マスメディア依存症
ーあなたのことですよ!-
マスメディア批判はマスメディア依存症の動かぬ証拠
よく、「マスコミはけしからん」とか「馬鹿なマスゴミ」とか、マスメディアを非難する言葉を聞きますが、非難すること自体、時間の無駄です。 「バカなマスコミ」は、昨日今日に始まったことではありません。自分ごときがいくらマスメディアを非難してもマスメディアは決して変わらない。自分の非難は決してマスメディアには届かないし、マスメディアの行動変容は絶対に期待できない。それはあなたが一番よくわかっていることじゃないですか。
では無駄だとわかっていながらマスメディアを非難するのはなぜでしょうか?それは、マスメディアを非難する人はマスメディアに期待し、依存しているからです。マスメディアに全く期待していなければ、無駄だとわかっていながらわざわざ非難しません。マスメディアにせよ、喫煙=ニコチン依存症にせよ、止めた方がいいとわかっていな がらも止められないのが依存症の本質です。
発行部数の減少,視聴率の低下→影響力の低下→スポンサー離れ→収益の悪化→人材喪失→コンテンツ品質低下→発行部数の減少,視聴率の低下
この悪循環は誰にとっても自明のことです。なのにそれをそれを表だって指摘する人が非常に少ないのは、ほとんどの人は新聞,テレビ局を見限っているからです.それがマスメディアに対するサイレントクレーマーの行動です.そういうサイレントクレーマーから見れば、声高にマスメディアを攻撃する顕性クレーマーは、ずいぶんとおめでたいお人好にしか見えません.
今も昔も、マスメディアの生業は思考の振り込め詐欺です。現実に起こる事象を、全て「悪の一味と正義の味方との対決」という、水戸黄門さながらの単純極まりないシナリオで置き換えたいかがわしい商品を、毎日これでもかこれでもかと売りつけ、顧客の思考を自分達の口座に振り込ませ続けるのです。それがみのもんたや女みのもんた(又の名を櫻井よしこ)の手口です.
マスメディア依存症からの離脱
新聞やテレビに出てくるのはガセネタの可能性が非常に高いコンテンツだけ。そういうものはやり過ごす方がはるかに快適な人生を過ごせる。だから新聞は買わない・読まない。テレビも見ない。知りたいことは図書館で、ネットで調べればよい。実際私はここ30年近く自宅にテレビ受像器を持ちませんし、新聞を購読しなくなってから15年経ちますが、新聞もテレビもない生活の快適さを一度味わうと、もう戻れません。旅先で、読者を馬鹿にした 記事を満載した紙面を一瞥しただけで、暇を持てあましている人間を対象にしたテレビ番組の音声が流れてくるだけで、不愉快になり、いらいらするのです。ちょうどタバコの煙に晒された時のように。
国家権力とマスメディアの蜜月:軍部,GHQそして検察へ
国家権力(正義の味方)はその時々の「都合」により、一部の市民・組織に対して反社会的集団のラベル(悪の一味)をつけて、それ以外の市民と対立させ、多数の市民の矛先が国家権力に向かわないように仕向けます。この戦略を国家は「治安」と呼びます。その反社会的集団のラベル付けを請け負い、「治安維持」に貢献するのがマスメディアです。この構図は戦前戦中の日本だけでなく、いつの時代、どこの国でも、程度の差こそあれ、共通しています。
戦前・戦中の国家権力の本体は大本営に象徴される軍部であり、国内の悪の一味は共産主義者でしたが、軍隊ですから、悪の一味は国内だけでなく、国外にも設定されました。米国・英国・中国・オランダに対してABCD包囲陣・鬼畜米英といったラベル付けが行われました。大政翼賛報道は、現代の北部朝鮮半島の国以上の激烈な論調で、これらの「神国日本を地球上から抹殺しようとする極悪人どもの国々」に対しペンによる攻撃を加えました。
ポツダム宣言受諾後も基本的構図は変わっていません。占領軍(連合軍総司令部 GHQ)は戦後の社会における数々の抜本的な改革を予定していましたが、それらの改革を円滑に実行するためには、是非とも市民の支持を取り付ける必要がありました。GHQは、伝統的に時の国家権力に柔軟にすり寄る日本のマスメディアの本質を利用して、市民の支持を取り付け、改革を実行していったのです。
そのGHQが去り、戦後の「民主主義」の時代に登場した正義の味方が検察という名の戦後型大本営でした。悪の一味のラベルも戦前の「非国民」から戦後は「悪徳金権政治家」「暴力団」に変わりましたが、常に国家権力にすり寄るマスメディアの本質は戦前・戦中・戦後を通じて全く変わりません。司法記者クラブが検察の走狗を演じるのは、マスメディアの本質に基づいた行動であり、どんなに非難されようとも、容易に変わることはないのです。
現代日本での国家の最高権力者は最高検察庁です.絶対に内閣総理大臣ではありません.政治家はもちろん,大部分のジャーナリスト含めたメディアも,そして最高裁判所も,全て最高検察庁の下僕です.その理由は以下のように自明です.
