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江戸期渡来の中国医書とその和刻版 

真柳 誠

1 はじめに

  江戸時代、中国の知識は多くが書籍を介して伝えられ、日本文化の各面に受容されてきた。同時に日本化もなし遂げている。これら外国書の影響を考えるとき、最初に問題となるのは渡来と普及の年代である。また、渡来と普及の程度も考慮しなければならない。渡来書については、書名・舶載年などの公的・私的記録が江戸期全般にわたり長崎を中心に作成されていた。さらに、これら現存する1次史料の記録より早い年代に中国書名を記録した文献で、伝聞や間接引用の可能性がほぼ否定される2次史料もある。真柳と友部は、こうした約30種の伝存史料より医書を抽出し、各書の記録年を網羅した「中国医籍渡来年代総目録−江戸期(以下、『目録』と略す)」[1] を報告した。

  一方、江戸期は出版業の隆盛にともない、中国書の和刻版が大量に刊行された。普及に関しては、江戸期も出版物となる意義は大きい。つまり中国医学知識の普及年代と程度は、中国医書の和刻年と和刻回数から確実な示唆が得られよう。和刻状況は、小曽戸氏らが「和刻本漢籍医書出版総合年表(以下、『年表』と略す)」[2] を報告している。

   そこで『目録』と『年表』を中心に集計し、比較してみたい。これを分析するなら、江戸期の著述を個々に検討するのとは違う視点より、中国医学の伝来と一般社会が受容した実態を史的・計量的に把握できるだろう、と考えたからである。
 

2 渡来中国医書の検討

2-1 資料の検討と集計

   『目録』には依拠した現存の1次史料と2次史料の記載にしたがい、渡来記録年等を約980の見出し書名について収めた。この見出し書名には蘭書や朝鮮書がふくまれ、書名の一部が異なっていても同一と判断できる中国書は多い。あるいは『目録』報告後に、見出し書名と年代に追加が発見されたものもある。これらを再集計した結果、江戸期に渡来記録のあった中国医書は、版本等の相違を除き計 804書目だった。

    この 804書目を分野ごとに分けると次のようだった。薬物書の「本草」類が87、古典の仲景医書に関する「傷寒」と「金匱」類が64と10、古典の「内経」類が25、「針灸」類が15、疾患別の専書としては目立って数の多かった「痘疹」類が37、それ以外の医方書を主とする「医方等」類が 566である。

  次に 804書目につき渡来年等の記録回数を集計すると計1917回だった。これを分類別で10年ごとに集計して表1に、その推移をグラフ1にあらわした。

2-2 渡来書の傾向と特徴

2-2-1 年代推移

  表1に示した1601〜1870年はおよそ江戸期に相当する。この 270年間を計量的に概観するため、歴史区分とはややずれる年代もあるが、90年ごとに3等分して前期・中期・後期とし、再集計したのが表2である。

  表2によると、渡来医書全体では中期の記録がもっとも多く、ついで後期、前期の順となる。ただし各分類でみると、全体と同順なのは「医方等」「本草」「内経」のみで、他の分野では異なっていた。これらはある程度、年代推移を反映しているかもしれないが、もう少し細かく見てみる必要もあるだろう。

  270年間に計1917回の渡来記録があるので、平均では各10年ごとに71回の記録があった計算になる。表1グラフ1で見ても、各10年ごとの記録回数は60〜110 程度におさまる期間が多い。しかし極端に記録が少ない期間や、 150前後を越える期間もみえる。

   1601〜30年に記録が少ないのは以下の理由による。すなわち長崎における渡来書の調査は、寛永7年(1630)にキリシタン書の摘発のため幕命で春徳寺が開かれ、春徳寺住持が代々この職を継いだことに始まる[3] 。したがって1630年以前に渡来書の公的な調査記録はおそらくない。ただし1601〜10年にのみ11書の渡来記録があるのは、林羅山の「既見書目録」[4] で中国医書を記す1604年部分を2次史料に用いたからである。

   一方、寛永15年(1638)の鎖国令により、唐船貿易は長崎に限られた。そして翌1639年から長崎奉行の命で、向井元升(1609〜77)が幕府図書館への納入目的で輸入書籍を調べ始めている[3] 。1次史料にある「御文庫目録」は向井家の記録と推定されており[5] 、それで1631〜40年から渡来記録が急激に増加している。

  1661〜80年に渡来記録が急減したのにも理由がある。清朝は抵抗する鄭氏を誅滅するため、順治18年(1661)から康煕23年(1684)まで遷界令を発し、一切の船舶の出海を禁じた[6] 。この影響が急減した理由のほぼすべてに相違ない。

