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日 本 医 史 学 会 神 奈 川 地 方 会 だ よ り

第 7 号

平成10年7月吉日発行


目 次(ページは原雑誌のまま)

平成9年度年次報告                                                              1頁

神奈川地方会平成9年度総会並びに第10回学術大会                               2頁

しらみの研究史                                           佐分利  保雄    2頁

偉大な忍性の活動はなぜ長続きしなかったか              杉田 暉道         3頁

ペスト残影(その7)                                         滝上  正           4頁

方技概説                              家本 誠一         6頁

日本医学史学会9月例会・神奈川地方会第11回学術大会 合同会             10頁

『鎮将府日誌』について(その2・太政官日誌との併読)        中西 淳朗       10頁

本間玄調について                          荒井 保男    12頁

荒川保男:虱に賭けた40年の生涯                    佐分利  保雄   13頁

ペスト残影(その8)                           滝上 正         14頁

ケガレの思想の歴史的展開                      杉田 暉道    16頁

医学会だより                                                                  16頁

平成9年度一般会計決算書                                                      18頁

平成10年度一般会計予算                                                      19頁

参考事項(役員並びに会則)                                                    20頁
 

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平成9年度年次報告 (平成9年1月1日より12月31日まで)

  1、幹事会

・5月16日と10月6日に開き、学術大会の運営等について協議した。
  2、学術大会
・第10回(平成9年2月15日)  於県医師会館  第2頁以下に収載。
・第11回(平成9年9月27日)  於けいゆう病院  第10頁以下に収載。
  3、総会
・平成9年2月15日、平成9年度総会を開催し、県医師会館が2月末日に移転するので、今後の学術大会等の会場がかわる予告を行った。
  4、出版物
・「日本医史学会神奈川地方会だより」第6号を平成9年4月に作り、5月に発送した。
  5、外部団体への協力
・昨年、会員が横浜市立大学一般教養委員会に協力して執筆した『横浜と医学の歴史』が8月31日付で刊行された。なお、日本医史学会の理事長・理事・幹事、日本医師会の役員に当会から贈呈した。
・神奈川県医師会報、平成9年11月10日号の[分科会だより]に、当会のPRを掲載した。(省略)また、神奈川医学会雑誌第25巻第1号(平成10年1月1日)の《医学会だより》にも記事を掲載した。16頁以下参照。                                                
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神奈川地方会平成9年度総会並びに第10回学術大会

[一般演題]

1.しらみの研究史  佐分利  保雄

   しらみは昔からいた。最古のミイラの髪の毛にしらみの卵がついており、稀には成虫もみつかるという。日本でも「古事記」に大国主命がスセリビメと結婚し、頭のしらみをとって貰うことが、記されている。平安時代に書かれた「やまいの草子」に虫もてる女からけじらみが感染し、陰毛を剃刀で剃り落としている図がある。松尾芭蕉は「蚤しらみ馬の尿する枕もと」という名句?を残したが、古来人々はしらみに悩まされて来たのである。

   しらみは昆虫に属する。昆虫はアリストテレスがエントマEntomaと呼び、現代に通ずる分類をした。リンネは昆虫をインセクタInsectaと呼び、7群に分類した。系統樹によれば、ムカシアミバネムシから出て、途中でチャクテムシと分かれてシラミが発生している。

   ヒトには2種類のしらみが寄生する。ヒトシラミとケジラミである。ヒトシラミはアタマジラミとコロモジラミの亜種がある。

    しらみの形態学的研究は初め光学顕微鏡で行われ、1960年代になって、走査型電子顕微鏡による研究により補足された。第一次世界大戦のとき、発疹チフスがコロモジラミによって媒介されることが分かり、研究者のリケッツやプロバチェックはその犠牲となり、病原体の名前となった。当時、しらみの生態について多くの研究がされた。

