さらば中世裁判
ー裁判が「使えない」これだけの理由ー

この世の中で正誤の二者択一で全てが解決できる空間は、予備校の教室の中だけだ。それなのに、あの混沌そのものの医療現場で起こった出来事の、どこが正しくてどこが間違っていたかなんて、脈の取り方一つ知らない連中に決めてもらおうだって?とんだ国営ギャンブルがあったもんだ。

前書き:焼け太る中世
はじめに
惨憺たる医療事故裁判のアウトカム評価
透明性ゼロ:ユーザーレビューを許さない裁判
自らの信頼を失墜させてきた裁判所
今できること・これからすべきこと
裁判被害者・メディア被害者の自覚を殺してきた裁判真理教

まえがき:中世の焼け太り
「弁護人に取調べの立会がない。そのような制度だと真実でないことを真実にして、公的記録に残るのではないか。弁護人の立会が(取調べに)干渉するというのは説得力がない…司法制度の透明性の問題。ここで誤った自白等が行われるのではないか。…有罪判決と無罪判決の比率が10対1(注:1000対1の間違い)になっている。自白に頼りすぎではないか。これは中世のものだ。中世の名残りだ。こういった制度から離れていくべきである。日本の刑事手続を国際水準に合わせる必要がある。」(日本の刑事司法は『中世』か

2013年5月にジュネーブで開催された国連拷問禁止委員会の第2回日本政府報告書審査の席上での、Domah委員(モーリシャス最高裁判事)によるこの指摘に対して、今日まで有効な反論は一切見られません。その席にいた外務省参与の上田秀明人権人道大使(当時)による、理性を失った怒声を「反論」と名付けるのなら別ですが。つまり誰もが上記の指摘を認めているわけです。

以後,取り調べに対し弁護人の立会が認められたとは寡聞にして存じません。それどころか、この間に起こったのは、中世からの脱却とは全く逆の動きでした。翌年3月には、加藤裕、金沢和憲、荒木百合子の仙台地検の3人の検察官と、河村俊哉,柴田雅司,小暮紀幸の3人の裁判官の合計6人から、私は「シャラップ」ならぬ「藪医者」呼ばわりされました。それが堀江貴文氏が言うところ「検察の焼け太り」となる「刑事司法改革」の成果でした。

はじめに

検察の妥当性判断に対して医療事故の一方当事者である医療側から深刻な不信感が示されているというのはゆゆしき問題です。これは、医療事故領域における刑事司法が機能不全に陥ることを意味します。医療事故は、医療側と患者側の紛争であるわけですから、医療側からも患者側からも受け入れ可能な紛争解決制度が必要です。受け入れ可能と言えるための最低限度の条件は、裁定者が双方の言い分を公平に聞いてくれるという信頼感の存在であろうと思います。刑事司法における検察官は、その客観義務の存在によって、裁定者側の重要な役割を担っています。その検察が、大野病院事件によって医療側の信頼感を失ったわけです。

これは、医師の主張ではない。元検事の弁護士の解説である(元検弁護士のつぶやき 医療側からの刑事免責の主張をどう理解すべきか)。この記事が掲載されたのが2008年7月である。

我が国では、国家権力に対してひどく寛容な(あるいは簡単に迎合する)お人好し国民性のためか,「お上のお裁きを云々するなんてとんでもない」という同調圧力が江戸幕府開闢以来400年間も続いていた.この傾向は社会的にどうでもいい分野では、今後400年以上続くかもしれない。しかし医療のように,中世裁判の結果が人材や士気に、ひいては人命に甚大なる実害を及ぼす分野では,そんな暢気なことは言っていられない。上記のように、元検事でさえ、刑事医事裁判に対してこれだけの危機感を持っている。さらに、医療事故民事裁判の判例でも裁判所不信が生じている(関連記事)。そして北陵クリニック事件は、検察、裁判所だけでなく、科学なき科学捜査を含めた杜撰な捜査を行った警察、冤罪創作を主導したメディア、筋弛緩剤中毒という虚偽の診断を支え続け、今日も神経難病患者の人権を踏みにじり続ける医師達への不信感も増大させた。そんな状況下で、当事者達が裁判という「全ての関係者に不幸をもたらす危険なシステム」を極力回避するよう行動するのは当然である.

