わが国における犬の狂犬病の流行と防疫の歴史 2 |
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日本における狂犬病 |
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わが国で狂犬病が記述されている最初の史料は、 古代の養老元 (717)
年に発布された 『養老律令』 で、 「其れ狂犬有らば所在殺すことを聴せ」 という狂犬を殺処分する規定がある。
ここには狂犬病の発生を記載している訳ではないが、 病名も中国的な●犬や風犬ではなく
「狂犬 (たぶれいぬ)」 という和名が既に使用されていることなどから、 その当時に狂犬病が発生していたのではないかと推測されている
(2)?。 その後、 永観2 (984) 年に撰述された 『医心方』 には、●?犬や風犬の記載があるが、
この書物が隋・唐の時代の書物を原本に著わされたものであり、 わが国における本病発生の有無については明らかではない。
その後、 江戸時代の元禄5 (1692) 年の五代将軍綱吉による 『生類憐みの令』
に、 「狂犬つなぎをかざる所は曲事たるべし」 という狂犬の繋留義務に関する規定があることから、
狂犬病発生に関する記述はないが、 その当時に小流行があったのではないかと推測されている
(2) 。 |
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その後もヨーロッパをはじめ世界各地で狂犬病が蔓延して、 人々を恐怖に陥れていた。 |
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三代将軍家光により、 寛永16 (1639) 年にポルトガル船の来航が禁止され、
同18 (1641) 年にオランダ商館を平戸から長崎の出島に移転させて鎖国が完成し、
それ以後は長崎がわが国唯一の海外貿易の門戸となった。 それから約90年後の江戸時代中期の享保17
(1732)年に、 狂犬病の大流行がこの長崎から始まった。 即ち、 大分県立図書館所蔵の
『両郡古談』 に拠れば、 享保18 (1733) 年の条に 「18年5、 6月頃より犬夥しく麻疹に而多くくるい人に喰付く、
はれ候者は疵口甚痛、 病犬の熱毒皮肉臓腑に通り多く死す。 尤去子年、 長崎辺りより流行、
牛馬等へも喰付候段、 打殺川にも入る也」 との記載があり (3) 、 享保17 (1732)
年に長崎で発生した狂犬病は、 翌年には現在の大分県下へも伝播したことを推測することができる。 |
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また、 別の史料 (6) によれば 「享保17 (1732) 壬子年、 今年西国筋は不気候に之あり、
備前、 備中、 広島、 備後辺之犬迄も病につき、 人民に噛付き、 多く人損しも有之、
播州辺迄も同様之由也」 という記載があり、 長崎での発生と同時に中国地方を山陽道に沿って一気に東走し、
4年後の元文元 (1736) 年東海道を経由して江戸まで到達したものと考えられる。 |
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津軽藩平山日記には、 「享保二十当年諸国共犬の病はやり斃犬多有之候」
との記録があり、 津軽地方にまで諸国流行の様子が伝えられていたことを知ることができる。
しかし、 享保20 (1735) 年に江戸を通り越して津軽地方まで伝播したとは考え難いので、
津軽藩の記録係が諸国の情勢を記録したものと推察するのが妥当であろう。 |
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前述した古代の 『養老律令』 や元禄期の 『生類憐みの令』 では、
それらに記載された狂犬病に関する規定から本病の発生が推測されたものであり、
その発生や流行を記録したものではない。 従って、 享保17 (1732) 年の長崎初発に始まるこの大流行が、
わが国での狂犬病の発生を明らかに確認できる最初の記録ということができよう。 |
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元文元 (1736) 年に幕府医官野呂元丈は 『狂犬咬傷治方』 (8) を刊行し、
「それ狂犬の人を咬ふこと吾邦古来未だこれを聞かず、 近年異邦より此病わたりて西国にはじまり中国上方へ移りちかごろ東国にもあり…」
と記載し、 江戸にも狂犬病が発生したことを明記している。 それを裏付ける史料
(7) の元文元 (1736) 年の項に 「十二月所々犬煩い多く死す」 との記録があることから、
野呂元丈のすばやい対応を窺い知ることができる。 |
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しかし、 その医学的記載内容のレベルは中国の隋、 唐、 元、 明の時代の医書からの抜粋が主体の漢方療法であり、
野呂元丈自身による臨床知見ではないようである。 治方としては、 「創口より血を絞り出し、
あるいは刺鍼して血を出し、 又その創面に放尿して之を洗い次いで其の創上に灸を施す。
咬みつかれし犬を殺し、 脳を取り、 創に塗ればかさねて起こらず」 という驚くべき方法が記載されていることを見るにつけ、
いかに中国の書物からの訳文とはいえ随分乱暴な方法であるのは驚くばかりである。 |
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本書は、 元文元 (1736) 年以来、 後を断たない狂犬病に対処するため宝暦6
(1756) 年に鈴木俊民が有馬温泉滞在中の野呂元丈を訪ね、 野呂の許諾を得て再刊
(8) されているが、 初発から20年後も犠牲者が続いた惨状を知ることが出来る。
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上方、 江戸以外への伝播については、 元文5 (1740) 年山口地方に
(9) 、 寛保2 (1742) 年山形県酒田地方に (11) 、 延亨元 (1744) 年山口県萩地方に