  日本人では坪井順長が、明治42年に病原体伝搬体として観察される昆虫類の撲滅および駆除法について、報告している。大正4年に加藤三郎や宮島幹之助がころもじらみと再帰熱スピロヘータについて研究した。翌年、緒方正規は戦時のしらみ害およびその駆除と題して、日本衛生学会雑誌に発表している。しらみについて生態、生理、解剖について、組織的な研究をしたのは荒川保雄で、214頁におよぶ「衣虱の研究」は貴重な文献となっている。DDTの出現によりしらみは根絶されたかに見えたが、現在でも生き残っており、症例報告が散見されるが、本格的な研究は少なくなった。

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2.偉大な忍性の活動はなぜ長続きしなかったか     杉田 暉道

  忍性の社会的奉仕活動のすばらしさは、今さら改めていうまでもないが、そのもっとも有名なものは、鎌倉の大仏の近くの桑谷に『療病所』を建て、ここで20年間に病気が治った者は、46,800人、死亡者は10,500人、計57,250人の療病看護を行ったということである。これは日本仏教の革新上不滅の光彩を放つものである。しかし、忍性が亡くなると、この事業は急速に衰運の運命をたどってしまった。

   その第1の理由は、救療の活動を行うのに必要な経費、材料および食料を奉仕する施主の考えが、俗人、非人に対する慈悲の精神から自己満足の気持に変化していった。したがって施しを受ける側にも仏恩に対する感謝の気持が消失し、かれらを貪欲にするだけになった。たとえば叡尊ははじめは、非人、貧窮者を文殊菩薩の化身と考え、戒律を授け、救療していたが、非人の欲望的な行動が一般住民から非難されるようになったので、非人の頭に葬家から供養されたものをもらった時は過分の要求をしない、らい病患者の扱いをおだやかにすることなどの4か条の注意文を非人の頭に渡し、これを厳重に守らせた。

   第2の理由は、殺生禁断を励行したが、これによって一般庶民の生活が圧迫されるものが次第に多くなれ、この制度が完全に行われなくなった。たとえば宇治川網代禁制(宇治川で魚をとってはいけないという規則)に対する加茂川供御人の著しい抵抗および多田院の本堂を中心とした十町四方の範囲での殺生禁断が十分に守られなかったことを示している。

   この事は殺生禁断を実行する際には、これによる一般住民の生活の不安をなくす対策がしっかりと行われなかったことを示している。このような状態ではこの制度が正しく行われなくなるのは当然であった。

   第3の理由は、叡尊、忍性の開いた真言律宗は戒律を守って修行する宗派であって、このままの形では一般住民に教化する形体になってはいなかった。それは日本では一般住民が殺生禁断を始めとする戒律を正しく守って生活することは到底不可能であるからである。したがって在家の生活において戒律を正しく守るには、どのような生活をすべきかという新しい指針を示す必要があった。しかし残念ながらこれは行われなかった。

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3.ヨハン.ウインテルJohann Winterについて(その二):著作の紹介

    −ペスト残影シリーズ その七−   亀田病院,横浜船員保険病院    滝上  正

   前回(第9回)当学会で発表したごとくウインテルは解剖学者、ペスト専門家、優れた臨床医の三つの顔を持っていた。そして、それぞれの分野での著作を合計すると、自著14、翻訳(おもにギリシャ語からラテン語へ)63の多きを数える。その中各分野での代表的著作の表題の日本語訳と初版発行地、発行年月日を紹介する。

A.自著

1)解剖学
  ガレノスの見解にもとづく医学生のための解剖学手引き、4部作 パリー 1536年(整理番号 1)

2)ペスト
1.とくにペスト流行時およびその他の時に守るべき食事および医学上の対策の解説  ストラスブルグ 1542年   (同 2)

2.(フランス語)ペスト流行時およびその他のときにも誰もが健康を保っていられる最有用の指導書。 パリー 1547年(同 3)

