葛藤回避の国民性

臓器移植の問題で典型的に見られるように、特に生命倫理関連の問題でグレースケールの判断が求められる事例では、国民性の差がはっきりしますね。ペロポネソス戦争-ゲルマン民族移動-十字軍-宗教改革-二次にわたる欧州大戦と、数千年にわたって常に喧嘩に明け暮れ、葛藤を飯の種にしていた血が騒ぐのでしょう。米国ではワイドショーの扱いで侃々諤々の議論になる。だから、政権によってぶれる。日本では、とにかく議論を避ける。一般市民に当事者意識が全く生まれない。「むずかしい・わからない・専門家ではないので・・・」。

これが金のことになると俄然目の色が違ってきて、日本人一億三千万総経済評論家になる。ミイラを30年間家に置いといたなんてことはもうどうでもよくて(確かに「死体遺棄」としては時効なんですが)、年金を受け取っていたことがけしからんて話に全てが収束してしまう。

こと「科学」に関しては、「予定調和」が大前提になっている国では、あらゆる場面で葛藤を回避しようとするドライブが強く働くので、臨床試験(これも葛藤をモデル化したもの)も、相手にツッコミを入れる武器であるところのリテラシーも育たないのはむしろ当然なのかもしれません。

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