裁判真理教、すなわち「裁判は真相究明の場である」という仮説を証明するために、「裁判は真相究明の場ではない」という帰無仮説を否定しようと、どんなに躍起になっても、出てくるのは全て、「裁判は真相究明の場ではない」というエビデンスばかりである。この点については、北陵クリニック事件を始めとした数多くの冤罪事件の資料があるから、そちらに譲る。本稿は、裁判真理教と中世医事裁判という倒壊の危機に瀕している廃屋の実態と、そこからの避難を真剣に考えている方々を対象としている。

惨憺たる医療事故裁判のアウトカム評価:20年前の論文が示す「すでに起こった未来
●医療事故訴訟が医療過誤の有無と関係なく起こること
●賠償金の有無も,賠償金の多寡も過誤の有無と関係ないこと
●医療事故訴訟には医療過誤の抑制効果がないこと
以上は,訴訟大国米国における一連の研究(N Engl J Med. 1996 335:1963-7)で90年代半ばに既に明らかとなっていた(関連記事).私が「医療事故訴訟は被害者を救済しない」を自分のホームページに掲載し,この事実を紹介した2003年当時は医療事故訴訟が激増しつつあった.しかし,「すでに起こった未来」 (P.F.ドラッカー)だった.それから12年が経ち,民事・刑事を問わず,日本の裁判に対する異議申し立てが主に法曹関係者から続々と出現するのを見るにつけ,その「未来」がようや く「現在」になりつつあると感じてはいる.しかし,その加速度がどの程度になっていくのかは,関係者の当事者意識,言い換えれば裁判被害者としての自覚にかかっている.
規制改革会議が「岩盤規制」なんて言ってるが,あいつら全然わかっちゃいない.最優先課題の岩盤規制である裁判を俎上に載せずして何が規制改革か.ただのおままごとじゃねえか.もちろん規制改革会議のお偉方は裁判の被害者にはならないから,それでいいんだろうが,裁判被害者となる我々が,「事故調ができれば医事裁判は激減する」と能天気な思考停止に感染し続ければ,医事裁判は激増するだろう.

透明性ゼロ:ユーザーレビューを許さない裁判
「すこしの事にも、先達はあらまほしきことなり」(徒然草第五十二段)。いつの世も先人の体験談は重要である。ましてや裁判のような人生を左右する場面におけるユーザーレビューの必要性については、説明は無用だろう。本来ならば裁判制度が始まった時から,「暮しの手帖」の向こうを張った「裁きの手帖」のような裁判ユーザーレビュー誌があるべきだったのだが,国家権力に対してひどく寛容な(あるいは簡単に迎合する)お人好し国民性のためか,「お上のお裁きを云々するなんてとんでもない」という同調圧力が江戸幕府開闢以来400年間も続いていた.その結果、裁判を始めて使う人は、闇鍋をつつくのと同じようにトンデモ裁判を掴まされ,そこで初めて「裁判は真相究明の場ではない」という厳然たる事実に気づく.そんな笑えない喜劇が繰り返されてきた.

自国の裁判制度への信頼度を国際比較した調査(「諸外国の人たちがどんな組織・制度に信頼を寄せているかをグラフ化してみる」 (上)……日本編(2010-2014年)(下)……諸外国編(2010-2014年))では,日本では57.8%で調査対象国中、第一の高さだが,訴訟大国の米国では9.7%となっている(下記に追加解説).この差が裁判の日常性,つまり裁判が身近であればあるほど,裁判のひどさがわかって愛想を尽かす.それが米国で,日本で裁判への信頼度が高いのは,ほとんどの市民が裁判を使ったことがないからという理屈になる.これは実際に民事裁判を使った人の満足度調査によりさらに明らかとなる.民事裁判を利用した人々が訴訟制度に対して満足していると答えた割合は18.6%だった(佐藤岩夫ほか編 『利用者からみた民事訴訟―司法制度改革審議会「民事訴訟利用者調査」の2次分析』 日本評論社)

では、裁判ユーザーレビュー誌がこれまで存在しなかったのは、全て水戸黄門と遠山の金さんが大好きな国民の皆様の責任なのだろうか?そうではない。肝心の裁判所が、情報開示に徹底抗戦し、透明性ゼロの裁判制度を維持してきたのだ。中世裁判所の世界遺産レベルの羞恥心が隠したいものとは、一体何なのだろうか?

