「私たち」の組み入れ基準

筑摩書房から(まだ一冊だけだが)本を出したので,それ以後,「ちくま」を毎月送っていただいている.先般五百号を数えたほど,息が長い.A5版で,筑摩書房の本の宣伝ページを含めて80ページほどの小冊子なのだが,さすがに本屋さんの出すものだけあって,良質なコラムが並んでいるので,毎月楽しみにしているが,全てのコラムを読むわけではない.大抵は,書き手とタイトルで決める.先日も,たまたま,「私たちは何者なのか?」という疑問を題名にしたコラムを目にした時,これは,読むのはよそうと思った.書き手は私の知らない人だったから,先入観は全くないわけで,純粋に,題名が気に入らなかったのが,読み飛ばす原因になったわけだが,なぜこの題名が気に入らなかったのだろうかと考えてみようと思った瞬間,答えが出た.やはり霞ヶ関での審査経験は伊達じゃない.

「たち」が気に入らなかったのだ.これが「私は何者なのか?」という題名だったら,必ず読んでいただろう.

「私は何者なのか?」という問いは,私という当事者にとって,五十六年余りのこれらからも,そしてあと何日か,何週間か,あるいは何年か,全くわからないが,これからも,ずっと私に突きつけられるに決まっている.

突きつけられるに決まっているから,他人のことは知ったこっちゃない.私は自分のことで精一杯だ.

「私たちは何者なのか?」という問いかけの,いい加減さ,あいまいさ,評論家的なところ,当事者意識の希薄さ,暇つぶしにふさわしい点・・・・そういうった特性の源は,
「私たち」の組み入れ基準を,某超大国の金融緩和以上に無限大に広げることにある.

元PMDAの審査員としては,万病に効く薬を開発しようとして,組み入れ基準を万病にしたプロトコールを思い出してしまうのである.

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