●政治家はメディアの評価と検察の目ばかり気にする悲しい大衆芸人に過ぎません.
●全国紙・テレビ局などの大手メディアは検察批判のようなバカな真似は絶対にしません.そんなことをしたら司法記者クラブお出入り差し止めになり,報道発表の垂れ流しがもらえず,商売あがったりになるから.全国紙もテレビ局も検察の犬そのもの.だから全国紙社会面の記事もテレビ局の報道番組も,検察の広報活動そのものです.
●有罪率99.9%は最高裁判所が忠実な最高検察庁の下僕である何よりの証拠
●なお,検察は不祥事ばかりしでかしてろくな捜査もできない警察をバカにして,単なる捜査の下請けとしか,考えていません.何たって難しい司法試験を通ってきている俺たちの方がずっと上なんだというわけです.
本来は法務省内の行政機関の一つに過ぎなかった検察が,なぜここまで権力を持つようになったのか?その歴史的経緯については稿を改めて論じます.
「容易に変わることはない」と上述しました。では、わずかでも変わる可能性があるのか?あります。そしてそのプロセスは実際に始まっています。マスメディアを支持し依存している市民のリテラシーと行動が変わりつつあるのです。といっても実はそのプロセスの背景に大した仕掛けはありません。
新聞部数・テレビの視聴率低下が意味すること
警察・検察が必ずしも、正義の味方とは限らない。警察官も検察官も、そして検察官に対してしばしば共感的な裁判官も人間であって神ではない。しばしば間違いをしでかすし、(取り調べが全面可視化されてもわからないように)机の下で「生意気な被疑者の向こうずねを思い切り蹴り上げる」ような真似もする。もちろん解剖学の講義を受けたこともなければ、脈の取り方一つも知らないから、法廷で目の前の麻酔科の教授が嘘八百を並べても見抜けない。
そんなことは、高校生でもちょっとネットを調べればすぐにわかることです。そういうことがわかれば、新聞を読むより、テレビを見るより、ゲームでもやっていた方がずっと楽しい。高校生ならそう思って、新聞も読まなくなりますし、テレビも見なくなります。ゲームなんてくだらないと思う大人はゴルフをやるかもしれませんし、車を乗り回すかもしれませんし、野菜作りに精を出すかもしれませんし、温泉に行くかもしれませんし、料理教室に通うかもしれませんし、トレッキングに凝るかもしれませんし、サックス演奏を習うかもしれませんし、戦国史の勉強に没頭するかもしれません。そうやって、新聞を読む・テレビを見る以外に山ほどある楽しみ・面白いことに目が向いた人間は、もう二度と新聞にもテレビにも戻ってきません。まともな市民は、警察・検察の水戸黄門気取りと岡っ引きメディアにはとっくの昔に愛想をつかしています。新聞離れ・テレビ離れは、今この時も着々と進んでいます。問題はそのことにマスメディア側がいつ気づいて、自らが行動変容を起こせるかです。
確実に減少している新聞の発行部数は人口減少では決して説明できません。自分の尻に火がついているのに、他人の尻が汚れていると罵り会っている場合ではないと思うのですが、当人達はお構いなし。マスメディアに対する市民の行動が依存から拒否に変化するのは、22世紀になってからだと思っているのは、当のマスメディアというたこつぼに閉じこもり、警察・検察の報道発表・秘密漏洩の垂れ流しで紙面を埋めるしか能が無い人々だけです。新聞購読率低下のスピードは、喫煙率低下のスピードよりはまだ緩やかだ(*1)と考えるのは、その人の脳みそが、茹でられていくカエル並(*2)である証拠に他なりません。
*1 2009年から2013年にかけての喫煙率の低下(JT発表)が24.9%→20.9%(16%の低下)なのに対し、同時期の1世帯あたりの新聞の発行部数は、0.95→0.86と9.5%の低下(日本新聞協会)である。
*2 いわゆる「茹でカエル現象」は嘘。実際には、たとえ徐々にではあっても水の温度が上がるほど、カエルは激しく暴れて逃れようとするとのこと。
参考
トンデモ裁判と冤罪の日常性
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