連載コラム 仙台に来る前に知っておきたい学会場周辺のトリビア バックナンバーコラム
その4 片倉小十郎と真田幸村
第70回の学会場となる仙台国際センターから道路を隔てた向かい側には、仙台市博物館から広瀬川まで、サッカー場が数面とれるほどの広さの更地があります。ここはTVゲーム戦国BASARAの人気キャラ片倉小十郎の屋敷跡です(写真左)。小十郎景綱は伊達政宗の軍師役であるだけでなく政宗の守役として政宗を立派な武将に育てたと言われています。伊達家の勇を代表する小十郎を高く買った秀吉は大名として自分の家来になるよう望みましたが小十郎は拒み、伊達家の家臣であり続けた義の人でもあります。家康も、一国一城令の例外として小十郎の居城である白石城の存続を認めたほど、小十郎の人物を高く評価したと言われています。
その小十郎景綱は病のため大坂の陣には出陣しませんでしたが、その代わりに参戦したのが嫡男の片倉小十郎重綱でした。伊達隊の先鋒を担う片倉隊は後藤又兵衛隊と激突し又兵衛の首をあげ、さらに真田幸村隊と対戦し敵将4騎を倒すほどの奮戦ぶりで真田隊を撤退させ、鬼小十郎という異名を一躍全国にとどろかせました。戦いを通して小十郎の人となりを知った幸村は討死覚悟で総攻撃をかける前夜、真田家の再興を願って小十郎に我が子の将来を託します。幸村の書状を持った娘の阿梅と二男の大八は、決戦前夜、秘かに大阪城を抜け出し片倉隊陣地に向かいます。無事保護されたことを確かめた後、幸村は家康本陣に向けて突撃し討死しました。戦場の最前線で互いの義と勇を認め合った両雄だからこそ実現した実話です。
戦後処理のごたごたの中、幸村の子供たちは無事みちのくに落ち延びました。その後、次男の真田大八は片倉守信と改名し伊達家の家臣に召し抱えられ、娘の阿梅は後に小十郎重綱の正室となりました。しかし、幸村の直系男子が生き残っていることは幕府に対して秘中の秘であったため、真田の姓を公にしたのは幸村の死後百年がたってからで、これが現在も続く仙台真田家です。白石城の近くには阿梅と真田大八の墓があります(当信寺)が、当時はまだ六文銭の真田家であることを明かせなかったためか墓石に彫られたのは一文銭です。一方、市内には幸村の家来たちが建立した寺(清林寺)があり、その寺紋は六文銭なのです(写真右)。
文責 八重樫
カメラマン1 みゆき
カメラマン2 井 原