公僕にとっての「コンプライアンス」とは?
参考今此処にある「有事」とサイゴン陥落との共通点:一億3000万総濃厚接触者・日本全土ゼネスト状態を招いた文民エリート達

問題は、戦争がないという意味で当時よりは幸運な時代に生まれた者が、そこから何を考えるかということ。ユンゲらの責任逃れの論理も注目に値しますが、何よりも重要なのは、人間がこんなにも、愚かになれるということです。藤肥孝幸 映画「ヒトラー~最後の12日間~」 2017/12/27)

「国民のメディア化」により、不祥事・不手際は必ず露見してしまうという世の中になっている。

「コンプライアンス」というのは、法律論だけの話ではありません。株主や国民が怒っているのは、法令違反にとどまらず、企業や役所の価値、存在意義、ブランドと言いましょうか、期待していたものに対して裏切られたことに怒っているわけです。

いくらコンプライアンス規定を知っていても、社会からの圧力が時代とともに変化してきたときに、柔軟に行動できなければ意味がありません。そう考えると、効果的な方策・研修としては、「我が組織が抱えるリスクとは何か、そのリスクにどのように対応すべきか」、「前例踏襲で長年やってきたことだが、時代の変化に応じてやり方を変えるべきものはないか」といったことを考える機会を設けることです。

昨今、公務員志望者、特に国家公務員への志願者数が減っていると聞いています。また、私が知っている若手官僚でも「役所でずっと働く」という気持ちを持っている人たちが減ってきて、辞めてしまった人も少なからずいます。その背景には、役所におけるコンプライアンス対応もかなり影響していると私は考えています。つまり、「社会適合性」を実行できている組織なのかどうか、不祥事が起こってしまうのは仕方ないにしても適切な不祥事対応ができているかどうか、そういう点を若者は見ています。若者は、ピュアな人たちが多く、インチキはしたくない、嘘をつきたくない、家族に話せないような隠しごとはしたくない、といった感覚を持っています。このような若者のマインドをしっかり把握し、組織として行動に移していかなければ、国家公務員の魅力は高まらないのではないかと考えます。(久保利 英明 公僕としての「志」を忘れることなかれ 人事院月報 人事院月報 2020 4月号 No.848

本来ならば「コンプライアンス」なんてカタカナ言葉を使う必要もなかったのです。公僕つまり国民に奉仕する僕(しもべ)として,「禄を喰む」という言葉の意味,すなわち誰のお陰で飯を食えていると思っているのか?自分達を養ってくださっている国民の幸せに貢献しているのか?国民の笑顔を見たくて仕事をしているのか?それさえ問えばいいことだったのですから。

「公務員の世界に入ろうと思ったときの志と、実際に働き始めてからの現実  ――  自分は何でこんなウソやつまらないことをやっているのだろうか  ――  とのギャップが、今、かなり生じている時代ではないでしょうか」 
久保利さんはこの記事の中で,そうも問いかけています。お役人達だけに教材を提供しては不公平になりますから,やはり「正義は我に有り」と確信して止まない御用医師・専門家の方々にも以前お示しした教材を再掲しておきます。

仮説と実験データとの間に齟齬が生じたとき、仮説は正しいのに、実験が正しくないから、思い通りのデータがでないと考えるか、あるいは、そもそも自分の仮説が正しくないから、それに沿ったデータがでないと考えるかは、まさに研究者の膂力(りょりょく)が問われる局面である。実験がうまくいかない、という見かけ上の状況はいずれも同じだからである。ここでも知的であることの最低条件は自己懐疑ができるかどうかということである。福岡伸一, 生物と無生物のあいだ 講談社現代新書 

私の内なるアイヒマン
人の道に外れるということ
千代田区しか知らない田舎者
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