大英図書館所蔵の敦煌医薬文書(1) 解説 真柳 誠
昨年九月にロンドンとケンブリッジでの会議に招かれ、合間に長年の念願だった大英図書館(BritishLibrary)にて訪書ができた。ここのOriental and India Officeには、多量の東アジア医薬文献と文書が収蔵されているからである。
文書以外は一九九六年に刊行された『大英図書館所蔵和漢書総目録』で概略が知られていた。うち医薬文献は日本書五十数点と中国書十点ほどで、多くはシーボルトとアーネスト・サトウの旧蔵にかかる。気になっていたそれらの数点は閲覧し、要所は複写できた。しかし念願はオーレル・スタイン(Aurel Stein一八六二〜一九四三)が、一九〇七年と一四年に持ち帰った敦煌莫高窟文書の閲覧とカラー複写である。かつて鮮明とはいえない白黒写真しか見られなかったし、実は本欄で紹介したかったせいもある。
スタイン将来文書は当時、大英博物館に収められたが、のち一九七三年に分離した大英図書館に移管された。うち莫高窟の漢文文書はLionel Gilesの整理で、S.1からS.6980までの目録が一九五七年に出版されたので、従来これにもとづき研究されていた。さらに日本・台湾・大陸の研究者により、一九九四年までにS.13624までの漢文非仏教文献が目録化されたが、スタイン文書全体では漢文文献だけで約一万八千点に及ぶという。
そこで現在まで知られた漢文医薬文書の全点につき、カラー複写を申請することにした。なお七千番台以降は、同図書館で調査中だった中医研究院医史文献研究所の王淑民氏にご教示いただき、スライド作製の諸手続きには同図書館中国セクションのFransis Wood氏とGraham Hutt氏に多くのご助力をいただいた。三氏のご厚意に深く感謝申し上げたい。
さて今回紹介するのは『新修本草』の唐写本で、S.4534および従来斯界に知られていなかったS.9434vである。本書については五年前、当欄の第九五回で国宝の仁和本で説明したが、唐の六五九年に成立した世界初の勅撰本草書である。
このS.4534は『新修本草』巻十七の栗条末尾〜梅実条途中(図1右側)、および巻十八末尾〜巻十九頭部(図2)の二残巻からなる。一九九四年の叢春雨『敦煌中医薬全書』は布帛に書写と判断するが、下記S.9434vの写真からすると、料紙は薄手の楮紙だろう。
S.9434v(図1左側)は一九九四年の栄新江『英国図書館蔵敦煌漢文非仏教文献残巻目録』で、『新修本草』の残巻と同定されていた。さらに今回、図1のようにS.4534の第一残巻と完全に綴合し、『新修本草』巻十七の梅実条後半〜枇杷葉条であることが明らかになった。ただしS.4534は断裂部分が補修でやや歪んでいるため、S.9434vとぴったりは綴合しない。
『新修本草』は史的価値が高いので、仁和寺の残本と『証類本草』にもとづき、これまで岡西為人氏と尚志鈞氏が各々復元本を作製してきた。しかし両氏ともに時代制約で、これら敦煌本を利用できなかったのは、まことに残念というしかない。
たとえばS.9434v末行付近にある枇杷葉条の蘇敬注文には「用此枇杷葉、須炙而拭去毛」と記され、意味がよく通じる。一方、仁和寺本では後半が「須火布拭去毛」、『証類本草』では「須火炙布拭去毛」と記される。いずれも語順や意味が不自然なので、どうも本来は「炙而」だったが、のち「火布」に誤写されていったらしい。無論、逆の例もあるのだが、古文献の研究に古写本の出現はやはり朗報である。
(06, 2. 11追記:岩本篤志氏の報告〔「文字と紙背から見た敦煌における『新修本草』」、唐代史研究会夏期シンポジウム、05, 8, 24〕によると、同じ敦煌本のP.3714『新修本草』は開元十一年(723)から天宝年間(〜756)の書写になる。するとS.4534およびS.9434vも同時期の写本である可能性が高い)
(茨城大学人文学部/北里東医研医史学研究部)