『看護と医療』について

 「看護と医療」に対しては、今でも多くのご意見、ご感想をいただきます。97年に書かれたものですので、今の私の考えとはかなり異なっている面があります。そこで、私がこの文章を書くにいたった状況と現在の所感、そしてこの文章を掲載し続ける理由の3点を説明したいと思います。

 この文章は、97年11月から12月にかけて、私が関わっていたある団体のミニコミ紙に発表したものです。この文章を書く以前のl私は、あまり深く考えずに「看護」への無邪気な期待を持ちすぎていたところがあり、その期待が実際の看護学生との対話によって少しずつ崩れていく時期に書かれたのが、この「看護と医療」でした。

 今(01年初頭)になってふりかえると、この文章を書いた当時の私は2つの過ちをおかしていたと思います。第一には、看護というものをまったく知らない立場であったのに、周囲の看護学生(彼女らもまた臨床経験のない低学年でした)の「看護はアートである」との言い分をうのみにしすぎていたということです。看護がアートであることはまず間違いないことであるとはいえ、少なくとも、医療者の卵のさらに端くれにすぎなかった彼女らや私が抱いていた「アート」と、実際に臨床家の方が抱いている「アート」のイメージとはまったく異なるものであったと思われます。臨床経験に基づかないままでの理想論に同調した私は、ナイーブ(甘ちゃん)でした。

 第二に、そのような「看護=アート」論を論じる看護学生たちと議論を交わすなかで、彼女らの意見が臨床というものを無視した空虚なものではないかと疑問に感じ始め、その批判的心情を看護全体に向けてしまったことがあげられます。
 当時、私の周囲にいた看護学生たちはある学生団体のメンバーでした(わたしもそうでした)。その学生団体は長く活動を続けていましたが、今にして思えば、医療に対する抽象的で理想論的すぎる議論が多く、実効性ある話というものがほとんどなかったと記憶しています。学生団体にはよくある話なのですが。そこでたたかわされていた看護論は、「看護と医療」の中で触れたように、医師を半ば敵視し、看護の発言力を増そうとするいくぶん政治的な議論でした。
 その後、その団体に属さない多くの看護学生あるいは看護職の方たちと接する機会を得て、上のような看護論は看護界を代表するものとは言えない、という至極当たり前の意見を持つにいたりました。今の私が看護のどれほどの部分を知っているものか怪しい限りではありますが、それでも、多くの看護関係者は臨床に基づいた実効性ある看護論を作ろうと努力されていると感じました。その看護論とは、偉い人の本を引用したり医学生を議論でやり込めたりするような方法で表現されるものではなく、看護を実践するひとりひとりがまず自分の心の中に構築する形で作られていくものであります。

 以上のようなわけで、今の私は、「看護と医療」は、片寄った環境の中で看護全般を見渡すことなく行ったやや的はずれな主張であったと判断します。しかし、それでもなおインターネット上にて公開し続ける理由は、2つあります。
 まず、一度公開した文章は訂正しない、という私の信条があります。それは、自分の文章がほとんど誤りを含まないという意味ではなく、逆に、将来訂正しなければならないような内容の文章を安易に書くことがないようにするための、一種のモラルによります。自分で設定したこのモラルを守ることにより、悪い質の文章を書きにくくなるということがあり、また、悪い質の文章を書いてしまった時には反省の見本となります。恥ずかしくても文章は撤回しない、という姿勢は、インターネットという公の場所に議論を出す者の責務でもあると思います(撤回しないというだけで、誤りを含む文章については真摯に反省することは当然のことです)。
 ふたつには、「看護と医療」にも少しばかりの意義があると思われるためです。
 お読みになって分かるとおり、「看護と医療」は看護にかなり激しい疑問を浴びせつつ発展を期待する、との内容になっています。このような疑問は、一部の医師が看護に対して抱いている猜疑心と重なる部分があります(猜疑心が正しいかどうかは別として)。「看護と医療」は、医師の側からこの種の批判が寄せられたときに、看護を実践する方はどのように対応するのか、それを考えるきっかけになると考えます。何かを実践する場合、正しいことを実践するだけでは不十分で、なぜそれをしてなぜそれが正しいのかを分野外の人間に説明する必要があります。社会全体の流れとして、説明責任が強く要求される時代になった、とも言えます。
 これからは、看護であれ、医師であれ、一見無茶とも思える批判を浴びた場合に、根気強く相手を説得するスキルを全員が身につけておくべきだと思うのです。そうでなければ、看護はプロフェッションではなく「白衣の天使」のままであり続け、医師は「赤ひげ」あるいは「金儲けばかりしてミスの多いエリート」であり続けるでしょう。
 「看護と医療」が、プロボクシングにおけるサンドバッグのような役割を読者の中で演じることができればと考える次第です。

 以上、今の時点での私の考えを述べました。「看護とは何か」を論じることは「医療とは何か」を論じることに直結するとますます痛感していますので、これからも部外者の立場から看護を考えていきたいと思います。
 読者のみなさんからの、ご意見や批判を心からお待ちいたします。

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