承認審査と保険適応の分離

薬が臨床現場で広く使われるためには,承認審査という科学的吟味と,保険適応という経済判断の,二段階の判断を経なければならないことはこれまで説明してきたが,ではなぜ,この二段階の判断が必要なのか,現実問題に即してわかりやすく説明しよう.

厚生労働省に対して,“夢の新薬を早く使えるようにしてもらいたい”,“なぜ海外ではどんどん使われているのに,日本では使えないのか”という要望が今日も山のように寄せられている.ほとんどの場合,その要望は,保険適応(俗に言う認可)を要求している.患者さんが,ひどく高価な夢の新薬を安く薬を買えるようにしろということだ.保険適応にしろとの要求は,薬に対して,公的資金を投入しろ=税金(正しくは保険料)を使え=医療費を増やせという要求に他ならないのだが,どうも,そう率直には言えないのは,財政改革を唄う偉い人に遠慮なさっているためだろうか.いずれにせよ,世間一般で騒いでいるのは,二段階の判断のうち,もっぱら後者の保険適応,金の問題である.

では,承認審査の方はどうなのだろうか?実は,夢の新薬に対して保険適応を要望する人々の多くは,本当は,日本には審査,つまりリスク・ベネフィットの判断なんか要らない,と思っている.なぜなら,二言目には“エビデンスは海外で十分にあるのだから”,“FDAが承認しているものはそのまま素通しにしろ”と言っているのだから. 欧米で承認されているものは,嫌がらせみたいにもたもた審査しないで,早く公的資金を投入しろというわけである.極めて明快な論理である.

ここで,もしも承認審査なしで,保険適応が通って,“夢の新薬”が使えるようになったとしよう.患者は安く薬が買える,医者は保険が使えるから患者の懐に気兼ねなく処方箋が切れる,企業は薬がどんどん売れる といった具合に,国民一人一人から徴収した保険料を山分けする形でみんなハッピーになれれば,めでたし,めでたし.

では,なぜそうしないのだろうか?どうして,わざわざ,承認審査という障壁を保険適応の手前に設けているのだろうか?それは,薬の裏の顔,リスクが現れた時,誰も責任を取りたくないからだ.海外では大した副作用がなくて夢の抗癌剤と騒がれた新薬を国民の皆様の大合唱で,承認審査なしで保険適応にしたはいいが,発売後半年もたたないうちに,死に至るような重い副作用が日本人だけに現れるとわかった時,誰が責任をとるのか?大合唱した国民の皆様は,メディアともども,いつものようにかつての大合唱をケロリと忘れて,スケープゴート探しに血眼になるだろう.その時いけにえになるのが,厚労省であり企業である.どうせ責任を被せられるのならば,あらかじめ,リスク・ベネフィットの判断過程を明らかにし,その薬の有効性をより生かし,安全性をより高める方策を考えようという,誠に健気な覚悟の産物が,現在の承認審査の仕組みである.その結果,保険適応の前に承認審査の関門設けられた.

しかし,承認審査を保険適応の必要条件とした結果,科学審査が,保険適応の人質,下働きになってしまった.保険適応という金の問題の解決のために,科学審査に圧力がかかってくる可能性が生じた.経済的な判断が,命を左右する科学的判断で歪められるようなことがあってはならないから,承認審査は保険適応から独立させるべきである.

実際,国民皆保険ではなく,数多ある民間の保険会社が独自に医療保険を扱っている米国では,FDAは科学的な審査をするだけで,個々の医薬品の保険適応は,医療保険会社の判断に委ねられる.FDAが承認していない(有効性・安全性の判断をしていない)効能効果をもった医薬品でも,保険が利くものはたくさんあるというわけだ.FDAが承認していない効能効果で保険が利く薬を使って重い副作用が起こっても,FDAは責められない.関係者(企業,医者,患者)の自己責任でどうぞというわけだ.

“夢の新薬を認可しないのはけしからん”と言って役所を攻撃し,その新薬で副作用が起こると,半年後には“なんでこんなものを認可したと”また攻撃するような滑稽な真似を自分で演じる悲しさよ.“進め一億火の玉だ”と“鬼畜米英”が,“一億総懺悔”と“ギブミーチョコレート”に半年で変換された日本風コペルニクス的転回は,現代も脈々と生き続けている.

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