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真柳誠「満洲医科大学旧蔵古医籍の行方」、第105回日本医史学会総会、横浜・鶴見大学会館、
2004年5月16日、『日本医史学雑誌』50巻1号152-153頁、2004年3月

満洲医科大学旧蔵古医籍の行方

Whereabouts on Old Medical Books Collection of Manzhou Medical University

真柳 誠
 演者はこれまで、満洲医科大学が古医籍を集書した経緯とその後の移動について、以下のことを報告してきた。

 一九二九年、当時満鉄副総裁だった松岡洋右氏は漢籍古書の散佚してゆく情況を憂い、大連満鉄図書館に命じて当時の二十万円を投じ、北京の書肆から三万冊の古書を購入させた。うち古医籍一四一四種・約六千冊が南満医学堂、後の満州医大に寄贈された。この整理・研究にあたったのが岡西為人氏らの中国医学研究室と後の東亜医学研究所で、蔵書目録の『中国医学書目』(一九三一)と『続中国医学書目』(一九四一)から概要が分かる。

  一九四五年の日本敗戦で満洲医大は中華民国の国立瀋陽医学院と改名され、岡西氏は四八年五月まで留用された。この前後、古医籍の多くが民国政府の中央衛生研究院図書館に移管されたが、正確な年代は分からない。さらに四九年に新中国となり、五五年に北京に創設された中医研究院に旧満洲医大の古医籍が移管され、現在にいたる。すなわち、大連満鉄図書館→南満医学堂→満州医大→国立瀋陽医学院→中央衛生研究院→現中国中医研究院という経緯である。

 さて演者は二〇〇三年夏、中国各地を訪書し、以下の二図書館にて別経緯で伝わった旧満洲医大所蔵古医籍の存在を知った。

 第一は瀋陽市にある中国医科大学の蔵書で、当校は瀋陽医学院の後身、すなわち満洲医大の後身でもある。当校図書館の古医籍カードは八八四枚あるということだが、一部に洋装本もあるので、書庫で線装本だけ数えたところ九一五タイトルあった。カード数より多いのは、同一書の上帙と下帙が別々の書架に置かれる例が多いためだろう。うち古医籍は七七九タイトルあり、元印『聖済総録』残巻、『解体新書』完本、明・趙開美版『仲景全書』等が注目された。また諸家・史書・類書・目録等が一二二タイトルあった。うち岡西氏『宋以前医籍考』一五冊は、第一〜四冊が瀋陽医学院刊の活字本、第五冊目以降が岡西氏の精緻な万年筆手校本で驚くばかりだった。

 これら古典籍には満鉄・満洲医大の旧蔵印や、一九五四年の中国医科大収蔵印がある一方、両者の中間期に当たる瀋陽医学院の蔵書印がなぜかない。これらを岡西氏が日本に持ち出そうとしていたとも仄聞した。すると古医籍の多くが瀋陽医学院に移管された際、研究に必要な書や貴重書が別に一括して保管されていたが、のち一九五四年になって中国医科大学に収蔵されたのだろう。さらに不可思議なことに、遼寧中医学院図書館の蔵書票が古医籍各書に貼られている。同校は一九五八年に瀋陽に創設されたので、その設立にあたり古医籍が一度移管された後、再び中国医科大学に戻ったらしい。

 第二は呼和浩特(フフホト)市の内蒙古図書館で、日本関連古医籍を中心に五二点を閲覧したが、うち九点に満洲医大・中国医科大・遼寧中医学院の蔵印等を認めた。別に瀋陽医学院による「岡西為人先生寄贈/中華民国三七(一九四八)年五月四日」の記入と、中国医科大・遼寧中医学院の蔵印等がある書も一点あった。しかもこれら全ての帙には、「中国書店/幾冊幾元」の票が貼られている。当図書館の古籍担当者によると、恐らく七〇年代後期に北京の古書店である中国書店より購入したものという。するとこれらの書は、文革の動乱期に遼寧中医学院ないし中国医科大学から北京の中国書店に流れ、内蒙古図書館が七〇年代後期に購入したものと思われる。

 以上を要するに、満洲医大旧蔵の古医籍は主に現中医研究院に移管された他、いささか複雑な経緯で現中国医科大学に残り、その一部は古書店を経由して内蒙古図書館等に購入されていたことも分かった。

 本稿は文科省平成十五・十六年度科研費・特定領域研究(2)「東アジアにおける医薬書の流通と相互影響」による。

(茨城大学人文学部/北里研究所東医研)