それは鑑定ではない
「病理鑑定医は、検察官からカルテを提供されていませんでした。子宮と依頼書のみで鑑定をしていたのです。その結果が「帝王切開の時に胎盤を一緒に切ったのは間違いない」という供述となっていたのです。」(なぜ、無実の医師が逮捕されるのか)。だからこんなものは占いであって病理鑑定とは言えない。占い師のくせに、ぴたりと当てられずに鑑定内容が二転三転したのはどういうわけか。
「予断を持たないよう、臨床データは見ずに行う」(男性医師の勾留中死亡、奈良地裁、遺族の請求棄却)。本人は「職人気質」に酔っているつもりかもしれないが、傍から見れば「自分は占い師であるとの宣言に他ならない。占い師のくせに、「鑑定書」と「解剖記録」に相違があるのはどういうわけか。
あんたの言う「予断」って、ひょっとして、「カルテを読んでも頭が混乱するだけ」ってこと?それとも、医師免許を持ってはいても、カルテが読めないことを隠す言い訳?
私は臨床医として何度も病理解剖に立ち会ってきた。そしてその都度、執刀医に詳細な臨床経過を説明した。血液や尿などの検体検査結果も、肺炎が疑われた時は必ず胸部単純レントゲン、胸部CT、脳卒中の場合には必ず頭部CTも説明した。臨床情報を要らないという病理医は一人もいなかった。
執刀前の説明があいまいだったり不十分だったりすると、担当医を怒鳴りつける病理医もたくさん見てきた。
私自身も病理解剖執刀の経験が十体以上あるので、その気持ちはよくわかる。なぜ怒鳴りつけるのか?もちろんいい加減な仕事はしたくないからだ。亡くなった患者さんと解剖に同意してくださった御家族に対する責任を全うするために、何もゆるがせにしたくないからだ。
診療は患者さんとの同意の下に行われる。病理解剖は、その患者さんのことを思って診療していた医師が、その患者さんを愛してきた家族の同意を得て、初めて行われる。解剖医はそれだけの責任を負う。そんな重大な責任を果たすために、亡くなるまでの診療経過を是非とも知りたいと思うのが当然である。
診療情報無し行われる解剖は、黙って座ればぴたりと当たるとの看板の下に行われる儀式である。それは占いであっても解剖ではない。ましてや通常の病理解剖に加え、より大きな社会的責任を伴う鑑定であろうはずがない。
→ 一般市民としての医師と法