   1771〜90年と1821〜30年の計30年間が少ないのは、1次史料に不足があるためだろう。と同時に、この期間は2次史料の不足が重なっている。1861〜70年に記録が一つもないのも1次史料・2次史料双方の不足による。これには幕末ということも関連するだろう。

  他方、1711〜30年と1831〜50年の各20年間は記録回数が増加している。前期間では、享保5年(1720)に徳川吉宗が天文・暦法の研究のために弛緩令を出し[7] 、書籍の輸入制限を緩和した。吉宗自身も地方志ほかを注文し、これを受けた唐船が1723年より持参し始め、1725・26年には大量に運んできていた[8] 。それらが影響したと考えられる。後者の期間は1次史料・2次史料ともに豊富なため、記録回数が増加している。

   以上のように、渡来の記録回数はたしかに年代ごとの増減があった。しかし清朝が遷界令を発した期間を含む1661〜80年を除くなら、実際の渡来医書数は江戸期全般を通して極端な変化はなかっただろう。つまり各10年ごとに60〜110 回程度の渡来記録が通常で、中期の1711〜30年と後期の1831〜50年の各20年間にピークがあった、と結論づけられる。

   ちなみに表1で分野ごとの年代変化を各々のピークでみると、それらのピークは少なくとも一つが1711〜30年か1831〜50年に重なっている。上述の年代推移は、各分野ごとの渡来記録でもおよそ同様だったとみていい。

2-2-2 渡来の頻度

   渡来記録の年代推移は、全体でも分野別でもおよそ同様の傾向が認められた。しかし江戸期全体を一括し、渡来記録の回数と書目数を比較するなら、分野ごとの特徴が浮かびあがるだろう。

  そこで版本などの相違を除外した同一書が全江戸期で記録された回数、すなわち記録頻度を求めてみた。記録頻度は渡来書の記録回数 (b)を書目数 (a)で割ると得られ、結果を表3にまとめた。その平均値は 2.4で、1中国医書あたり全江戸期で 2.4回の渡来記録があったことになる。この平均値から大きく離れているのが「内経」の 3.3と、「痘疹」の1.6だった。ともに平均値 2.4の30%以上の差があり、とうてい集計上の誤差範囲ではありえない。「内経」は少ない書種がくり返し渡来し、「痘疹」はその逆なのである。この特徴に渡来の傾向を窺えるかもしれない。

   「内経」類25書のうち渡来記録が5回以上は8書で、原典の『素問』は20回、注釈書の『素問註証発微』は11回だった。原典と少数の注釈書がくり返し渡来したのは、「内経」が中国医学でもっとも重要で難解な古典だからだろう。ただし『素問』も『素問註証発微』も江戸前期すでに和刻されており、日本の需要で頻度が高まったとは考えにくい。中国の事情で舶載されてきた結果、渡来記録の頻度が高くなったと推定すべきだろう。

   一方、「痘疹」類37書のうち渡来記録の最多は『痘疹全集』の5回が唯一で、大多数は1〜2回にすぎない。痘疹とは致死性で難治だった天然痘と麻疹をいうが、この分野には古典がない。それで各種の痘疹書が次々と中国で刊行され、日本に渡来したのである。

     このように「内経」類と「痘疹」類の記録頻度は、きわだって正反対を示す。にもかかわらず、ともに輸入した日本側の事情ではなく、輸出した中国側の事情でそうなったらしい。むろん日本側の注文で渡来した書も少なくないが、渡来書全体にそう高い割合を占めるわけでもない。ならば渡来記録の平均頻度と大差ない値を示した他分野でも、渡来書目数等の傾向はおよそ中国側の事情を反映した部分が大きいと推測できよう。
 

3 和刻中国医書の検討

3-1 資料の検討と集計

   『年表』は日本・中国の主要公共図書館の目録を資料とし、刊年が明らかな和刻中国医書を刊年順に計 320書の書誌を網羅している。ただし書名が異なっていても同一と判断できる書がある。『年表』報告後に書名と年代に追加が発見された書、書名が叢書名のため所収書でも集計すべき書がある。これらを再集計した結果、江戸期に和刻された中国医書は、版本等の相違を除いた数で計 314書目となった。

   この 314書目を大別すると次のようになる。すなわち「医方等」207 、「本草」25、「傷寒」27、「金匱」3、「内経」14、「針灸」14、「痘疹」24だった。次に 313書目の和刻回数を求めると、計 679回だった。これを分野別に10年ごとに集計したのが表4、その推移をあらわしたのがグラフ2である。

