医学部にいると看護学生とふれあう機会はままある。ただ、大多数の人は一緒に部活動する程度の接触であり、看護学生が学んでいる内容、看護について思っていることを知ることはほとんどない。ついでに言えば、医学生どうしが<よき医療のあり方>なんぞを仲間内で論じることも滅多にない。医学系の学校には、とかく外部の人には意外な事実が多いものだが、これらもその一つだろう。 ところが、医学生がひょんなことから看護学生と看護や医療について議論するチャンスを得ることがある。そのような時、医学生はほぼ例外なく大きなカルチャーショックを受ける。僕たちが、大学で<患者さんとの接し方>や<ケア/キュア>などという言葉を聞くことはゼロに近い。そのようなことこそが大切であるような気はしているものの、習わないことだからと(密かに罪悪感を感じつつも)うやむやで終わらせてしまう。看護学生の持ち出す話はそのような罪悪感を直撃する。 医療の現場を論じるときに<インスリン依存性糖尿病>や<ウィルムス腫瘍>を知っていることは何の役にも立たず、ケアの重要性やQOL概念についての知識を披露するほうがはるかに立場が強い。医学生はなすすべもない。まさにカルチャーショックだ。看護職は医者より偉いのではないかと思う瞬間である。 しかし、そのような驚嘆はほどなく薄らいでゆく。看護の言い分がそれほど素晴しいとは思えなくなってくるのだ。多くの看護学生は、医者に比べて看護職が<不当に>低い地位に甘んじていると主張し、治療のプロとしての医師にケアのプロとしての看護職を対置する。たとえば、看護学生の議論で多用される<患者さんの立場に立ったケアこそ大切だ>との主張にはキュア=医師、ケア=看護という対立的な隠喩が隠されていることが多い。医者という権威ある職種に対抗して看護が結集するためには、この手の明確な対立構造は有効であろう。だが、本当にそうスパッと割り切れるものだろうか。 そもそもケアのプロという定義の<ケア>とは何なのか。看護学生は答える。「ケアとは患者さんの側に立った全人的看護です」。では、処方に先立ち医者が患者さんの話をじっくり聞くのは何なのだろう。ケアだろうかキュアだろうか。また、ヘルパーさんが身の回りの世話をするのはプロのケアとは言えないだろうか。プロとは、専門的な知識・技能を身に付けた者にしかうまく務まらない職業に使われるべき言葉だ。残念ながら世間は、<有資格者にしかできないプロのケア>を現在の看護学が独占して提供してくれるとまでは考えていないように思える。ケアとキュアの境界は非常にあいまいである。 こう考えていくと、<ケアのプロ>としての看護職を思い浮かべるのは非常に困難である。先ほど引き合いに出した、<患者さんの立場に立ったケアこそ大切だ>という言説も、多くの場合、キュア=医師、ケア=看護という対置によって<ケアを扱うから看護は大切だ>という程度にしか使われていない。 看護職が医者に対抗することには何の問題もない。ただ、ケアとかQOLという美しいけれど意味のよく分からない言葉を前面に押し出しても、医者に対する以上の支持を患者さんから得ることは難しいだろう。実際、ケアという言葉はそのあいまいさゆえに<患者さんに喜ばれる看病>程度にしか用いられていない。看護職が、患者さんにも理解できないような概念をまとって医者の権威に挑戦するのはもはや限界なのではないだろうか。 僕は、日本の医療現場において医者が不当に高い地位を築いているとの意見には心から賛成する。本質的に技術者であるはずの医者は、世間の誤解(=医者は命を救う聖職者)に守られて不必要な権威を保ち続けてきた。僕はその権威を突き崩す最大の担い手として勉強熱心で意識の高い看護職に期待する。 でも今の看護のやり方では実効性が薄すぎる。世間も医者も納得できる、本当に患者さんのためになる看護の定義が必要だ。近代科学を駆使して病を取り除く(とされている)医師たちに勝るとも劣らない看護の定義。本来ならここで看護のあるべき定義を提案するべきだろうが、僕がその定義を考えるには経験が浅すぎる。とりあえず、ここでは看護をめぐる議論を整理するにとどめたい。 ******* この原稿を書くにあたり、知り合いから看護理論の本を読むように勧められた。彼女は僕がそのような素養もなく看護を論じることに不満を感じているようだった。 僕は、その(まっとうな)勧めをあえて無視することにした。昔から医療は「芸」、アートだ。芸を理論化する試みは、今回の目的からは外れる。いや、現場の一般人が理解できなくなる(またはドグマチックに信奉させてしまう)点で、理論は今回の考察の敵である。 さて、看護の定義をとりまく状況を整理してみると、「医者と対等な看護職」を目指す動きと「よりよい看護のあり方」を探る動きの2つに分けられるように思える。この2つは本質的に別問題のはずだが、多くの議論で意識的・無意識的に混同されている。患者さんのためになることを目指す「よりよい看護のあり方」の模索と、階級闘争的な看護の地位向上運動を安易に結びつけるのは問題だ。 というのも、地位向上運動は無意識のうちに前に述べたような三段論法に支えられているように思えるからだ。細かくなるがくり返してみよう:(1)医療者は、単に病気を治すよりも患者さんの全人的な幸せを追求すべきである (2)看護はケアという側面から全人的に患者さんを支援するが、医師は病気を治す(キュア)だけである (3)よって、看護は重要である。 この至極あたりまえに思える論理が本当に正しいかどうかについての疑念もすでに述べた。「キュアv.s.ケア」と対置させるほど、キュアとケアにはっきりとした境界があるわけでもなく、厳しく言えば、一種の言葉遊びにしかなっていない。ケアを前面に押し出した地位向上運動よりも、看護のあるべき姿、理論的な礎を築くほうが先決ではないだろうか。 しっかりとした看護の定義を示すことができない僕にできるのは、この問題について一般人の立場から3つほど提案を述べることだけだ。 ひとつは(今述べたように)、看護の定義を論じる際に、地位向上の思惑と看護そのものの意義を問う作業を分離してほしいということだ。分離などできない、すべきではない、と言うのなら、少なくとも、奇妙な近代科学否定論(医学は科学だから冷たい)や安易なヒューマニズムに訴えかけることはやめ、理知的で誰もが納得できる「戦略」を練ってからにしてほしい。 提案の2つ目は、いかなる結論も抽象的であっては困るということだ。現場に即さない議論は論外だが、現場に即していても抽象的な理論を提示するのは問題だ。いくら高級な料理でも、冷凍のまま出されては食べられない。この食事を食べるのは、冷凍のまま食することを生業とする学者先生ではない。「おいしい看護」の恩恵にあずかるのは、現場の看護であり、医者であり、患者でなくてはならない。そのために、議論は抽象的でも語る言葉は平易であってほしい。「かみ砕くと理論のエッセンスが失われる」と言われても、現場の一般人はそんな「高級料理」はお断りである。 最後の提案は「保健婦助産婦看護婦法」にある看護職の定義、「傷病者若しくはじょく婦に対する療養上の世話又は診療の補助をなすことを業とする女子」に常に挑戦することである。実際の看護職の日常は、「診療の補助」(医者のお手伝い)に重きが置かれている感が強いが、看護は医者の世話をするよりは、患者の世話(療養上の世話)をするべきである。理論的で分かりやすい看護の定義が現場からの積み上げで確立され、この法律の条文が書き直される日が早く来ればよい思う。そうなると、医者の職域の再検討も必要になる。「医師は、医療及び保健指導を掌ることによつて公衆衛生の向上及び増進に寄与し、もつて国民の健康な生活を確保する」(医師法第1条)などというオールマイティな期待は、現実に即して改められるだろう。その時、初めて真の「チーム医療」が芽生えることと思われる。 何にせよ、答えは常に日常のなかにしかないのだろう。医療は、極めて実践的な「芸」のせめぎあいなのだから。 |
『看護と医療』について
2001.1現在でのこの文章に対する私の所感です
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