北陵クリニック事件 事件性のない「事件」
・・事件性を証明したとする土橋鑑定は最初から誤っていた・・

仙台弁護士会阿部泰雄
(再審通信 201651日 No. 111

事件性を証明した「鑑定」の誤り
北陵クリニック事件は確定審以来、事件性の有無が争点。確定判決における事件性証明の証拠は公判前の警察の鑑定である。

1.警察鑑定(土橋鑑定)を理解するための用語と留意事項の解説
マスキュラックスとベクロニウム
マスキュラックスはベクロニウムを主成分とする筋弛緩剤の商品名である。ベクロニウムは化学合成された薬品の成分であり自然界には存在しない。
標品
分析化学などで使用される標準品。例えば、ベクロニウムの標品でいえば不純物を含まない純粋なベクロニウムである。純粋なベクロニウムそのものを未変化体という。
血液からは未変化体のみが検出される
(マスキュラックスの薬剤情報)マスキュラックスを投与された人の血液からはベクロニウムの未変化体のみが検出され変化体は検出されない。これは薬剤情報に明記されている科学的事実。土橋鑑定の鑑定事項でも血液から未変化体を検出することが鑑定目的とされた。
ベクロニウムの加水分解
ベクロニウムの標品を水溶液で溶解し放置すると、温度、時間経過、pH状態に応じて加水分解が進行し変化体となる。しかし静脈投与の人体内では大部分が未変化体のまま胆汁中や尿中に排泄される。
質量分析の原理
物質を質量分析計でイオン化しイオンの電磁気的振舞いの違いを利用し、物質を構成する原子分子の質量を測定する。原子分子は固有の質量を有するから、逆に、質量の測定により原子や分子で構成される物質の同定ができる。
構造の違うベクロニウムの未変化体と変化体の質量分析
ベクロニウムの未変化体と変化体は異なる分子構造を持つ。二つは厳密に区別され、分析において混同はあり得ない。ベクロニウム標品(未変化体)を質量分析すると未変化体の分子量特有の信号Yが検出される。加水分解したベクロニウムの変化体の質量分析では変化体の分子量特有の信号Xが検出される。(ベクロニウム未変化体の分子量は557、分子イオンはm/z557、2価の分子量関連イオンがm/z279、本報告ではm/z279を便宜「信号Y」とする。ベクロニウムの変化体の分子量は515、分子イオンはm/z515、2価の分子量関連イオンがm/z258、本報告ではm/z258を「信号X」とする。)
標品との対比鑑定
土橋鑑定の鑑定事項は「鑑定資料にベクロニウム未変化体が含有されるか」である。土橋はベクロニウムの標品と血液等の鑑定資料をそれぞれ同条件で質量分析してその結果を対比した。小6女児の血液に推定されるベクロニウムの特異的な性質があるかどうかを確認しようと、純粋なベクロニウムの標品と対比する、「対比鑑定」を行なった。対比鑑定では「標品の鑑定」が血液の含有物質を同定する基準となる。標品鑑定の誤りは天秤ばかりの秤の狂いと同じで論外となる。

精密質量鑑定
質量分析法では分析対象分子の質量を小数点以下の精密質量で測定ができる。ベクロニウムの精密質量は557.4318・・・である。精密質量を測定することにより、標品と対比する、いわゆる「対比鑑定」をせず、血液中のベクロニウム未変化体の同定ができる。土橋鑑定では精密質量の測定を行なっていない。

2.土橋鑑定は最初から疑わしかった
土橋均大阪府警科捜研技術吏員は、小6女児の血液の中にベクロニウムの未変化体の存在を証明したとする(土橋鑑定)。ベクロニウムの標品(未変化体)の質量分析で信号Xが出て、女児血液の質量分析でも信号Xが出て結果が一致したというのだ。法廷でも土橋は「もう未変化体が出ているから、変化体の分析は必要ないと考えてしなかった。」と証言した。上述のとおり、ベクロニウムの未変化体からは信号Yが出て、変化体からは信号Xが出る。標品(未変化体)から変化体の信号Xが出たとする土橋鑑定は最初から疑わしいものだった。また土橋は血液等鑑定資料は分析で全て使い切ったとした(鑑定資料全量消費)。鑑定資料の再鑑定ができないまま、1審の仙台地裁は筋弛緩剤混入事件と断定した。

2審で弁護人は、「ベクロニウムの標品(未変化体)の分析では信号Yが出る」とする国際学術誌に掲載された論文4点と、弁護側による実験鑑定を提出した。土橋鑑定は、海外の研究結果と異なり、重大な疑問があるとし、仙台高裁に土橋鑑定の標品(未変化体)鑑定の再現性検証の実験鑑定を申請した。しかし、高裁は鑑定を不要とする検察側意見を採用し控訴を棄却した。

