記号の意味を考える
ー質量分析は難しいと考えている人のために

もう四半世紀も前のことになります。2015年のラグビーワールドカップで、南アフリカに勝った後の試合で日本を下して敵役となったスコットランド。そのスコットランド最大の都市であるグラスゴーで研究生活を始めた1990年4月からほどない時期でした.私が借りていたアパートの近くに、日本食の店が新しくできたというのです。ロンドンと違って、日本食の店はおろか、(細長いインディカ米ではなく)ジャポニカ米を手に入れるのにも苦労するグラスゴーに住んでいると、私のように特に和食にこだわりがなくても、無関心ではいられないものです。そこで早速出かけてみましたが、実は何を食べてどんな味だったのか、よく覚えていないのです.今でも鮮烈な記憶として残っているのは、飲み物のことです。

アルコール類のメニューに「SAKE」とありました.グラスゴー生活でもスコットランド産のビールで晩酌は欠かさない口でしたので、やはりこういう店に来たからにはと思い、勇んで注文しました。見える範囲にいる店員に東洋系は見当たりませんでしたので、銘柄なんぞ尋ねてもわかるまい、それよりコーヒーカップに入れて持って来ないでくれ、せめて茶碗にと祈っていたら、あに図らんや、きちんと1合徳利とおちょこが出てきました。なあんだ、少しはわかっているじゃないかと安心した隙を突かれました。

「まずは空きっ腹にぐぃーっと」というところに行き着く前に、むせ混んでしまいました。いえ、酒が腐っていたわけではありません。とっくりの中身は正真正銘の酢だったのです。

確かに酢も酒も無色透明です。酒を百薬の長という人もいれば、酢健康法なんていかがわしい宣伝も耳にしたことがあります。容器も似ています。鑑別点はラベルしかありません。ところが、スコットランド人にとっては「酒」と「酢」は「とてもよく似たKanji」なのです。

ロンドンですと,日本食店の間でも競争が激しいので,必ず日本人を要所に配置して,そういうとんでもない間違いが起きないようにしているのですが,グラスゴーの ような地方都市ですと,日本人の絶対数自体が少ないので(私の滞在していた頃は、ロンドンには数万人以上の在留邦人がいたのに対し、グラスゴーには50人前後しかしないと言われていました),日本語の読み書きができないスタッフによる事故が日本食の店でしょっちゅう起こる。残念ながらそれはずっと後で聞いた話でした.

日本人にとって「酒」と「酢」という漢字の違いは、その字が表す実体の違いと密接に結びついています。この二つの字を取り違えれば、そこで一瞬にしてその店の信用が失われ、店が潰れる。この二つの字の違いはそのぐらい大切なものです。日本で暮らす日本人にとっては。

しかし、スコットランド人にとっては、酒と酢はむしろ様々な面でとてもよく似た「食用液体」です。「店の信用を失う?とんでもない。わざとガソリンを徳利に入れて出したわけじゃない。こういう”ささやかな失敗”がスコットランドの日本食を育てる人材を生み出すんだよ」 件のグラスゴーの日本食店の経営者はそう主張するでしょう。

なぜこんな話を持ち出したかというと、北陵クリニック事件における鑑定のイカサマが、この酒と酢の取り違えと瓜二つだからです。ただ一つ違うのはグラスゴーでは素人の過ちですが、北陵クリニック事件では確信を持ったすり替えだったという点です。

時、場所、環境、人・・・・記号の意味は様々な要素によって大きく違います。m/z258とm/z279、ベクロニウムの未変化体と変化体。字面だけ見ても、その字面の背後に控える違いの重大性は理解できません。「酒」と「酢」という漢字をどんなにすらすら書けるようになったところで、店で酒と酢を取り違えて客に出せば、その店に対する信用が一瞬にして消失する恐怖を想像することはできません。

「m/z258とm/z279のどちらが出ても得られる結論に変わりはない」 そう主張する検察官や裁判官は、酢を入れた徳利を客に差し出して店を潰す店員と何ら変わるところはないのです。

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