3-2 和刻書の傾向と特徴

3-2-1 年代推移

 まずグラフ2で全体の年代推移を概観してみよう。中国医書の和刻回数は1601年から増加し、1651〜60年に一回目の大きなピークを形成する。そこから減少しはじめるが、1761〜70年以後は増加に転じ、1791〜1800年に2回目の小さなピークを迎える。のち減少し続けて幕末・明治にいたる。

  さらに表4を90年ごとに再集計した表5で和刻回数をみると、全体として半数弱が1690年以前の前期になされている。中期で急激に減少し、後期にやや減少する。後期に和刻の小ピークがあったが、それで後期全体が増加に転じるほどではなかったのである。

   表5で分野ごとにみると、「医方等」「本草」「針灸」は全体の年代推移とおよそ合致するが、ほかの分野は必ずしも合致していない。つまり「内経」の和刻は前期に極端に集中し、「傷寒」「金匱」「痘疹」は逆に前期より中期・後期に和刻が多い。むろん和刻版は日本での需要を前提に刊行される。したがって以上の全体と分野別の年代推移は、江戸期における中国医書の需要、ひいては中国医学受容の反映といえよう。

3-2-2 和刻の頻度

 和刻版全体の年代推移と分野ごとの傾向がわかった。ならば江戸期全体を一括し、和刻回数と書目数を比較するなら、どのような特徴が浮かび上がるだろうか。

 そこで版本などの相違を除外した同一書が全江戸期で和刻された回数、すなわち和刻頻度を求めてみた。和刻頻度は和刻回数 (b)を書目数 (a)で割ると得られ、これを表6に示す。結果は平均値が 2.2となり、1書あたり江戸期全体で 2.2回の和刻がなされたことを意味する。平均値から大きく離れているのは「金匱」の 5.3、「内経」の 4.3、「痘疹」の1.4である。いずれも平均値より30%以上の差があり、集計誤差ではなかろう。「金匱」と「内経」は少ない書種がくり返し和刻され、「痘疹」はその逆なのである。この特徴から和刻の傾向を分析してみよう。

  「金匱」類では注釈本の『沈注金匱要略』が中期に1回、『金匱心典』が後期に2回和刻されている。他方、単経本の『金匱要略』は13回も和刻されていた。ただし単経本には刊年不詳版や、同一年に複数の版元で版木をたらい回しして刷られた先印本・後印本が多く、それらを加えると4類9版本25種にもおよぶ[9] 。「金匱」類には10書目の渡来記録があったが、日本では単経本がとりわけ好まれていたのである。

  「内経」類では江戸前期に集中して、少ない書目がくり返し和刻されていたことになる。その14書目のうち和刻が5回以上された4書で計40回の和刻があり、「内経」類全体の約67%を占める。しかも当4書は単経本でなく、注釈本か内容の一部を敷衍した書である。「内経」類は難解なため、読解しやすい書が江戸前期にとりわけ好まれ、中・後期にはそれすら需要が減少したのである。これは、同様に和刻頻度の高い「金匱」類で単経本のみ好まれ、江戸後期まで流行していたことと好対照をなす。

  反対に和刻頻度が低い「痘疹」類では、24書目のうち和刻数の最多は『痘疹活幼心法』の5回が唯一、ほかは和刻2回が3書で、後はみな1回だった。つまり様々な痘疹書が和刻されたが、うち一書がやや流行したのみである。同類傾向は「痘疹」類の渡来記録の頻度でもみられ、各種の痘疹書が次々と舶載されていた。こうした和刻傾向の理由は渡来傾向のそれと同様で、痘疹病が致死性で難治だったこと、また古典的書物がないことによるだろう。年代推移を除くなら、「痘疹」類の書は中国の刊行事情と日本の和刻事情が同じだったと判断できる。
 

4 中国医書の渡来と和刻の比較検討

4-1 年代推移−受容傾向と医学の日本化

  これまでの検討によると、中国医書は一定範囲の数量で渡来し続けていた。一方、和刻が中期から減少したのは需要が減少したからに相違ない。しかし、なぜ減少したのか。

  即座に思いつくことは伝統医学の日本化との関連である。これは、清初の『傷寒論』ブームに触発されて勃興した日本の古方派、そして『本草綱目』の研究から名物学・物産学・博物学へと発展した日本の本草学で例証できるだろう。