(10) 、 また、 寛延3 (1750) 年庄内の湯温海 (現西田川郡温海町) で狂犬病に感染した狼が村を襲い19人中8人が30日後に絶命し(12)、
宝暦4 (1754) 年村松藩 (新潟県) (13) 、 宝暦11 (1761) 年には終に下北半島にまで到達した
(14) 。 また、 文化5 (1808) 年新発田藩 (新潟県) でも大きな被害を与えた
(26) (27) 。 これらを時系列に配置すると、 表1のようになる。 |
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表1 狂犬病の長崎初発からの発生経過年表 |
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1732 |
長崎初発(3) |
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広島〜吉備〜播州(6) |
1733 |
大分(3) |
1736 |
江戸(7) |
1740 |
山口(9) |
1742 |
酒田地方(11) |
1744 |
萩(10) |
1750 |
庄内地方(12) |
1754 |
村松藩(新潟県)(13) |
1761 |
下北地方(14) |
1808 |
新発田藩(新潟県)(26)(27) |
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この大流行の初発が長崎であったことは、 長崎が当時海外との唯一の接点であったことから理解できる。
また、 初発の翌年に大分県で発生していることから、 九州での伝播も速やかであった。 |
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本州への接点は地理的に至近距離にある下関に上陸したであろうと考えられたが、
実際には下関ではなく広島・備前・備中・備後・播磨という山陽道の要所で同年に発生していることは、
瀬戸内海の海路との関連も考えられ、 非常に興味のあるところである。 即ち、
九州から本州への伝播は、 潜伏期間中の犬が海上交通路を経由して、 広島に上陸したのではないかと考察される。
今後は、 これらの地域の西海航路、 瀬戸内海航路や北前船などの日本海航路による人と動物の移動に関する研究を待ちたい。 |
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西国からの狂犬病の流行は、 山陽道を蹂躙の後、 江戸までの東海道筋を4年かけて本州東部へ伝播していったとみられる。
初発から9年後には山形県庄内地方へ、 同様に、 29年後には青森県の下北半島にまで到達している。
このことから狂犬病が、 その間に発生をくり返しながら広範囲に伝播していった様を考察することができる。 |
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このように本病の伝播地域が拡大していた1700年代後半から1800年にかけて、
江戸では明和7 (1770) 年の冬に犬の大量死があったことや (7) , 天明3 (1783)
年に水戸藩江戸屋敷医官原昌克 (通称玄●、 号南陽、 字子柔) (15) が 「●狗傷考」
を刊行したことなどから、 江戸での流行を推測することができる。 |
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即ち、 この書では、 本病に罹患した場合の症状を 「若し夫れ理療を一失すれば、則ち其の毒膏肓に入る。
或いは偶々● (癒える) 者も亦生冷油賦を誤食すれば、 即旧毒再発、 口渇引水し、
妄言狂躁、 狗叫の如し。 其の証奇怪、 名状すべからず」 と現実的に表現しており、
また咬傷部の絡針刺絡並びに灸による焼灼法を用いた治療法を開陳して、 現代にも応用されている
「発煙硝酸焼灼法」 に通じるものがあり、 原昌克の見識の高さを評価したい
(16) 。 |
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江戸での事象を記録した武江年表 (7)によれば、 江戸での狂犬病の発生が類推される記載として、
「元文元 (1736) 年12月所々犬煩い多く死す」、 「明和7 (1770) 年此冬犬多く死す」、
「嘉永5 (1852) 年夏病犬多し」、 「文久元 (1861) 年此月犬病流行、 十一月までに多く斃る俗に犬のコロリという」
のような記載を見ることが出来る。
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江戸に到達する手前の東海道筋には、 狂犬による犠牲供養塔があったという。 「場所は、 現在の横浜市戸塚区信濃町の旧東海道筋、 これより保土ヶ谷区境木 (相模の国と武蔵の国の国境を示す) に上ろうとする路傍に、 二段台石と共に高さ1.5m、 方形の根府川石に、●犬供養塔と彫刻された苔蒸した石塔で、 塔裏には、 突如現われた狂犬によって、 多数の人畜が犠牲になったので、 村内有志によってその霊を弔うために建立したと刻記されていた」 という (17) 。 |
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明治3 (1870) 年の東京府下での狂犬病の発生は、 その後に日本国内において連続的に発生する流行の温床となった。 |
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長崎での初発以来、 江戸時代から明治、 大正を経て昭和31年までの220年以上の長きにわたり、
人畜に甚大な被害を与え続けた狂犬病の歴史を、 過去から現在への時間の連続という視点で捉えると、
昭和32年から今日まで44年間発生をみなかったという時間の経過は、 たいした意味を持たないと考えるべきではないだろうか。
従って、 国際交流の激しい現代を考えると、 本病への防疫の努力は寸時もこれを忽せにはできないのである。 |
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