裁判の「公開」とは何か~法廷メモを解禁させたレペタさんに聞く:1989年3月まで、国(裁判所)はメモの騒音で裁判ができない?!との理由で法廷でのメモを「公式に」禁じていた。その後も、実質的にメモをさせない嫌がらせが続いている(判決のメモ取りを制限する最高裁職員とバトルに)。また、民事訴訟法で「何人も閲覧を請求することができる」と規定している訴訟記録も、閲覧はできるが複写は許されないという現状も維持され続けている。
さらに、裁判は公開されていると言いながら、ここまでネットが発達した世の中になっても、どこでどんな裁判がいつ行われるかを事前に知る手立ては実質的にないと言ってよい状態が続いている。注目の裁判については、事前に裁判所ホームページに傍聴券交付情報が掲載されるが、それ以外の裁判の開廷について第三者が把握できる機会は、基本的には開廷当日の裁判所の掲示を確認することしかない(眼底造影検査アレルギー死亡訴訟)。


自らの信頼を失墜させてきた裁判所
北陵クリニック事件は絶好のユーザーレビューの機会を私に与えてくれた.筋弛緩剤中毒なる診断を支持する医師が一人として地球上に存在しないのに,脈の取り方一つ知らない検察官と裁判官が、科学も医学も一切無視し,筋弛緩剤中毒なる診断を主張し、神経内科専門医によるミトコンドリア病の診断を全面的に否定して,最高検と最高裁から「よくやった」と絶賛されて昇進していく.そんな世にも不思議な物語が今日も、そして太陽が東から昇るとほぼ同程度の確率で明日も維持されているであろうことを、この国の住人以外で、一体誰が信用してくれるだろうか。ペリー来航以来160年が経とうと、どんなにネットが発達しようと、裁判制度という、社会的に極めて重要なインフラサービスで、こんな不思議な物語が維持されている。その秘密は一体どこにあるのだろうか?国家の最高権力者は言うだろう。「民がそれを望んでいるからだ」.確かにそうなのかもしれない.

教育・人材養成を含めて法曹のシステム全体が社会の変化から置き去りにされているのに,法曹界は,「正義の神殿は永遠に不滅」との思考停止の下に,古色蒼然たるの裁判システムのメインテナンスも品質改善も一切拒絶し,国民の皆様もメディアもそれを良しとしている.これが「みんなで維持する中世裁判」の正体だ.こんな伝統芸能にいつまでも付き合ってはいられないと私は思う.もしあなたがそう思わないのだとしたら,それでもいいだろう.中世裁判の被害者になる覚悟があるのなら.

今できること・これからすべきこと
アメリカでも医事裁判の品質が極めて低劣なことは上述の通りだが,それでも医療事故訴訟が絶えないのは,訴訟が産業として成り立っているからではないかと個人的には考えている.すなわち,アメリカでは,裁判は人を幸せにする仕組みではないことは,社会全体で合意形成ができている.それほど割り切れているからこそ,訴訟を一種の公共事業として雇用創出に使おうというのだ.特に医事裁判では,世界で群を抜いて高額な一人当たりの医療費に象徴されるような莫大なお金を医療セクターから法曹セクターに吸い上げて,そこで新たな雇用を創出しているのではないか.しかしそんな真似は日本では決してできない.だから,アメリカとは全く別の方法で,我々は(!当事者意識が大切です)医事裁判に対処しなくてはならない.

この国は,江戸幕府開闢以来400年間,「お上のお裁きを云々するなんてとんでもない」という合意形成でやってきたのだから,それが今日明日に変えられるわけがない.だから,我々が今できることと言えば,とりあえず医事裁判を回避することだけだ.くれぐれも最高裁判所に火炎瓶を投げ込もうなどと時代錯誤的な愚行に走ってはならない.北陵クリニック事件を始めとする冤罪事件の滞貨の山が示すように,現在の最大の裁判改革障壁は,肝心の裁判運営側に全く危機感がないことだが,最高裁判所に火炎瓶を投げ込んでも運営側に危機感が生まれるとは誰も思わないだろう.

医療者を業務上過失で刑事訴追すること自体,誰の幸せにも繋がらず,関係者の心を傷つけ人材を失うだけの「使えない」システムだとわかった以上,脈の取り方一つ知らない警察官が医療事故を「捜査する」中世的なスキームは「民事不介入」のスローガンのもと,全廃した方が,市民の不幸を低減できる.医療事故を「捜査」する暇があったら,認知症高齢者による高速道路逆走など,医学知識や医療常識が必要な他の分野に振り向けた方が,よほど市民のためになる.

医療者側で医事裁判を回避する一番確実な方法は診療に携わる機会を減らすことだ.たとえばネズミはあなたを訴えないから,人間相手ではなく,ネズミを相手にするとか,御遺体はあなたを訴えないから法医学者か病理学者になるとか,選択肢はいくらでもある.実際にどうするかは当事者意識に基づき自分で考えるように.次に,リスクの少ない診療機会の比率を高めること.実際にどうするかは当事者意識に基づき自分で考えるように.第三に法的リテラシーを身につけること.実際にどうするかは当事者意識に基づき自分で考えるように.

