犬の傷害事件に見る冤罪の日常性

「裁判は真実発見の場ではない」「刑事裁判はすべて冤罪である」裁判官出身の弁護士、森 炎(もり ほのお)氏は、その自著の中で1)、裁判が真実発見の場であるかのような幻覚が、刑事裁判に普遍的に存在する冤罪リスクを顕在化させることを指摘しています。さらに森氏は、市民が刑事裁判をする裁判員制度の導入を受け、症例検討によく似た方式による冤罪事例の解説を通して、冤罪を日常的感覚で認識できる方法も示しています。診療行為のリスクを常に意識せざるを得ない医療者には、親しみが感じられる内容ですので一読をお勧めします。本書を読めば、北陵クリニック事件のようなトンデモ医事裁判や冤罪の発生機序がよくわかります。さらに北陵クリニック事件同様の冤罪が、実は我々の身近で起こりうる。そのことを教えてくれるのが、2014年8月に大々的に報道された盲導犬「刺傷事件」の顛末です。以下は週刊現代の記事からです2)。

冤罪寸前まで行った「犬の傷害事件」
事の起こりは2014年8月1日に朝日新聞に掲載された、埼玉県の50代の男性からの投書でした。視力障害者の友人の盲導犬オスカーが、何者かにフォークのようなもので刺されたことに強い憤りを感じるとの趣旨でした。その後この事件はツィッターを含めてネット上に広がり、8月24日以降は、全国紙やテレビでも大々的に報道されました。芸能人はもちろん、超党派の議員連盟「身体障害者補助犬を推進する議員の会」までもが警察庁を叱咤激励する騒ぎにまで発展しました。「犬の傷害事件」の被害届を警察が受理することは通常ありませんが、燃え上がった「国民感情」に強烈な圧力を感じた埼玉県警は、捜査史上例の無い30-40人の捜査員を投入する体制を敷きました。昼間の時間帯の犯行であり、犯人逮捕は時間の問題と思われましたが、当該地域の監視カメラ映像の解析を含め、必死の捜査にもかかわらず、何の手がかりも得られませんでした。

それもそのはず、「真犯人」は監視カメラに写るような存在ではなかったのです。当初、フォークのような凶器による刺傷と思われたのは、夏期に大型犬に好発する膿皮症であろうとの意見が当初から獣医師の間で大勢でした。さらに、オスカーを実際に診察した獣医師も、刺傷を決して積極的に疑ったわけではなく、あくまで可能性は低いけども、一応鑑別診断の一つとして挙げただけでした。「事件」から3ヶ月以上経っても「真犯人」について何の手がかりも得られない中で週刊現代の取材は行われましたが、冒頭の「もう、いいじゃないですか、その話は・・・」との地域住民の言葉に象徴されるように、関係者の口はおしなべて重かったことを記事は伝えています。

推測のみで病気を犯罪と勝手に素人判断し、犯人捜しゲームで収益を上げたメディア。そのメディアに焚き付けられた「国民感情」。その国民感情に奮い立った警察。それらの構図だけでも、まさに北陵クリニック事件にうり二つですが、さらに捜査に行き詰まった警察が、北陵クリニック事件同様に冤罪を生み出す寸前まで行っていたのです。飼い主は、自作自演の虐待を疑う掲示板の書き込みにひどく傷つき、外出もままならず、マッサージ師の仕事を辞めて自宅に閉じこもる様子が報じられています。また、警察も防犯カメラに写っていた「盲導犬の後をつける若い長髪の男」を容疑者と考え目撃情報の提供を呼びかける失態を演じています。関係者がおしなべて沈黙を守っている点も北陵クリニック事件と同様です.

市民と法的リテラシー
盲導犬騒動は、北陵クリニック事件と同一の誤りを再現することによって、冤罪の発生機序を明確にしてくれました。どちらの「事件」でも「真犯人」は人間ではなく病気でした。不特定多数の一般市民と捜査当局がともに病気を犯罪と取り違えたことも共通しています。二つの「事件」の違いは二点あります。第一は、宮城県警が杜撰な捜査で冤罪を創作し守大助氏を無期懲役に陥れたのに対し、埼玉県警は冤罪を辛うじて回避した点。第二は、北陵クリニック事件では冤罪が警察・検察主導だったのに対し、盲導犬騒動では逆にメディアが主犯格となって警察を冤罪へと誘導した点です。メディアは単に警察・検察の走狗として世論操作をするだけでなく、積極的に冤罪を主導するのです。冤罪成立においては、両者は常に双方向の共犯関係にあるのです。

しかし、盲導犬騒動の顛末を詳細に報道したのが週刊現代だけだったことからもわかるように、大手メディアで働くジャーナリスト達は、警察官・検察官・裁判官達と全く同様、冤罪への関与について、否認あるいは完全黙秘し続けます。そんな彼らに対して、我々が監視の目を強化する必要がありこそすれ、彼らに冤罪を防止する機能は期待できません。一方、北陵クリニック事件も盲導犬騒動も、病気を犯罪と間違えた一般市民の感情的な反応が冤罪の大きな原動力となったことも示しています。我々一般市民が、選挙の投票で示すような大きな力を発揮して冤罪を創る。我々自身がそのことに気づいて、我々自身の中で法的リテラシーを育てていく3)、それが中世と嘲笑される日本の裁判を改革する最も効率的な道なのです。

トマス・モアはイングランドの法学者で最高位の大法官でした.その彼がどういう運命を辿ったか,あなたはご存じですか?ヘンリー8世に「反逆罪」の言いがかりをつけられて断頭台に送られたのです.冤罪は何も日本だけの特産品ではありません.国家がある限り冤罪は生まれます.どの国・地域でも,いつの時代でも、市民は国家による冤罪のリスクを意識し,そのリスクを最小化する努力をしてきました.日本の市民が例外でいいわけがありません.自分は決して間違わないと信じる人間の暴走を抑えられるのは、自分が間違えることを知っている人間だけです。

参考
1.森 炎 教養としての冤罪論 岩波書店
2.衝撃スクープ! フォークで刺されたはずの盲導犬オスカー「実は刺されてなんか、いなかった」週刊現代2014年11月22日号
3.医師と一般市民のための法的リテラシー

一般市民としての医師と法