裁判員裁判
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法曹関係者の見解はなぜこうも違うのか?
(多くの場合、やむを得ない事情によって)裁判について勉強し始めた諸氏にとって、必ず突き当たるであろう疑問が、「裁判員裁判に対する法曹関係者の見解はなぜこうも違うのか?」である。

民事裁判官出身で「絶望の裁判所」「ニッポンの裁判」を著した瀬木比呂志氏、元検事で経済事件をネタにした特捜いじめがお得意の郷原信郎氏は、裁判員裁判を強く批判している。一方、同じ刑事弁護士でも,刑事裁判官出身の弁護士の森炎氏、木谷明氏は、刑事裁判品質改善ツールとしての裁判員裁判の有用性を主張しているが,裁判官を経験したことのない弘中惇一郎氏,佐藤博史氏は裁判員裁判と被害者感情が,裁判官に厳罰の方向へと圧力をかけることを懸念している(政治家抹殺 「再審請求」で見えた永田町の罠)

もうおわかりだろう。上記の疑問は、裁判員裁判の対象となる刑事裁判に対する立場、もっと端的に言えば、冤罪事件にさんざん悩まされた経験の有無を反映していることがわかれば、氷解するのだ。 

瀬木氏はしょせん民事裁判官だから、刑事裁判の品質に対する危機感や当事者意識はない。郷原氏は、出身母体の検察を立ち直らせるための指南役を自認しているのであって、その「教育の場」である裁判に対し、いちいち口を挟んでくる裁判員はクレーマー以外の何者でもない。瀬木氏も冤罪事件の一つでも経験していれば、裁判員裁判の有用性は理解できていただろう。郷原氏の方には瀬木氏とはまた違った諸般の事情があると思われるが、武士の情けで敢えてここでは指摘しないことにする。(別のところでは散々言いまくるかもしれないよ)

それに対し「刑事裁判はすべて冤罪である」「死刑は司法殺人」と著書で公言する森氏や、瀬木氏が「ニッポンの裁判」の中でうっかり批判してしまったため、被害(かもしれない)を受けた某事案を始めとして、数々の冤罪事件に関わってきた木谷氏が、裁判員裁判を、冤罪リスク低減のための有用なツールと考えるのは当然である。それに対し,弘中氏,佐藤氏は,裁判官として「自分が誤って死刑を言い渡してしまったかもしれない」という心の傷がないので,「刑事弁護のプロとしての自分たちの大切な仕事を,素人の発する雑音で邪魔されたくない」という感情が前景に立つ.これはお二人とも,世間が注目する事件の弁護を数多く経験し,マスメディアのデマにさんざん仕事の邪魔をされてきたからだろう.なお,佐藤氏は,裁判員や被害者・被害者家族の処罰感情の少年事件への悪影響を指摘しているが,それは至極もっともな懸念である.

冤罪被害者としての医師の立場から
各人が同じことを違った方向から見ているに過ぎない.かく言う私は、冤罪被害者だからこそ、裁判員裁判の大切さが身に染みてよくわかる。もしも再審が裁判員裁判であれば,北陵クリニック事件における検察の主張は一瞬のうちに木っ端微塵に吹き飛んでいたからだ.自信を持ってそう言えるのは,検察の嘘八百と私の診断とどちらが正しいのか,一般市民ならすぐにわかってもらえるからだ.北陵クリニック事件以外でも,氷見事件のような,まるで19世紀の出来事かと思うような,とんでもない冤罪事件も,裁判員裁判と,それから少しでもまともな弁護士(国選弁護人がまたひどい奴だった)がいれば,あんな酷い冤罪にはならなかったはずだ.

北陵クリニック事件では,阿部泰雄弁護団長が,一審から今日までの15年間,一貫して粘り強く闘い,市民に呼びかけてきたから,一般市民の間での理解が少しずつ浸透していった.その意味では,弘中氏も,佐藤氏も,もし鈴木宗男氏の無罪を勝ち取ろうと思うならば「再審を裁判員制度にせよ」と,一般市民に向かって,粘り強く説明していく必要がある.鈴木宗男氏が冤罪に陥れられたと思っている市民は静かに増え続けているのだから.

私が検察から受けてきた誹謗中傷をよくご存じの方は、なぜ私が冤罪被害者なのかという疑問は抱かないはずだ。私は、検察が患者の人権を蹂躙している、つまり一人のミトコンドリア病患者が国の難病指定を受け、適切な診断と治療を受ける権利を奪っていることを明らかにしただけだ。検察はその私を医者の風上にも置けない悪徳医師であると公文書で誹謗中傷したのである。これが冤罪でなくてなにが冤罪か。

北陵クリニック事件が、もし裁判員裁判の対象となれば、STAP細胞をはるかに凌ぐイカサマ度で科学性のかけらもない大阪府警科捜研鑑定も、私のことを天下に隠れもなき藪医者であるとする検察の「主張」(正確には単なる素人の言いがかり)も、「秒殺」される。