 古方派の最初の人物とされるのは名古屋玄医(1628〜96)である。彼の著作は初版の年順で1672・84・88・97年に刊行された。それらをグラフ2にあてると、中国医書の和刻が大ピークから減少に転じた時期とよく合致する。彼が活躍した時代風潮と、和刻の減少が密接に関連しているのは明らかである。

  江戸中期の古方派は、後藤艮山(1659〜1733)・香川修庵(1683〜1755)・山脇東洋(1705〜62)と続く。そして中国医学体系の大部分を否定し、復古的日本化を推進した吉益東洞(1702〜73)にいたり、強烈な影響を日本全土に及ぼした。そうした古方派の影響で中期は中国医書の需要が減少し、その和刻も減少した可能性は高い。

 では日本人が著述した医書の刊行にも、和刻中国医書の減少にともなう変化がみられるだろうか。これを江戸期の本草・名物・物産・博物書を成立年ないし初版年で年表化した表7で検討してみた。すると前期に38書、中期に79書、後期に 143書が刊行されていた。一方、表5で和刻中国医書の「本草」をみると、前期24回・中期14回・後期15回で、和刻の中心は前期にある。両者が反比例するのは明瞭だろう。日本化が進行した結果、日本書の刊行が増える一方、中国書の需要は減少したのである。

 ところで和刻版には後期の1791〜1800年に小ピークがあった。後期全体は減少傾向にありながら、なぜこの時期に和刻数が上昇に転じたのだろうか。そこで和刻された中国書の成立年代から、前期の大ピークと後期の小ピークを比較してみた。結果を表8に示す。見ると大ピークでは金元代の書が和刻の38%を占めるが、小ピークでは15%しかない。また漢〜宋代と金元〜明清代に2分すると、大ピークでは21%対79%だが、小ピークでは28%対72%に変化している。つまり後期の小ピークでは宋以前の書の割合がやや高まる一方、金元代の書の割合が大きく低下しており、どうも宋以前への復古傾向が窺える。

  さらに医学の日本化と復古との関連から、明清代の「傷寒」類に注目してみた。すると大ピークでは和刻版が一つもない。他方、小ピークでは清代の「傷寒」類が計5回も和刻されていた。小ピークは主にこうした復古傾向が関与し、宋以前の書や清代の「傷寒」類が求められて形成されたと理解される。

4-2 普及程度と時期−和刻率・普及指数

 中国医書の渡来と和刻の書目数・回数の概要が分野別に明らかになった。時期ごとの和刻回数と割合も表5に示すことができた。これらを分析するなら、分野ごとの需要傾向・普及程度・時期がわかるだろう。

  需要傾向は渡来書が和刻された率から示唆が得られ、この和刻率は和刻書目数 (b)を渡来書目数 (a)で割ると得られる。普及程度は和刻率に和刻頻度を乗じた値から示唆が得られる。結局それは和刻回数 (c)を渡来書目数 (a)で割った値のことで、渡来した1書目あたりの和刻回数を意味する。これを普及指数と呼び、和刻率とともに表9に示した。

 和刻率の全体値は39%で、渡来中国医書の39%に和刻版となる需要があった。しかし渡来数も和刻数も集計可能な記録による概数にすぎない。よって誤差を最大30%とすると、全体値は39±(39×0.3)=27.3〜50.7%の範囲になる。当範囲外だった93%の「針灸」、65%の「痘疹」、56%の「内経」の各分野に、顕著な需要があったらしい。一方、普及指数の全体値は 0.9で、渡来した1書あたり 0.9回和刻されたことになる。その誤差を最大30%とすると、全体値は 0.6〜1.1 の範囲になる。範囲外は 1.6の「金匱」、 2.4の「内経」、 2.6の「針灸」で共に全体値より大きく、和刻医書の普及程度が高かったと分かる。

   そこで和刻率と普及指数で顕著に高い値を示した「金匱」「痘疹」「内経」「針灸」につき、表5も参照して和刻版の需要傾向・普及程度・時期を考えてみた。

   「金匱」類は単経本の『金匱要略』が13回も刊行されたため和刻頻度が 5.3と高く、それで普及指数も 1.6と大きい。「金匱」類は単経本に需要があり、後期に刊行の中心があって普及したのである。なぜなら中期の古方派勃興で『傷寒論』が流行し、後期には同じ仲景医書の「金匱」類の需要が以前より増した。しかも当時すでに日本化が進行しており、日本人による研究書の刊行が増加していた[10]。このため需要の大部分は単経本の『金匱要略』にあったと理解される。

