あまりにも裁判ナイーブなお医者様達
ー明日は私も殺人犯ー

ボクは医陪責に入っているから大丈夫←医陪責でカバーされるのは民事だけですよ。それに医陪責は民事で負けた場合に限って有効性を発揮するものであって、裁判そのものを抑止する効果は全くありません。ましてや「腕のいい弁護士」を見つけてくれるものではありません。

「腕のいい」弁護士という絵に描いた餅
医 事裁判に関しては「腕のいい弁護士」なんてどこにもいません。だって、もし訴訟になったとしたら、訴えられた事例について、世界中で一番良く知っているの はあなたでしょ。あなたより他にあなたを弁護できる医者なんていないんですよ。ましてや、あなたより他にあなたを弁護できる弁護士なんてどこにもいませ ん。どんな病気でもたちどころに診断してしまう(*)総合診療医なんてのが、絵に描いた餅なのと同様に、どんな病気の医事裁判でも「腕のいい」弁護士なん てのは絵に描いた餅である。医者は患者を選べない。患者も医者を選べない。医者は弁護士を選べない。弁護士も医者を選べない。もし訴訟になったら、あなた の代理人になった弁護士が誰であろうと、粘り強く、根気よく、あなたの診療をわかりやすく説明することが、あなた自身を守る唯一の方法である。
* そもそも、この表現自体が胡散臭い。本来ならば「どんな患者でもたちどころに治してしまう」という表現が歓迎されるところ、世の中には診断しただけで治せ ない病気がごまんとあるので、こういう表現でごまかしたのだろうが、患者を診ずに病気だけを見ているというツッコミに耐えられない重大な欠陥のある表現 だ

ワタシは患者さんや家族とのコミュニケーションを大切にしているから大丈夫←コミュニケーションを大切にすればするほど、あなたへの信頼感と期待は高まるでしょうね。あなたに期待している患者さんや家族ほど、その「期待」が「裏切られた」時の失望は大きいものです。・

エビデンスに忠実にして医療過誤リスクを最小化するように心がけていますガイドラインが冤罪を創るを ご覧ください。ガイドラインの遵守やエビデンスの勉強量が医療過誤リスクを低くするという「エビデンス」がどこにあるのでしょうか?どんなガイドラインも 完璧ではありません。ガイドラインを遵守していても患者さんは亡くなる時もあるし、ガイドラインを逸脱した診療が目の前の患者さんの最大の利益になると確 信していても患者さんが亡くなる時もあります。その時、患者さんが亡くなったという結果だけを捉えて「医療ミスがあった」と燃え上がる感情を抑えられずに 訴訟に走る人々は、どの国・地域でも、どんな時代でも有る確率で必ず存在します。「医学の進歩」「最新医療」といった幻想がまき散らされればされるほど、 その確率が高まるばかりです。このように、ガイドラインを遵守しようとしまいと、それに関係なく訴訟リスクは生じるわけですが、ガイドラインを厳しく吟味 し、目の前の患者さんに最善の診療を提供した方が訴訟で負ける確率は高くなります。当然原告側(あるいは検察側)にはガイドラインを作った学会の重鎮が御用学者として次々と登場するからです。

訴訟リスクはゼロにできない
医療過誤リスクや訴訟リスクを事前に最小化しようとする努力は非常に大切です。しかしどんなに努力したところで、あなたがコントロールできない要素は無数にあります。横断歩道でないところを横切る認知症高齢者、道路に寝ている酔っ払い、駐車 している車の陰から飛び出してくる子供、センターラインを超えてくる脇見運転、高速道路を逆走してくるアルツハイマー病(あるいは前頭側頭型認知症)患 者・・・・交通事故リスクを決してゼロにはできないのと全く同じように、あなた自身が医事裁判の被告(刑事裁判の場合には被告人)になるリスクはゼロにはできません。

医事裁判は孤独な戦い
そ して一旦医事裁判の被告(人)になれば、あなたがそれまでどんなに誠実に仕事をしていようと、誰もあなたを助けてはくれません。そんなことがなぜ私にわか るのかって?あなたにも簡単にわかりますよ。あなたの職場の仲間が裁判の被告(人)になったら、あなたは自分の仕事を投げ打ってでも、その人の弁護活動に 奔走しますか?目の前の患者さんの診療を常に最優先に考えるあなたが、そんなことするわけないじゃないですか。目の前の患者さんの診療をおろそかにして他 人の医事裁判に夢中になる。誰もそんな医者にかかりたいとは思いません。

裁判官の仕事は真実の発見ではない
裁判が真実発見の場であるという幻想は、医療が不老不死を実現するという幻想と同じくらい馬鹿げています。これは私特有の皮肉でも何でもありません。元裁判官の弁護士である森 炎氏は、 自著「教養としての冤罪論」(岩波書店)の中で、「裁判は真実発見の場ではない」と明言しています。その他にも民事であろうと刑事であろうと、およそどんな裁判も真実発見の場ではないことは、多くの法学関係者が認めています。(下記)
立法事実と司法事実(とある法学徒の社会探訪 より)
真実を知りたいという思いから裁判を起こすのはやめましょう  と裁判官自身が、2007年に開催された日本救急医学会のシンポジウムで呼びかけています。大手メディアに騙されて、「真実を知りたい」というナイーブな 思いで訴訟を起こして・刑事告発・告訴して、裁判官の仕事を増やして余計に裁判の品質を落とすような「司法崩壊工作」は止めてくれ という裁判官の悲痛な 叫びが聞こえるようです。とは言うものの、お医者さんに向けてそう言っても意味ないですよね。裁判所も、あたかも裁判が真実発見の場であるかのような愚民司法に基づくプロパガンダを止めないと、訴訟件数は増えるばかりで、結局は自分で自分の首を絞めることになるのです。

全ての医事裁判はトンデモ裁判である
「明 日(あした)はあなたも殺人犯」という、元最高裁判事が書いた本とは思えない刺激的なキャッチコピーでベストセラーとなっている「ニッポンの裁判」(瀬 木比呂志著、講談社)は、日本の裁判全体が中世裁判そのものである第一級のエビデンスを提示しています。瀬木氏も森氏も医事裁判については一切言及していませ んが、北陵クリニック事件は、彼らの観察が医事裁判にも全て当てはまることを示しています。さらに弁護士も、検察官も、裁判官も、医学教育を一切受けてい ないために、民事であろうと刑事であろうと、医事裁判が他の裁判よりも、もっととんでもないことになっていることも北陵クリニック事件は教えてくれるので す。正義が勝つ・科学的・医学的に正しい主張をすれば必ず勝つという信仰が妄想に過ぎないことを北陵クリニック事件は示しています。

以上列記したような医事裁判の現実から目を背け続けるお医者様達は、被告・原告どちらの弁護士にとっても、「うるさいことを言わないいいお客さん」であり、検察官にとっては、「医師免許取り消しをちらつかせればすぐに自白調書に署名する絶好のカモ」です。

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