裁判員は選挙権を持っている必要があるが、脈の取り方一つ知らない検察官の診断と、神経内科専門医の私の診断のどちらが正しいかは、中学生の目にも明らかである。それほどわかりやすいことを私はこれまで5年以上にわたって説明してきた。こんなに余計な手間がかかったのもひとえに仙台地検の加藤裕、金沢和憲、荒木百合子の3人の検察官の方々が私のことを天下の藪医者呼ばわりしてくれたおかげである。

冤罪事件には、日本の中世裁判の根本的かつ最大の問題点が凝集されている。だから、冤罪問題に取り組むことが裁判の品質改善の出発点となる。市民に対して、冤罪裁判の透明性を高め、法曹関係者がその説明責任を果たすことなしには、裁判という、極めて重要な公共サービスに対する市民のリテラシーを育てることはできない。素人は裁判にしゃしゃり出ずにおとなしくしていればいいんだ。裁判は俺たち法曹資格を持った人間に任せておけ。そういう狂った特権意識・狂ったパターなりズム(父権主義)が、北陵クリニック事件のようなとんでもない冤罪を生んできた。脈の取り方一つわからずに、ピペット一つ持ったこともなしに、ミトコンドリア病の診断ができるわけがない、質量分析を理解できるわけがない。素人はてめえらの方なんだよ、このタコ!!。

市民に対する説明責任の重要性
医師は患者から学ぶ。患者は医師の教育者である。問診は、音声言語で患者さんに病気の歴史を教えてもらうこと。診察は、患者さんの体に働きかけて、患者さんの体が非言語性メッセージで教えてくれることを受け取ること。だから、患者さんは、皆、医師の教育者。それに、そもそも答えは患者さんしか持っていない。医者は答えを持っていない。だから患者さんから教えてもらわないと医者は商売にならない。

患者さんが発する無数メッセージの中でどれがサウンドでどれがノイズなのか。サウンドの中でも、適切な判断につなげるために優先順位の高いサウンドは一体どれなのか?それを医師は判断する。そのプロセスは決してマニュアル化されていない。患者さんの具合が悪くならないように、できればもっと良くなるように、その作業を進めていくのがプロの医師である。

裁判も実は全く同じ事である。関係者が発する無数のメッセージの中で、どれが事件・争いの解決に結びつくのか、あるいは判断を誤らせるのか、裁判を事件・争いの解決に結びつけるために優先順位の高いメッセージはどれなのか?それを法廷で法曹資格を持った人達が対話をして、「折り合いをつける」。

しかし、人間のやることだから判断の誤りは生じうる。だからこそ、後で検証される機会を残しておく。そして本来ならば、その検証結果を次の新たな機会、つまり将来の裁判に生かす。これが三審制度の意義であり、三審でも誤りが訂正されなかった時に備えての再審制度の本来の意義である。それを「勝った」・「負けた」と馬鹿騒ぎを繰り返すだけだから、中世裁判との悪口に一言も反論できない。

北陵クリニック事件に限っただけでも、勝ち負けを議論するのは全く無意味である。なぜなら、勝ち負け以前に、検察官が患者の人権を蹂躙している、つまり一人のミトコンドリア病患者が国の難病指定を受け、適切な診断と治療を受ける権利を奪っているだけでなく、A子さんが不整脈により突然死する危険性をも放置しているからである(*)。暢気に私を藪医者呼ばわりして、勝った勝ったと大騒ぎしている場合ではないのだ。

私のように法曹の世界が全くわからない一般市民も、こうして冤罪被害者になり、刑事裁判に対する当事者意識が芽生えることによって初めて、刑事裁判の問題点の数々を徐々に理解できるようになった。もし、検察官が私を藪医者呼ばわりせず、神経内科専門医として、米国内科学会会員として、そして総合診療医ドクターGとして、ミトコンドリア病という私の診断を素直に受け入れてくれれば、それ以降は一切検察とは関わらなかっただろうし、ましてや矯正医官になって日本最悪の無医地区である検察庁に乗り込み検察官達の医学教育に携わるという野望も抱くことなく、五島列島か八重山諸島のどこかで静かに余生を送るか、レギュラトリーサイエンス研究に勤しんでいたであろう。

私はもうさんざん勉強したから、もういい。早く再審を初めてけりをつけてくれ。私を黙らせるのはそれが一番効果的なんだよ。私を藪医者呼ばわりし続ける限り,私は黙らない.わかったかね、大本営の諸君。

*ミトコンドリア病MELAS (Mitochondrial myopathy, Encephalopathy, Lactic Acidosis, Stroke-like episodes)は、心筋障害を高率に合併し不整脈による突然死のリスクが高いことが知られている(谷口 彰 MELAS 不整脈による突然死 日本臨床 2002年 増刊号 ミトコンドリアとミトコンドリア病 P606-609、Congest Heart Fail 2009;15:284)。この事実は医療者以外でも容易に手に入れることができる公開資料で明らかにされている。もちろん私も裁判所に提出した意見書 の中で明確に指摘している.正しい診断のもとに適切な治療をしなければ心筋障害はさらに進行し,不整脈による突然死のリスクは年々高くなる一方である.

(2015/9/25)

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