 「痘疹」類は和刻率が高いが、和刻頻度が低いため、普及指数は全体値と大差ない。かつ和刻は中・後期が中心だった。つまり「痘疹」類は多くが中後期に需要があって和刻されたが、大多数は1回のみの復刻だったため、顕著には普及しなかったことになる。痘疹病の治療は難しく最新書の知識が求められたが、すぐに飽きられたのであろう。

   「内経」「針灸」類は和刻率も普及指数も高い。「内経」では1書あたりの和刻回数、つまり和刻頻度が高いためである。「針灸」では和刻率が高いためで、渡来した15書のうち14書もが和刻版となっていた。しかも両分野の和刻は前期に集中していた。「内経」「針灸」類は前期に需要が高く、広く普及していたのである。江戸前期の日本人にとって針灸は技術的に、「内経」類は内容が難しいため、多くの中国書を必要としたのだろう。中後期になるとこれら難点が克服されたため、需要も普及も激減したと考えられる。

4-3 普及速度−渡来年と和刻年の差

江戸前期に集中的な需要と普及のあった「内経」「針灸」類につき、和刻年と渡来年の差を検討した。1601年以降に和刻の初版が出た中国医書につき、和刻底本の中国版刊年と日本への渡来初記録年、そして初和刻年を調査し、相互の差から普及速度を考えてみるのである。そこで初和刻年が知られた書で、底本中国版の刊行年か渡来年かのいずれかが推定でもわかる9書につき、初版の年順に表10にまとめた。

  表10のように、「内経」類では注釈本の『難経本義』『素問注証発微』『素問入式運気論奥』が先に刊行されている。その後、原典の『素問』『霊枢』『難経』が単経本で刊行される。「針灸」類も同様だった。当時も今も、最初から原典を読む人などまずいない。注釈本が普及した後で単経本の需要が生じた史実を、表10は如実に示している。

 渡来記録年ないし底本の中国刊年から、和刻にいたる差ではどうだろうか。渡来初記録の1604年はみな林羅山によるもので[4] 、うち注釈本の『素問注証発微』については渡来年が確定できる最初の記録である。それ以前に渡来していた可能性もあるが、ともあれ渡来初記録の1604年から、わずか4年後に和刻版となっている。底本とされた中国版の刊年は1586年に間違いなく[11]、それからしても22年で和刻されていた。

  一方、和刻最初の単経本『素問』は元和年間(1615〜24)の刊行で、底本は1584年の中国版である[12]。その渡来年は不詳だが、中国版から和刻版には31〜40年の差がある。1648年に和刻初版が出た『甲乙経』も渡来年は不詳だが、底本は1601年の中国版である[13]。したがって中国版から和刻版の差は47年となる。

  以上のように中国版から和刻版にいたる差は、注釈本で22年、単経本で31〜47年だった。どうも注釈本は単経本より和刻までの年数がやや短いらしい。そうした目で表10をみると、羅山が1604年に実見した書でも、注釈本の『難経本義』と『素問入式運気論奥』は3年後と7年後の和刻なのに、単経本の『霊枢』は56年後である。そもそも注釈本と単経本で、中国の刊行から日本への渡来に大きな時間差があるとは考えにくい。先の考察結果からすると、古典の単経本と注釈本がほぼ同時期に渡来していても、難解な単経本に和刻版の需要はなく、まず注釈本から先に和刻されたのである。のち人々が注釈本を卒業するようになり、はじめて単経本に需要が生じて和刻版が出たのに違いない。

   表10でみると、「内経」「針灸」の古典がが単経本で出揃ったのは1660年頃で、これ以前は注釈本の時代だった。そうすると江戸前期の一般傾向として、人々はおよそ40〜50年かけて注釈本を卒業し、単経本を必要とするようになったのである。

  さらに中国医書全体について渡来初記録年から初和刻年までの差を調べてみた。表11がそれで、10年差までをあげた。これを通覧するなら、圧倒的に江戸前期に集中していることがわかるだろう。前期は和刻版の半数が刊行され、中国医書の需要が高かったが、渡来から和刻までの年差も短い。つまり普及速度も早かったのである。ただし高い需要があったからといって、やみくもに渡来書が和刻されていたのではない。

