なぜ専門家は信用できないのか?
ーあるいは『徒然草』第152段に関する回想ー

それは、ただ、年を取っているからとか、肩書きが大げさだとか、判断基準の妥当性を吟味することなしに「専門家」というラベルを貼って、ひたすら崇め奉るだけで思考停止に陥り、その人間の発言や行動を審査しようとしなくなるから。

 西大寺の静然上人(じやうねんしやうにん)、腰かがまり、眉白く、まことに徳たけたる有様にて、内裏へ参られたりけるを、西園寺内大臣殿、「あなたふとの気色(けしき)や」とて、信仰(しんがう)の気色(きそく)ありければ、資朝卿(すけとものきやう)これを見て、「年の寄りたるに候」と申されけり。
 後日(ごにち)に、尨犬(むくいぬ)のあさましく老いさらぼひて、毛はげたるをひかせて、「この気色(けしき)尊(たふと)く見えて候」とて、内府(だいふ)へ参らせられたりけるとぞ。

霞が関にいた時から、思っているんだけど、あの、「医学専門家」って呼称、何とかならないもんかね。ただの「協力者・助言者」でいいと思うんだけど。しばしば助言も協力もできない人間を据えざるを得ないという事情はあるにせよ。

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