明・魯伯嗣著 明嘉靖二十一年序刊 毎半葉匡郭約21.1×13.4p
当本には皇帝へ上奏する嘉靖十八年(一五三九)の許讃の進表疏と、礼部より刊行する旨をいう厳蒿の嘉靖二十一年(一五四二)序がある。これ以外に刊年を示す記載はないので嘉靖二十一年の序刊本となるが、版式や刻字・用紙等が同年の礼部刊行のものとは思われず、およそ嘉靖後期から万暦初の十六世紀後半の坊刻本と推定される。国内の所蔵は少なく、寛永十六年(一六三九)以前に幕府の紅葉山文庫に架蔵された嘉靖二十一年序刊の陳氏積善堂版が内閣文庫にある。すると当写字台本も江戸初期に舶載されてきたものだろう。
本書には蕭謙が序を記した陝西藍田県の初版、王雲鳳が正徳元年(一五〇六)に刊行序を記した第二版もあったらしいが、ともに伝本はみあたらない。許讃の進表疏によれば、彼が正徳二年に翰林院編修の時に本書を見い出し、価値を認めて礼部からの校正刊行を嘉靖十八年に推挙した。これが叶い同二十一年に礼部で刊行したのが第三版である。なお中国大陸には嘉靖十八年の徳馨堂刊本の所蔵記録もあるが、徳馨堂は万暦年間に本書の王肯堂訂正本を刊行した書店なので誤認だろう。嘉靖二十一年版は大陸に八点の現存記録があるが、それらが礼部刊の第三版なのか、当本のように三版に基づく坊刻本なのかは分らない。のち明清代にも復刻され、江戸前期十七世紀中葉にも王肯堂訂正の万暦刊本に基づく和刻本がある。
本書は各巻頭の記述から魯伯嗣の著とされるが、その事跡の記録はなく、許讃の疏でも昔の名人の著述と相伝えられるとしか記していない。なお本書名の嬰は乳幼児、童はおよそ十五歳以下の小児を指す。つまり小児科書で、全十巻の各巻に十問ずつ、計百の小児病について論と医方が記されており、後世いく度も復刻されて広く普及した。