 たとえば叢書の『仲景全書』は渡来記録の7年後に和刻版が出た。その中国版の所収4書には単経本の『宋板傷寒論』と注釈本の『注解傷寒論』があるが、両書の経文には相違があり、『注解傷寒論』以降にも名家の注本は多い。そこで和刻の『仲景全書』は諸注を集成した『集注傷寒論』を加え、かわりに『宋板傷寒論』と『注解傷寒論』を削除し、計3書からなる。さらにこの『集注傷寒論』の経文には、『宋板傷寒論』との校異の頭注が和刻版独自に施されている[14]。和刻の『仲景全書』は日本化しているのである。

  では、渡来から和刻にどれくらいの年数がかかっていたのだろうか。渡来記録と和刻版の書名で同一と判断された 199書につき、初和刻年から渡来初記録年を引いてみる。渡来初記録年より前に和刻版が出ているとマイナス年となるが、これを含め年差50年ごとに集計し、さらに初和刻年を前・中・後期に分けて表12に示した。前・中・後期の総数は50%・30%・20%で表5と大差なく、およそ全体傾向を反映しているだろう。

 渡来記録後 0〜50年で和刻された書は前期が56%と高く、のち中期41%、後期27%と低下している。中国医書の普及速度といえる渡来から和刻までの年数は、江戸の早期ほど短かったことがこれで確証された。一方、後期には 151〜200 年も前に渡来記録のあった6書が和刻されている。かくも久しく需要のなかった書が、なぜ後期になって和刻されたのだろうか。このうち4書は宋金代に成立した書で、準古典といえる書だった。先に検討した和刻の年代推移では、後期の小ピークに復古傾向がみられた。すると宋金代の書が渡来記録から 150年以上もたって和刻されたのも、後期の復古傾向と関連するに相違ない。

 ちなみに上野は[15]、内閣文庫所蔵の中国版医書とその渡来記録を対照し、約40%が刊行後の50年以内に渡来していたことを報告している。そして表12のように、46%が渡来後の50年以内に和刻されていた。両集計から、江戸期における中国医書の伝来速度、また普及の速度と程度が理解できるであろう。

4-4 普及書の特徴−渡来と和刻の上位書

  和刻回数が多い中国医書は普及程度も大きいので、表13にその上位10書をあげた。また比較として渡来記録の上位10書とその中国版の数、各々について成立時代・巻数・記録数(前期・中期・後期)も記した。これで和刻版と渡来書をみると、1書として共通していないことにまず気づく。その理由を考えてみよう。

 渡来記録の上位10書は、すべて清代までに10版以上刊行され[16]、中国で流行した書だった。それゆえ明代5書・清代4書・唐代1書と江戸期に重なる時代の書が多い。中国でくり返し出版された書は中国商船に積み込まれる機会が多く、日本への渡来も多くなる。

 巻数に注目すると10巻以上の書のみで、多くは50巻前後、『薛氏医案』24種では計 107巻にもなる。これらはボリュームがあるため、一括して高値で売れる可能性が高い。中国船はこうした本を選択し、数多く舶載してくる傾向があったのである。これまで検討した渡来書のさまざまな傾向には、中国側の事情の反映だろうと推測されたものがあった。その事情の多くは、当該書の中国での流行と巻数の2点から理解できるであろう。

  では江戸期のベストセラーだった和刻の上位10書はどのような書なのか。巻数では『傷寒論』10巻と『万病回春』8巻以外、みな1〜3巻本である。ただし『傷寒論』は10巻だが、経文の量は『万病回春』の約三分の一しかない。『金匱要略』も3巻だが、経文量は『万病回春』の約八分の一である。つまり『万病回春』を除くと、全江戸期のベストセラーは薄い書だった。それゆえ中国文の読解が困難な日本人にも通読しやすく[17]、よく売れて10回以上も和刻されたのに相違ない。なお上位10書の成立時代をみると、和刻版は渡来書より広い時代にわたっている。しかも和刻の上位10書に清代の書は1点もない。和刻版は中国での流行や最新性とは無関係に、日本独自の視点で流行していたのである。

  和刻上位書のうち、古典の単経本は仲景医書の『傷寒論』と『金匱要略』のみで、ともに中期から和刻が急増している。中国版の単経本『傷寒論』は1599年が最後、単経本『金匱要略』は1624年が最後で、以後は両書の和刻版が清末期に還流して復刻されるまでひとつもない。両単経本の江戸中期以降の流行は日本特有の現象なのである。逆に他の和刻上位8書は前期に集中し、中期から激減する。中期からの仲景医学への復古と日本化が明瞭によみとれよう。ちなみに巻数が多いにもかかわらず流行した『万病回春』は、集計で18回の和刻だったが、実際は30回に達する可能性がある[18]。ところが中国版は22種で[16]、渡来記録は1638〜1763年までに5回あったにすぎない[1] 。『万病回春』は江戸前期にかけて中国以上に流行していたのである。つまり前期は『万病回春』、中後期からは単経の仲景医書が流行の中心だった。
 

