←戻る 真柳誠『龍谷大学大宮図書館和漢古典籍貴重書解題(自然科学之部)』 11-12頁、京都・龍谷大学発行、1997年7月30日

〔家居医録〕女科撮要 二巻一冊(690.9-472-1)写字台本

明・薛己(立斎)著 明〔嘉靖二十七年序〕刊 家居医録の一 毎半葉匡郭20.4×13.3p

 当本の各巻頭には「家居医録巻上 女科撮要」「家居医録巻下 女科撮要」と記され、叢書の一部であることが分かる。また当本に序跋等はないが、本書の別版には嘉靖二十七年(一五四八)の范慶序がある。それによると、薛己は自著をまとめて「家居医録」と名付け、大司馬の中丞翁に見せたところ、その刊行を翁が范氏に命じたという。すなわち『家居医録』の初版は嘉靖二十七年の序刊本であり、それに本書が収められていることになる。また本書にこれ以前の版本はないので、嘉靖二十七年の序刊本が本書の初版と知れる。

 のち嘉靖三十三年(一五五四)に薛己の『癘瘍機要』が『家居医録』に追加刊行されたことを、その写字台本(690.9-365-1)などより分るが、版式は当本と異なる。また『家居医録』の刊行はこの二回以外に知られていない。

 以上からすると嘉靖版の特徴を備えた当本は、嘉靖二十七年序刊の『家居医録』に収められた本書の初版と認められる。この初版は他に中国北京の首都図書館と、中国中医研究院図書館に各一点の所蔵しか知られていない。なお本書はのち、明後期編の『薛氏医案』に収められ、いく度も復刻されて広く流布した。日本では承応三年(一六五四)刊の和刻『薛氏医案』十六種本がある。

 薛己(一四八七〜一五五九)は江蘇省呉県の出身で、立斎と号した。代々の医家で、弘治年間に太医院に入り、正徳年間に御医となり、官は嘉靖年間に院使まで進んだ。四十四歳(一五三〇)で院使を辞し、呉県に帰郷して臨床と著作を没年まで行ったという。本書は帰郷後の作であり、ゆえに「家居医録」の名を付すのだろう。

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