最高裁では検察官が「土橋は標品(未変化体)から間違いなく信号Xを検出した。ベクロニウムを誤って加水分解させ変化体を分析したなどということはあり得ない」とする答弁書を出し、上告棄却となった。検察官の答弁書も、最高裁の上告棄却も「標品の鑑定」では「未変化体から信号Xが出ること」を前提とし、是認している。

3.標品(未変化体)の質量分析で信号Xは出ない
再審新証拠の志田保夫鑑定は質量分析の実験データで「ベクロニウム標品(未変化体)の分析では信号Yが出て、信号Xは出ないこと」を実証した。土橋鑑定は「標品の鑑定」を基準として「鑑定資料」を対比する「対比鑑定」である。そのため標品の鑑定から誤まっている土橋鑑定は、いわば誤った「秤」と対比していることになり、およそ鑑定としての意味をなしていない。

4.検察は反論を断念、全量消費を撤回
検察官は反論を断念した。そして一貫して主張していた鑑定資料の全量消費を撤回した。「本件鑑定直後、土橋も標品と血液の分析で信号Yを検出して記録していた、だが信号Xの検出で事件性の証明は十分とみて出さなかった」とし、「記録」を再審請求審に証拠提出した。弁護人は、再審請求審の審判対象は確定判決の当否であり、これと関連性のない「記録」は勘案も斟酌もできないと意見を述べた。再審開始は避けられないものとなった。

再審請求棄却決定の誤り
1.証明のない推認だけの事件性認定
ところが仙台地裁は再審請求を棄却した。棄却決定は土橋鑑定が未変化体含有の証明力を失なったことは認めた。だが検察が反論を断念したにもかかわらず、「標品の質量分析では未変化体からなのか加水分解した変化体からかは不明だが信号Xが出る可能性がある。土橋が血液から信号Xを出したことも疑いない。ベクロニウムの変化体又は未変化体が血液中に存在すると推認できるから事件性の推認もできる。」として再審の開始を拒んだ。

2論理が破綻している
信号Xは加水分解した変化体に由来するのであり、未変化体からは検出されない。土橋はベクロニウムの標品(未変化体)を加水分解させるという失敗をし、ベクロニウム未変化体の特異的性質である信号Yを検出せずに、分解物・変化体の性質である信号Xを検出したとしている。対比鑑定の前提となる標品の鑑定を誤った失敗鑑定である。また決定は土橋が血液から「間違いなく」信号Xを検出したというが、検出を裏付ける実験データは示されない。裏付け資料がない以上、血液の鑑定が実際に行われたかどうかすら疑わしい。さらには精密質量の測定ではない。そして、血液から変化体が検出されないことは前記の薬剤情報に明記されている。棄却決定は破綻した土橋鑑定と「心中」したようなものである。

発端は「事件」と断定した誤り
1.カルテを見ずに事件と断定

2000年10月31日、腹痛と嘔吐で北陵クリニック小児科を受診した小6女児に痙攣と意識障害が出た。仙台市立病院に転送後も意識が回復しない。12月1日、クリニック経営者から様子を聞いた東北大法医が宮城県警に赴いて筋弛緩剤の犯罪の可能性を伝えた。2001年1月6日、警察は「北陵クリニックの元准看護師守大助を殺人未遂の容疑で逮捕した、点滴に筋弛緩剤を入れた疑い」と発表。カルテは1月15日押収まで顧みられないままだった。

26日殺人未遂で起訴、殺人既遂の1件を含む計5件の起訴まで逮捕が繰り返された。公判においても専門医の検証は一切なく、確定判決は「医療行為を装った凶悪犯罪」と断定した。

2.カルテの検証を怠ったツケが
新証拠に回ってきたカルテを検証した池田正行医師(米国内科学会専門医)は「点滴前の主訴である腹痛と嘔吐、その後の急変症状と検査データの全てを一元的に説明できる唯一の疾患は、ミトコンドリア病(メラス)である」とする意見書(再審新証拠)を出した。2011年に国際医学誌に症例報告も発表した。今日まで反論や異論は全く出されてない。前述の質量鑑定論に加え、症状・病態論でも、改めて「守さんの点滴は女児の急変とは全く関係がなかった」と断言できる。

即時抗告審で第1回三者協議開催
即時抗告後、仙台高裁の裁判長ら3人は全員が交替している。この1月19日、第1回の進行三者協議が開かれた。検察官は提出された即時抗告理由書や補充意見書に答弁書を出さない。裁判所も提出を促そうとしない。この点どうみるべきか。検察官は一定の求釈明事項には応える姿勢はみせ、裁判所も証拠開示申立事項に何らかの判断をする姿勢を示している。進行についての第2回三者協議の日程は決まっていない。

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