4-5 中国書の日本化−抜粋・再編による和刻版

  江戸前期に和刻初版の出た『仲景全書』は中国版の再編であり、日本化していたことをすでに指摘した。同様の例がかなり多いことは注目していい。

 和刻26回の『医方大成論』1巻は文禄5年(1596)の初版で、中国の『医書大全』24巻から日本人が抜粋・編集した書で、初版以来の刊年不詳版を加えると計37版にものぼる[19]。同じ1596年に初版が出た『本草序例』1巻も『政和本草』30巻の巻1と巻2の一部を抜粋し、さらに『大観本草』31巻の序文を付加する。これも日本人による編集で、のち江戸期に8回刊行された。和刻10回の『医学正伝或問』1巻も同類例で、『医学正伝』8巻の巻1「医学或問」だけ抜粋した書である。『景岳全書』64巻からの抜粋では、『張景岳新方彙』1巻・『精選幼科良方』1巻・『精選治痢神書』3巻・『張氏治瘧必喩』2巻・『張景岳傷寒録』3巻・『腫脹全書』『腫脹要訣』各1冊が和刻された。以上の抜粋本や再編本は、みな3巻以内であることに注目したい。

 注釈本から経文のみ抜粋した妙な単経本も日本独特だろう[20][21]。表10にあげた1660年刊の単経本『難経』が嚆矢らしく、『難経本義』を底本に経文を抜粋する。ほぼ同時刊行された『霊枢』『素問』『傷寒論』も単経本で、『傷寒論』は『注解傷寒論』からの抜粋。いずれも底本より縮小しているのはいうまでもない。こうした単経本でもっとも奇抜なのは、鵜飼石斎(1615〜64)が『類経』42巻から経文を抜粋し、それを再編した『素問』『霊枢』各9巻である[20]。この『素問』『霊枢』は『類経』の原篇名を欄上にきざむので、和刻『類経』との相互対照が目的だったらしい。

  叢書からの単行本もある。たとえば和刻『仲景全書』から削除された単経本『宋板傷寒論』のみは、4回も版をあらためて和刻された[14]。こうした現象も当時の中国にない。単経本『傷寒論』『金匱要略』の流行は、江戸中後期に仲景医書が好まれた現象の一環ともいえよう。前述したが、江戸後期に『医宗金鑑』92巻から『傷寒論註』15巻が3回和刻されたのも同類である。『医宗金鑑』からは『幼科種痘心法』16巻も和刻された。

  以上はみな本来の大部な書から抜粋し、小部な書に再編して和刻している。しかも全江戸期にわたって行われていた。それは日本人が好み、かつ通読可能な部分を販売するのが第一目的だったろう。しかし、こうした操作に、大部な書がベストセラーとなっていた中国とはおよそ異なる、日本独特の縮み指向が投影されているのは見逃せない。
 

5 まとめ

 以上、江戸期の約 270年間に渡来した中国医書とその和刻版について、それらが一般社会に受容された現象を史的・計量的に考察した。結果は次のように総括できる。

1) 中国医書の渡来記録は 804書目について1917回あった。年代推移では各10年ごとに60〜110 回程度の記録が通常で、中期の1711〜30年と後期の1831〜50年の各20年間にそのピークがあった。とくに「内経」書は原典と少数の注釈書がくり返し渡来し、「痘疹」書は様々な書が次々と渡来していた。こうした傾向の背景に、中国で流行し、かつボリュームがあって高値で売れる書を、中国船主が数多く舶載した現象を認めた。

2) 中国医書の和刻は 314書目について 679回あった。年代推移では和刻回数の約半数が1690年以前の前期にあり、中期に急激に減少し、さらに後期に減少していた。当現象は中期からの医学の日本化と日本医書の出版増加で、中国書の需要が減少したことの反映である。それは一面で仲景医学への復古でもあったため、前期で『万病回春』が流行したのにかわり、中後期から仲景医書が流行した。後期には宋以前や清代「傷寒」書の書の和刻がやや増加したが、減少傾向には影響していない。

3) 分野別では「内経」「針灸」が前期に集中して普及していた。当時の日本人にとって「針灸」は技術的に、「内経」は内容が難しかったためである。注釈本が普及した40〜50年あと、単経本が和刻されていたのも同理由による。中後期にはこれら難点が克服され、両分野の書は需要も普及も激減した。一方、「金匱」は単経本に需要があり、後期に普及していた。「痘疹」は中後期に需要があったが、普及程度は小さかった。

