我々は不完全な死体なのです

昭和十年十二月十日にぼくは不完全な死体として生まれ何十年かゝって完全な死体となるのである (寺山修司「懐かしのわが家」より)

「先生は若くて健康でいいですね」。そんな何気ない患者の言葉に、私はしばしば傷ついたものでした。「早く病気を治して元気になりましょう」と言えない場合もたくさんあるもの。そして、そこで生じる、自分の若さと健康に対する後ろめたさに、ずっと悩んできたのです。その後ろめたさから解放してくれたのが、この詩です。「死体」を、「癌患者」「アルツハイマー病患者」と置き換えれば、応用範囲がぐんと広がります。

「人を助けたいから医学部に入った」という医学生の志望理由の影には、「健康な自分は、患者を助けることによって、健康である後ろめたさから解放されたい」という思いが潜んでいます。裏を返せば、助けられない時は、後ろめたさに責められる運命が待ち受けているのです。

医師免許は病者を救うための訓練を受けた人に授けられるものであり、それ故に医師免許を持つことが病者に対する後ろめたさから解放してくれる手段となると思いがちですが、常にそうとは限りません。

どんな医学生もいずれ、自分が治せる病気ばかりではない現実から目を背けられなくなります。世の中には、医師がいなくても治る病気もあれば、医師がいても治らない病気もあります。さらには、医師がいなければ治っていたはずの病気が、医師がいたばかりに治らなくなってしまう悲劇を目の当たりにすることもあります。

ではどうすればいいか。実は特別な仕掛けは要りません。誰もが毎日十分苦しんでいるのですから、後ろめたさなんて感じる必要はないのです。自分は苦しんでいないって?冗談でしょう。あるいは随分と物忘れがひどくなったものですね。その物忘れだけでも十分苦しみのネタになるはずです。

四苦八苦は誰もが持っている苦しみです。生老病死、怨憎会苦、求不得苦、五蘊盛苦、愛別離苦。これだけの負の資産を持ちながら、まだ苦しみが欲しいと贅沢を言うのでしょうか。自分が必ず悩む「病」と「死」さえ使いこなせていないのに?

自分が「不完全な死体」であることに気付く喜びは、自分の「病」、自分の「死」という学習資源に気付き、いつかは病みゆく自分、死に行く自分という当事者意識を取り戻す喜びに他なりません。自分の持っている四苦八苦を忘れ、他者の苦しみまでも自分のものにしようとする強欲な人間は、後ろめたさからの解放からますます遠ざかるばかりです。

患者に教えてもらえなければ成立しない医師という職業
「先生は若くて健康でいいですね」。このさりげない言葉に、なぜ傷付くのでしょうか?「同情」という行為の背景には、「自分はああならないでよかった」という「安心感」があります。患者はそんな同情しか持たない医師を鋭く突いてきます。そしてその攻撃に、多くの医師は傷付くのです。「先生は若くて健康でいいですね」との攻撃を生じさせないためには、医師の心の中にある「同情」を「共感」に変換する必要があります。冒頭で紹介した詩はその変換器になるのです。

「共感」と「同情」の決定的な違いは、当事者意識の有無です。「自分もいずれ病を負う者、いずれ死に行く者である」。医師がそのような当事者意識を持てれば、患者はわれわれ医師を、自分の苦悩を共有してくれる「後輩」と認めてくれます。そうすれば、攻撃されることもなくなり、あなたは後ろめたさから解放され、先輩の話に落ち着いて耳を傾けることができるでしょう。

医師の心の中に生まれたのが、「同情」ではなく「共感」であることを患者が感じ取れれば、患者と医師との間にある病者と健常者の対立構造は解消します。そして患者は、決して自分が惨めな病人ではないことに気付き、病を負って死に行く者としての先輩意識から、病や死という教育資源を活用して医師を育てるという、患者本来の崇高な使命を自覚するようになります。

そもそも患者に教えてもらえなければ、医師という商売は成り立ちません。問診は患者が音声言語で病気の歴史を医師に教えることです。診察は非言語性メッセージで医師に体の状態を教えることです。初診外来ばかりでなく毎日の病棟回診でも、例え、一瞬の間の廊下でのすれ違いざまでも、医師は患者から大切なメッセージを受け取ります。「患者に教えてもらう・助けてもらう」のは倫理ではなく、医師という職業の根本原理なのです。その患者の本質的な属性である病と死が、医師に対する教育資源でなくて何でありましょう。

(日経メディカルオンライン 2011/8/18掲載)

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