瀋陽・中国医科大学図書館(03年8月27-28日)
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 瀋陽は満州国時代の首都・奉天だった。訪書した中国医科大学は、最初が満鉄が建てた南満医学堂、次いで満洲国立の満洲医科大学となり、日本敗戦後の民国時代には瀋陽医学院、1949年の新中国になって中国医科大学と校名が変遷している。写真左下は正門で、門の右奥にある古い建物は旧図書館。これを上から撮影したのが右下写真で、このように構内には一目で満洲時代と分かる、煉瓦造りや石造りの建物が多い。この煉瓦造り旧図書館は現在、学生会館のようだった。

 下写真は附属病院の外来と病棟で、外観はまったく昔のままに使われている。下右奥の新築病棟も同じ赤煉瓦の壁面と配色になっており、満洲統治は別問題として、当時の建物に人々が愛着を持っているように思われた。
 当大学には『宋以前医籍考』を編纂した岡西為人氏が南満医学堂から瀋陽医学院の時代までいて、中国医学研究室のち研究所を主宰していた。そのため多数の古医籍蔵書を誇っていたが、新中国後に北京に開設された中医研究院図書館に移管された。また当校は現代医学の大学なので、もう古医籍はないと思っていた。が、ここで満洲医大時代の古医籍を見たという話を10年以上前に聞き及び、不思議に思っていた。
 確かに今回いってみると厳重に施錠された一室に、上写真の如く当時からの古医籍が桧製の書架に多数ある。簡単に数えたところ915タイトル、古医籍は779タイトルあった。驚いたのは左下写真の岡西氏『宋以前医籍考』15冊で、1-4冊が国立瀋陽医学院出版の活字本、5冊目以降は岡西氏の精緻な万年筆手校本だった。右下は今回訪書の目玉の『仲景全書』。やはり間違いなく明・趙開美の版本である。
 左下は『宋以前医籍考』の岡西氏手校本で、欄外に「三七(1948)・三・二六・晩 完了/此日残寒、長子卒業中学」と親心溢れる書き入れがある。前の週に内蒙古図書館で岡西氏書き入れの『神農本草経』を発見しただけに、不思議な縁を感じた。右下は趙開美版『仲景全書』の『(宋板)傷寒論』で、同版は台北故宮と北京中医研究院と併せて3組の現存が明らかになった。
 これら古典籍には満鉄・満洲医大の旧蔵印や、1954年の中国医科大収蔵印がある一方、両者の中間期に当たる瀋陽医学院の蔵書印がなぜかない。すると古医籍の多くが瀋陽医学院に移管された際、これら『宋以前医籍考』の編纂に必要な書や貴重書だけが岡西氏の手許に別置されていたが、1948年の帰国時にどこ かに留置され、1954年に中国医科大学へ収蔵されたことになる。さらに遼寧中医学院図書館の蔵書票も古医籍各書に貼られていた。同校は1958年に瀋陽に創設されたので、その設立にあたりこれらが一度移管された後、なにか理由があって70年後半に再び中国医科大学に戻ったらしい。そのとき一部が北京の中国書店にも流れ、内蒙古図書館等が購入していたのである。
 わが師の大塚恭男先生は古医籍に耽悦された岡西氏を崇敬されるが、私も見知ることができなかった岡西氏に私淑している。これらを実見して移動を知ることができたのも、きっと因縁があるのだろう。