←戻る 真柳誠『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍貴重書解題(自然科学之部)』37-38頁 、京都・龍谷大学発行、1997年7月30日

紹興校定経史証類備急本草 二十八巻二十四冊(021-543-24)写字台本

宋・王継先等校 宋紹興二十九年上進 江戸〔後期〕写 毎半葉匡郭約21.3×15.8p

 当本の料紙は日本楮紙の薄葉で、本文毎半葉は十二行二十字詰。諸特徴より江戸後期頃の写本と認められる。巻一・二は序と目録で、序は筆写底本の第一葉が欠けていたらしく、途中の「神農旧経付名医別録」から始まり、毎半葉七行十三字詰、目録は七行二段に記す。巻三からが本文で、巻二十八で終わる。

 本書の成立・刊行・伝承には不祥な点が多々あるが、一般には次のように考えられている。紹興二十七年(一一五七)に王継先が校上した『大観本草』が国子監から刊行され、ついで継先らは詔を奉じて同書を再校し、自注も加えて同二十九年(一一五九)に『紹興校定経史証類備急本草』と名づけて進上した。それ自体は未刊に終ったが、継先らの新注などを薬図に加えて二十二巻とした略本が、同一書名で修内司から刊行された。この二十二巻本は明代の蔵書目録に見えるが、清代には散佚している。

 一方、本書は日本に写字台本二点を含め、計二十七点の所蔵が知られ、大英図書館・台北故宮博物院図書館・北京大学図書館も各一点を所蔵する。すべて日本写本で、国外へは明治以降に伝えられた。それらは十九巻本系、十九巻本の巻次を再編して増やした二十八巻本系、十九巻本の図を主に抄撮した五巻本系に大別できる。また根本の十九巻本系も、すべて同一原本から派生し、かつ人部と菜部中品以下を欠く。したがって宋で刊行された本書二十二巻のうち、三巻を欠く十九巻の宋版ないし写本の一点が鎌倉〜室町時代にあり、それが江戸期の転写で三系統に分かれたと考えられる。

 本書の校訂者とされる王継先(?〜一一八一)は宋代河南省開封の出身で、世に王医師と号せられた。顕仁太后の病を治して優遇され、官は承宣に至った。要職につき権勢を振うこと二十年、自福をはかり民居数百を占して造宅し、良家の子女百余人を奴婢とした。一一五九年に太后が卒すると権を失い、弾劾されて福州に追われ、そこで卒した。本書の上進序文の末尾に王継先の名が詳定校正官として記されるが、実際の作業は継先の前に検閲校勘官として列記される弟子の高紹功・柴源・張孝直が行ったという。

 写字台文庫の当本には六一九薬が載り、うち五一〇薬について計七九二の図がある。後人の手がかなり加えられ、錯簡や誤脱もあるが、絵はよく文も多く、内容が豊富な点では伝写本中の善本とされる。当本は岡西為人氏の解題を付し、昭和四十六年(一九七一)に東京・春陽堂より現寸大で影印出版されている。

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