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『漢方の臨床』49巻7号866-868頁、2002年7月

目でみる漢方史料館(169)

孫思{(込−入)+貌}史蹟の碑文に大塚・矢数先生の伝  解説   真柳  誠


 昨年十月十九日から二十一日の三日間、西安にて「第二回国際孫思{(込−入)+貌}与道教医学及第三回国際医学史学術会議」が開催された。私も中医研究院医史文献研究所の李経緯教授から要請され、学生五人を引率して参加・発表した。その二日目の二十日、西安郊外七十四キロにある孫思{(込−入)+貌}の故郷という耀県孫原村を皆で訪問するという。耀県には孫思{(込−入)+貌}崇拝がたかまった宋以降の史蹟が多数あるが、交通の便が悪く、以前は簡単に行けなかった。ところが高速道路が近年開通し、二時間弱の距離になったので、この企画になったらしい。孫原村の名は、むろん孫思{(込−入)+貌}の出身地をうたった最近の命名だろう。

写真1(上) 中国陝西省耀県孫原村の薬王碑苑
写真2(下) 薬王碑苑左奥の名医亭
 

 ここは大変な田舎にあるのだが、行ってみて一同驚いた。孫思{(込−入)+貌}をメインにした振興策の成功で「全国文明示範村」に指定され、村役場では孫思{(込−入)+貌}関連の資料室のみならず、ウェブページ(http://www.yaowang-ssm.org.cn/)まで立ち上げている。参加した中国の研究者も皆、村とはいえない豊かさぶりに感服していた。李教授から中国の三大名医といえば張仲景・孫思{(込−入)+貌}・李時珍と説明され、この成功もなるほどと妙に納得した。
 

 一行は村をあげての様々なイベントで歓迎され、その最初が役場から少し歩いたところにある、写真1「薬王碑苑」で挙行された当国際会議を記念する石碑二基の除幕式だった。薬王とは孫思{(込−入)+貌}の尊称。紅白の衣装をまとった「耀県孫原村歓慶鑼鼓隊」という、銅鑼と太鼓からなる総勢三十人以上の楽隊演奏に迎えられ、除幕後は恒例の爆竹というにぎにぎしさ。式後は広い薬王碑苑に唯一ある建造物で、苑左奥にある石碑数基を納めた写真2の「名医亭」を皆で参観した。
 
 

写真3(右) 石碑「二十世紀中医名人譜」
写真4(左) 石碑表面右下の記文

 その正面右側に約幅一×高さ二・五メートルの石碑・写真3がある。この碑文を右下まで読んでいくと、写真4のごとく劉恵民氏と岳美中氏の間に、なんと「大塚敬節、一九〇〇至一九八〇、日本人。漢方診療医典・漢方診療三十年等を著す」の記文があった。これはと思い撮影していると、裏面に日本人がもう一人あると教えられた。裏面最上部を見ると写真5のように、「矢数道明、一九〇五年生、日本茨城人。臨床応用漢方処方解説・漢方治療百話等を著す」と記されているではないか
 
 

写真5 石碑裏面上部の記文
 当碑文は郭鵬云氏の主編で一九九七年に撰文された「二十世紀中医名人譜」といい、碑の表裏に二十世紀の名中医百名の略伝各三行が生年順に刻まれている。日本の敬節・道明両先生まで記入された当碑のことを、かつて私は伝え聞いたこともなかった。同行していた北京や西安の友人も知らなかったとのこと。南陽の仲景廟には一九八六年、道明先生撰文揮毫の石碑が建立されている。仲景に次ぐ名医・孫思{(込−入)+貌}の史跡に、日本の両先生を記す碑が建ったことは大変な名誉といえよう。

 孫原村内にはこの他、孫思{(込−入)+貌}を祀った薬王祠・薬王墓・薬王苦読遺跡・薬王生誕地遺跡・薬王孫思{(込−入)+貌}薬用植物園・薬王広場など、郊外には宋以降の歴代碑や遺跡のある薬王山がある。西安に行かれる機会があれば、ぜひ足を伸ばされてはいかがだろうか。

(茨城大学人文学部/北里研究所)