では,今からすべきことは何かというと,実はそんなことは私にとってはどうでもいい.なぜなら私のように老い先短い身には,上記の「今からできること」をやるのが精一杯で,それで命の時間切れになる可能性が極めて高いからだ.以下は,まだ自分は50年は生きると楽観的になれる人のための試案である.あくまで試案だから,あと50年後に,思惑がはずれても,決して私に文句を言わないように.もっともその頃私はこの世にいないけど.

これからの医事裁判を考える上で,一つ参考事例があるとすれば,知財高裁のロードマップでしかないだろうと私は思っている.しかし,それにしても50年もの時間がかかる.気の長い話だ.私にとってはどうでもいいことだと言ったのはこのためである.ADRについては,何とも言えない.産科のやつがうまく行ってないみたいじゃないか.あういう先行事例の失敗を十分に検討しないまま,新規に別のトラックを作っても,失敗を繰り返すだけだろう.

裁判被害者・メディア被害者の自覚を殺してきた裁判真理教
ここまで中世裁判が野放しにされ,その被害が拡大する一方だったのは,裁判の被害者達に被害者としての自覚が全く無かったからだ.それは我々が馬鹿だからではなく,裁判被害者の自覚の目を摘んできた「岩盤信仰」があったからだ.それが,裁判官は常に正しく,裁判は真相究明の場であるとする裁判真理教である.裁判真理教から脱却し,裁判被害者・メディア被害者の自覚を持ち,中世医事裁判の批判的吟味を行う.それは,私にとっては「すでに起こった現在」だが,多くの医療関係者にとっては,まだ単なる「未来」である.

1983年にアリゾナに生まれたJessica Coxには生まれつき腕がなかった。しかし彼女はテコンドーの黒帯を持ち,2008年,つまり彼女が25歳の時に飛行機の操縦免許を取った.嘘だとは思わない方も,義手無しで足だけで操縦する世界初のパイロットの動画を御覧あれ.彼女は「それはできない」とは言わない.「それは”まだ”できるようになっていない」と言う.

組織・制度に対する信頼度国際比較を日本諸外国で比較したデータから

「World Values Survey(世界価値観調査)」による調査。信頼に関する精査対象となる組織・制度は「宗教団体」「自衛隊(国軍)」「新聞・雑誌」「テレビ」「労働組合」「警察」「裁判所」「政府」「政党」「国会」「行政」「大学」「大企業」「銀行」「環境保護団体」「女性団体」「慈善団体」「国連」。それぞれの組織・制度に対して選択項目に「非常に信頼する」「やや信頼する」(以上肯定派)「あまり信頼しない」「全く信頼しない」(以上否定派)「わからない」「無回答」が用意されているが、このうち「非常に信頼する」「やや信頼する」を足して、そこから「あまり信頼しない」「全く信頼しない」を引き、各組織・制度の信頼度(DI値)を算出した。この値が大きいほど、その国では対象の組織・制度が信頼されている事を意味する。

  1位 裁判所 国軍 新聞 テレビ 政党
日本 裁判所 58 46 46 38 -57
アメリカ 国軍 10 65 -53 -50 -73
オーストラリア 国軍 18 74 -65 -60 -72
韓国 銀行(45) 34 27 22 27 -47
中国 国軍 54 77 34 39 61

上記以外の国々と比較しても、裁判所が信頼度1位になっているのは世界中で日本だけである。この信頼度が中世裁判を放置してきた。新聞、テレビへの信頼度と裁判所への信頼度が密接に関連している点にも注目すべきだろう。つまり、アメリカやオーストラリアでは、メディアに対して裁判監視の役割を全く期待していない。それに対して日本ではメディアに裁判監視を依存している、というか白紙委任状を出していることが推測できる。メディアリテラシーと法的リテラシーが密接に関係していると私が考えるのも、こういうデータがあるからだ。

参考資料
組織・制度に対する信頼度国際比較(上 日本編)
組織・制度に対する信頼度国際比較(下 諸外国編
事故調論議に見る裁判真理教と愚民司法
医療事故訴訟は被害者を救済しない
続 アメリカ医療の光と影 第5回 Harvard Medical Practice Study(医療過誤と医療過誤訴訟)

一般市民としての医師と法に戻る