋と同じように,仮に犯行が行われたとしても,DNAでは犯人を特定できないのです」
遠西 「でも実際に,あの卑劣な男の唾液が妻の左乳首から検出されたのですよね?」
井下駄 「アミラーゼ反応と呼ばれる唾液の反応がどんなに強く陽性を示しても,,そこに唾液がついていたという現象を示すだけで,なぜ唾液がついていたのかという原因を明らかにするものではないのです」
遠西 「あの,申し訳ありません.お話しが今ひとつよくわからないのですが・・・・」
井下駄 「たとえ奥様の左乳首にアミラーゼ反応が強陽性を示したとしても,そこに唾がかかったということしかわからないのです.アミラーゼ反応では,乳首を舐めたのか,くしゃみをした時に唾が飛んだのか,あるいはたまたま喋っている時に唾が飛んだのか,全く区別がつかないのです.特に最近はごく微量のアミラーゼを検出する技術が発達しているため,くしゃみなどなくても,普通に喋っていてごく微量の唾液が飛んでも,そこで陽性反応が出てしまい,以前よりもはるかに間違いが起きやすくなっているのです(*注)」
遠西 「では、妻があの男を陥れるために嘘をついているとでも」
井下駄 「いや,決してそういう意味ではなくて,奥様の体験は,麻酔から醒める際にしばしば起こる悪夢、専門用語で言うと術後せん妄だったのです,第三者の立場にある複数の医師からも意見書が提出されていますから、これは確かなことです。」
遠西 「なんてこった.井下駄先生、術後せん妄って、専門家しかわからないのですか?」
井下駄 「いえ、決してそんなことはありません。医師だけではなく、全身麻酔を必要とする手術に関わる看護師にとって、術後せん妄の管理は重要な仕事の一つになっているぐらいですから」
遠西 「つまり、世の中には妻のような体験をする患者が決して珍しくないと」
井下駄 「はい、そうです.不起訴となった理由をわかっていただけたでしょうか」
遠西 「決して珍しいことではない。むしろよくあることならば、妻がわいせつの被害者ではなく、悪い夢を見ていただけだと、なぜもっと早く説明してもらえなかったのでしょうか?検事さん」
阿部 「とおっしゃいますと・・・・」
遠西 「だって、もっと早く、術後せん妄だったと知らされていれば、妻なり私なりが,手術をしてくださった守先生の無実をすぐに晴らすことができたのですから。そうすれば、守先生は牢屋に入らずにも済んだ、いや、そもそも逮捕されなかった.手術が5月10日,逮捕が8月25日.そして今日が9月20日.実に4ヶ月以上,この間,術後せん妄という肝心要の話を,一切聞かせてもらえなかった」
阿部 「遠西さん、そこまで自分を責めてはいけません.遠西さんも奥様もは何も悪いことをしていないわけですから」
遠西 「当たり前です!! 何も私は自分や妻を責めているわけじゃありません。私が問題にしているのは,警察も検察も,物的証拠がないことも,術後せん妄のことも,一切我々に教えずに隠していたことです.公権力としてこれまで幾多の大失態を繰り返しながらも,自分たちの非を一切認めようとしない警察,検察.任意の事情聴取や満足な物証もなくて突然,あんなに誠実に妻を診療してくださった守先生が逮捕,勾留された.よくよく考えてみたら,手術後の外来診療日の予約までしてくださった守先生が妻に対してわいせつ行為なんてするわけがない.そんなこともわからずに不当に逮捕した警察や,罪証隠滅や逃亡の恐れもないのに,不当に勾留し続けた検察による,杜撰な捜査、透明性の欠如、説明無責任.この落とし前をどうつけるつもりですか?犯罪の被害者とされた人間に対し,実は被害者ではなかったという重大な事実が,なぜもっと早く開示がなされなかったのですか?」
阿部 「小職といたしましても,職務には懈怠無いよう心がけておりまして,遠西さまにおかれまして,もし不起訴の方針をお伝えすれば大変不愉快な思いをなさるのではないかと懸念しておりまして・・・・」
遠西 「私が聞きたいのはあなた方の勝手な思い込みでもなければ,不祥事隠蔽の言い訳でもありません.私も妻も危うく冤罪作製の共犯者にされかねなかった。いや,実際に,守先生が不当に逮捕され,勾留され,名誉を傷つけられたことに,今日まで気づけなかった.守先生には本当に申し訳ないことをした.もし、あなた方が起訴・公判請求して有罪判決が確定していれば,患者に対する強制わいせつという大罪ですから、守先生は医師免許取り消しはもちろん、実刑となって社会から抹殺される可能性が99.9%あった。そうですよね?」
阿部 「必ずしもそうとは・・・」
遠西 「『我々はあくまで推定有罪の精神に則って裁判に臨んでおり,無罪判決の可能性も0.1%ほどある』,そう言いたいわけですか?もうたくさんです.阿部さん,あなたのどうしようもない言い訳を聞き続けるほど私は暇人ではありません.それよりも,井下駄先生!!」
井下駄 「はっ,はい」
遠西 「居眠りしている場合じゃありません!アミラーゼ反応のことはよくわかりしたから,そのよだれはもう拭いてください.池田先生亡き後の法務省で検察官の医学教育ができるのは,あなたしかいません.自分たちが作った冤罪の説明責任を果たさず,脈の取り方一つ勉強しようともせず,こそこそ逃げ回ってばかりいる検察官達の性根を,あなたが一からたたき直してやるのです」
井下駄 「えーっ,私がですか.そんな,とてもじゃないけど,池田先生みたいには・・・」
遠西 「大丈夫,あなたなら必ずできます」
井下駄 「失礼ですが,今日初めてお目にかかったのに,なぜそこまで自信を持って断言できるんでしょうか?」
遠西 「だって,池田先生よりも頭の毛が3本多い自分は,池田先生よりもずっと優秀だ.そう言っていたのは井下駄先生ご自身じゃありませんか」
*注:唾液の超高感度検出法としては,RT-PCR,蛍光共鳴エネルギー移動 (FRET fluorescence resonance energy transfer),などがあるが,現在,法医学で一般的に用いられているのは,ELISAである.Forensic Tests for Saliva: What you should knowによれば,ELISAにも特異度を始めとして多くの問題が多い.検査は感度が高くなればなるほど特異度が落ちる.だから唾液のELISAも,あくまでpresumptive test,つまり確定診断ではなく,推定のためのスクリーニングテストと心得ておくべきである.
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