写字台本 十冊本(690.9-16-10)・十二冊本(690.9-129-12)
明・徐用誠(彦純)原撰 明・劉純(宗厚)続添 明正徳元年序刊 毎半葉匡郭23.8×16.1p
当版は写字台文庫に十冊本と十二冊本の各一点が所蔵される。十二冊本には@洪武二十九年(一三九六)の劉純序(補写)、A同上年の莫子安序(補写)、B正統四年(一四三九)の楊士奇序(原刻)、C同五年(一四四〇)の王暹後序(補写)、D正徳元年(一五〇六)の汪舜民の重刊序(補写)があり、十冊本にはB(原刻)しかない。うち最後年のDは唯一原刻のBと同一書式の半葉六行十二字詰で、もとは写刻体であったのを補写したと思われる。目録・本文も十冊本・十二冊本は同版で、版心の下部に当版の版下を清書したことを示す「布政司吏葉春芬写」が刻入されている。
以上の序文等によると、劉純は師事した馮庭幹より徐用誠の著作を授けられ、その各門末尾に続添して『玉機微義』と名付け、莫子安とともに一三九六年に序を記した。これが本書の成立年である。未刊だった本書の原稿を劉純の家系から入手した陳有戒は、刊行のため楊士奇に経緯の序を記させ、また王暹らが誤字を校正し、刊行の後序を一四四〇年に記した。これが本書の初版で、陝西の藩府本だったらしい。福建提督の劉弘済は陶廷信と常汝仁に計り、本書を復刻して南方にも広めるための序を汪舜民が一五〇六年に記した。写字台本の当版二点は布政司吏の葉春芬が版下を清書したというだけあって、堂々たる大字の精刻である。したがって正徳元年(一五〇六)序刊の福建の藩府本と認められる。同版は他に上海図書館・上海中医薬大学図書館、日本の武田・杏雨書屋に各一点の所蔵が知られる。
原撰者の徐氏は諱を彦純、字を用誠といい、一三八五年に没した。浙江省山陰県の出身で、名医・朱丹渓(一二八一〜一三五八)に師事したという。著書の『医学折衷』が『玉機微義』の基となり、他に『本草発揮』四巻が伝わる。
劉純は字を宗厚といい、父の劉叔淵は朱丹渓の弟子だった。のち陝西省西安に移り住み、著書は本書以外に『医経小学』六巻、『雑病治例』一巻、『傷寒治例』一巻が伝わる。
本書は巻一の中風門から巻五十の小児門まで、病門毎に論と治方をまとめた典型的な方論書である。当時の書としては珍しく引用文に文献名を明確に標記し、百以上の書を参照して著されている。中国では清末までに十回近く復刻された。日本医学中興の祖、曲直瀬道三(一五〇七〜九四)は本書の嘉靖九年(一五三〇)版を愛読し、その著『啓迪集』(一五七四)に本書を四〇四回も引用する。のち江戸前期に古活字版で二回、整版で一回復刻されている。