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教室の歴史History



土肥慶蔵教授 銅像

 泌尿器科学と皮膚科学が本邦の大学において共存していたことは、一般には性病-尿道炎のつながりにおいて考えられる傾向がある。また泌尿器科は皮膚科の一分野が発展したものという誤解すらある。このような誤解を解くためにも歴史を理解しておかなければならない。
 東大病院は安政5年(1858年)に設立された神田お玉ヶ池種痘所にはじまる。明治10年(1877年)に東京大学医学部付属病院となり、明治26年(1893年)、外科の一分科として皮膚病学黴毒学の講座が設けられた。明治31年(1898年)土肥慶蔵教授がこの講座主任を命ぜられた際、泌尿器科室を設けた。土肥は外科医として皮膚科を学ぶために欧州に留学した際、泌尿器科学に興味をもって研修し、近代泌尿器科学を皮膚科学黴毒学教室において教授したのである。大正15年(1926年)7月1日には泌尿器科学の独立講座が設けられ根岸 博博士が講座担当助教授となった。




高橋明教授 銅像

 昭和2年7月19日新潟医科大学(当時)より高橋明教授が本学教授に任ぜられ泌尿器科学講座担任になられるに及んで、初めて泌尿器科が独立した専門学科、診療科目であることが明確となった。高橋教授は本邦泌尿器科学発展のために多大に寄与した。また、当時欧米人に比して本邦人には稀有だといわれていた前立腺肥大症が次第に増加することを指摘し、外科的摘除手術並びに電気凝固法などを施行、かつ国内に普及させた。市川講師(当時)の大腿動脈分枝より逆行性にカテーテルを挿入して造影剤を注入する市川式腹部大動脈撮影法(1935年~1938年)は世界に先駆けたものであった。












市川篤二教授

 昭和20年(1945年)12月に市川篤二助教授が教授に昇任。翌昭和21年5月1日に皮膚科より職員および建物を分離して、泌尿器科学単独の講座を設立した。泌尿器科学会の指導者として尽力し、戦後の本邦泌尿器科学の発展はすべて市川教授によって推進されたと言っても過言ではない。研究は広範囲にわたって余すところなく行われ、先進的な業績が数多い。対外的にも、戦後いち早く国際泌尿器科学会に出席、主題の一つである膀胱癌の病理学的研究及び治療を発表した。第15回国際泌尿器科学会を主宰し、日本泌尿器科学会理事長の重責を18年間にわたって果たした。退任後は、国立東京第一病院(現:国立国際医療研究センター病院)の院長を務めた。







高安久雄教授

 昭和38年(1963年)4月には高安久雄教授が新潟大学から就任した。日本社会が戦後の復興期を迎えるなか、教室での新しい分野の研究活動を推進した。昭和41年には、社会復帰も果たし得たという意味で我が国初の腎移植術に成功し、この分野での先駆的業績を挙げた。内視鏡外科領域にも研究を広げ、世界初の経尿道的腎盂尿管鏡の臨床的応用など多くの業績を残した。日本泌尿器科学会理事長の他、東京大学医学部長などの公務も担った。退任後は、新設された山梨医科大学の学長を務めた。











新島端夫教授

 昭和52年(1977年)4月からは新島端夫教授が岡山大学より着任した。泌尿器科学の枠を超えた広範囲にわたる研究を活発に行い、がん集学的治療研究財団研究助成、腎研究会学術賞を受賞した。泌尿器科学の領域では、日本泌尿器科学会理事長をはじめ、日本癌治療学会総会、日本腎臓学会総会の会長として各学会を運営した。昭和60年よりは、国際泌尿器科学会副会長・日本支部長に就任し、わが国の研究者の国際的活躍の場を拡げる上で大きな足跡を残した。退任後は、東京船員保険病院の院長などを務めた。











阿曽佳郎教授

 昭和62年(1987年)5月には阿曽佳郎教授が浜松医科大学から就任した。日本泌尿器科学会理事長をはじめとする学会の要職を務め、日本泌尿器科学会の法人化や英文機関誌の刊行など、学会の近代化に務めた。日本Endourology・ESWL学会、腎移植・血管外科研究会、老人泌尿器科研究会などを創設し、日本泌尿器科学会総会、日本超音波医学研究発表会、日本組織細胞化学会総会など多くの学会・研究会を主宰した。国際的にも、国際泌尿器科学会理事長、国際泌尿器科内視鏡学会理事、国際前立腺保険委員会委員などを歴任した。退任後は、藤枝市立総合病院の院長などを務めた。









河邉香月教授

 平成5年(1993年)4月からは、河邉香月教授が浜松医科大学より就任した。アジアで初めて国際禁制学会を開催するとともに、日本神経因性膀胱学会、日本老年泌尿器科学会など数多くの学会の会長を務めた。また日本泌尿器学会理事長、日本腎臓学会理事、医師国家試験委員泌尿器科幹事をはじめ国内外の泌尿器科委員会理事・委員長を歴任した。さらに大学院重点化を迎えて、泌尿器科学教室における大学院の研究体制を確立し、多くの研究者の育成を行なった。退任後は、焼津市立総合病院、東京逓信病院の院長を務めた。









北村唯一教授

 平成10年(1998年)5月から北村唯一教授が助教授より昇任した。日本泌尿器科学会理事、日本性感染症学会理事、日本老年泌尿器科学会理事長、日本ウイルス学会理事、性の健康医学財団常任理事を務めた。第8回日独泌尿器科会議を主宰し、国内外の学会の発展に大きく貢献した。平成天皇が患われた前立腺癌に対しては、その主治医として、診断から手術、術後補助療法を主導した。あわせて、前立腺癌などに関する市民講座を開催し、泌尿器科疾患の啓発活動を行なった。退任後は、あそか病院院長を経て、北村記念クリニックの院長を務めている。









本間之夫教授

 平成20年(2008年)4月に本間之夫教授が日本赤十字社医療センターより就任。腎がんや間質性膀胱炎のゲノム解析などの研究を精力的に推進し、一流紙を含む数多くの英文論文を発表、多数の国内外のガイドライン作成にも従事した。日本泌尿器科学会理事長、日本老年泌尿器科学会理事長、日本臨床泌尿器科医会理事などを歴任し、第100回記念日本泌尿器科学会総会、国際禁制学会、日本排尿機能学会などを主宰した。コンチネンス医学講座の開設、ロボット手術導入などを通して教室の発展にも尽くした。退任後は、日本赤十字社医療センター院長を務めている。








「東京大学医学部泌尿器科学講座50年史」より一部引用