当軸一幅は字体・用紙等より明刊とみられるが、刊年等の記載部を欠く。
一方、当軸と形式・字体がまったく同じ一枚刷の『仰人伏人明堂之図』(695.3-1-1)も禿氏本にある。その「仰人明堂之図」の上部末行には「嘉靖庚戌(二十九年,一五五〇)孟陬吉旦於寧波府梓焉」の刊記があり、しかし用紙等からすると江戸中期頃の覆刻と分かる。禿氏本にはまた同形式・同字体の『側人明堂之図・人身五臓之図』一枚と、江戸中期頃作・刊の『背面経脈図』一枚との合帙本(695.3-55-2)がある。これも用紙等からして江戸中期頃の所刊であるが、その「側人明堂之図」は一部の装飾的図形がないのを除けば、当明刊の『側人明堂之図』とまったく同じである。
以上の比較を総合すると,明の嘉靖二十九年に仰人・伏人・側人の明堂図各一と、人身五臓の図一が、寧波府で一括刊行されていた。その側人明堂之図の部分が当明刊の一幅である。一方、この嘉靖二十九年刊の各図は、江戸中期頃に一括して覆刻され、それが禿氏本の『仰人伏人明堂之図』と『側人明堂之図・人身五臓之図』であることが分かる。
中国では気が流れるルートを経脈といい、各経脈上に針や灸の治療を行う経穴(ツボ)がある。後漢の末頃には経脈ごとに各経穴への針灸方法や効果をまとめた『明堂』があり、のち経脈や経穴を描いた人体図を「明堂図」と呼ぶようになった。当然それには正面・背面・側面の図が必要であり、当軸などの仰人・伏人・側人はこれを意味する。当『側人明堂之図』には各経脈と経穴が描かれ、また図上には足少陰腎経・手厥陰心包経・手少陽三焦経・足少陽胆経ごとに所属の経穴が経気の流注順に列記されている。