4) 全体では渡来書の約40%が和刻され、積極的に中国医学を受容していた。それも渡来から和刻まで50年以内が46%と高率を占め、この和刻にいたる速度は江戸の早期ほど早い。和刻のベストセラーは江戸前期から3巻以内の薄い書で、中国の流行書や最新書とは無関係だった。大部な中国書から抜粋し、小部な書に再編した和刻版も全江戸期にある。これらに、大部な書が流行した中国とは異なる、日本的な縮み指向が窺えた。中後期からの仲景医書の流行にも当要因が通底している。

5) 以上のように日本は全江戸期をとおして、独自の視点で中国医書そして医学を受容し、同時に日本化していた。
 

文献と注

[1] 真柳誠・友部和弘「中国医籍渡来年代総目録(江戸期)」『国際日本文化研究センタ ー紀要・日本研究』第7集 151〜183 頁、 1992年 9月。

[2] 小曽戸洋・関信之・栗原萬理子「和刻本漢籍医書出版総合年表」『日本医史学雑誌』36巻 4号 459〜494 頁、1990年10月。

[3] 大庭脩『江戸時代における中国文化受容の研究』57〜59・187・193頁、京都・同朋舎出版、1984年。

[4] 林春斎「羅山先生年譜」27〜28葉(国立公文書館内閣文庫蔵『羅山先生集』付録巻1所収)、1661年。

[5] 大庭脩「東北大学狩野文庫架蔵の御文庫目録」『関西大学東西学術研究所紀要』 3号9〜90頁、1970年。なお当目録は1639年以前に御文庫へ納めた書の納入年を記さないので、それらについては1638年の渡来とした。

[6] 文献[3] 、23頁。

[7] 文献[3] 、 190頁。

[8] 文献[3] 、 282〜284 頁。

[9] 真柳誠「日本漢方を培った中国医書(6)」『漢方と中医学』11号 3頁、1989年 9月。

[10]『増補版国書総目録』(東京・岩波書店、1989)の「金匱」部分を見ると、刊本となった日本の『金匱要略』研究書は、1601〜90年に2書、1691〜1780年に5書、1781〜1870年に8書があり、明らかに時代ごとに増加している。

[11]小曽戸洋「明代の中国医書(10)」『現代東洋医学』15巻 2号 245〜252 頁、1994年4月。

[12]小曽戸洋『中国医学古典と日本』79頁、東京・塙書房、1996年。

[13]篠原孝市「『甲乙経』総説」『東洋医学善本叢書8』(小曽戸洋監修) 443頁、大阪・東洋医学研究会、1981年。

[14]真柳誠「『仲景全書』解題」『和刻漢籍医書集成』(小曽戸洋・真柳誠編)第16輯、解説篇 8〜18頁、 東京・エンタプライズ、1992年。

[15]上野正芳「江戸幕府紅葉山文庫旧蔵唐本医書の輸入時期について」『史泉』51号42〜74頁、1977年。

[16]この版種の数は、薛清録ら『全国中医図書聯合目録』(北京・中医古籍出版社、1991)の記載に基づき、写本と和刻版とその中国再版を除く清代までの版本から集計した。

[17]なお『本草綱目』は52巻という大部なわりに、和刻版が集計上で 8回、刊年不詳版も加えると13回も刊行されていた(渡邊幸三『本草書の研究』 136〜144 頁、大阪・武田科学振興財団、1987)。しかし大部な書ゆえ、管見の範囲では、よくて前半10巻まで読まれた形跡がある程度で、大多数は拾い読みしかされていない。

[18]小曽戸洋「『万病回春』解題」『和刻漢籍医書集成』(小曽戸洋・真柳誠編)第11輯、解説篇 1〜8 頁、 東京・エンタプライズ、1991年。

[19]小曽戸洋「『医方大成論』解題」『和刻漢籍医書集成』(小曽戸洋・真柳誠編)第7輯、解説篇17〜25頁、東京・エンタプライズ、1989年。

[20]上掲文献[12]、81〜88頁。

[21]真柳誠「『注解傷寒論』解題」『和刻漢籍医書集成』(小曽戸洋・真柳誠編)第16輯、解説篇 1〜7 頁、東京・エンタプライズ、1992年。

 
謝辞:本論文に多くの資料を利用させていただいた小曽戸洋氏に深謝申し上げる。

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