3.(ドイツ語)臨死の人々においてペストおよびペスト性発熱を如何にして鑑別すべきか、こういうときに何を慎む  べきか、また如何ようにすればこの病から身を守れるか、如何なる薬でこれを治療、治癒さすべきかの報告、養生、処理。ストラスブルグ    1564年(同 4)

4.(ドイツ語)ストラスブルグおよびその他の地の一般人向けのペスト小冊子抜粋。    ストラスブルグ 1564年(同 5)

5.アンデルナッハの医師J.ウインテルによるペスト解説、対話形式、4部作、最新刊。ストラスブルグ 1565年(同 6)

3)医師として
1.温泉および治療水についてのアンデルナッハの医師J.ウインテルの解説、対話形式、3部作。ストラスブルグ1565年(同 7)

2.既知および現行の新旧医学についてのアンデルナッハの高名医師J.ウインテルの解説、2部作。バーゼル 1571年(同 8)

B.翻訳

1)ガレヌス
1.ペルガモンのC.ガレヌスの解剖学的手技、9部作 パリー 1531年(同 9)

2.ヒポクラテスおよびプラトンの学説について哲学者および医師に最有用のペルガモンのC.ガレヌスの著作、もっとも要望のあった9部作にまとめられて今はじめて翻訳者J.ウインテルによりラテン語で提供。パリー 1534年(同 10)

2)完成医師トラレスのアレキサンダーの医学にかんする12書とラーゼスのペストにかんする小冊子。 1549年発行地?(同 11)

    整理番号1、9は解剖学分野では重要な著作である。

  ペストにかんする著作は大部分が自著であり、同番号4、5は彼の最後の居住地ストラスブルグの市当局に請われて書いたペスト防疫必携いうべき書である。同番号11は  ペストについての彼の唯一の翻訳書である。

    同番号7、8は彼の学識の広さを示すものであり、このほかに産婦人科関係の著書も  ある。とくに8は大成した臨床家としての彼が全知識を傾けて書いた医学概論ともいうべき畢生の大作である。又、この著書において彼のペスト病理観が述べられているが、基本的には古代の体液病理学理論にもとづいて展開されたものである。なお、整理番号3、4、5以外はすべてラテン語で書かれている。

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[特別講演]

方技概説          家本 誠一

1  はしがき

   私は、平成七年から八年にかけ、東京の医史学会例会に於いて、四回に亘り、漢代の解剖学、陰陽、五行、三才の各テーマに就いて其々一時間の口演を行なった。本稿では其の要領を述べる。

   日本人は六世紀以来、中国医学を輸入して民生日常の用に当ててきた。今に千五百年である。習熟するには十分の時間である。所が江戸時代の中頃に至って、此の医学は良く分からないと言い出した人がいる。伊勢松坂の医師にして国学者になる本居宣長である。

    「夫れ素(問)霊(枢)は軒(轅=黄帝)岐(伯)の(偉)大(な)経(典)にして寿世(長寿の為)の大(切な)法(典)なり。医を為す者、此れを舎(お)きて奚(なに)に従って以て其の道を知らんや。而るに、其の後世に益無き者は、独り何ぞや。蓋し、其の(論)旨(迂)遠く、其の(技)術亦た奇(怪にして)、融解す可からざるを以ての故に爾り(送藤文輿還肥序)」

   素問、霊枢は中国最古の医学書である。中華人民の祖先で、軒轅に都した黄帝と其の臣下、岐伯の問答が主体をなしている。宣長が云う様に中国医学の基本的な経典である。此れが分からなければ中国医学は分からない。宣長と同時代人で古方派漢方の豪傑である吉益東洞は陰陽五行や蔵府経路は医に用無として否定した。中国医学の骨組も内容も合わせて捨ててしまったのである。東洞に追随して、昭和の漢方研究者たちは、漢方は学ではない、術である、理屈はいらない、効けばよい、と称して、此の医学を処方検索の技術に矮小化してしまった。そして傷寒論を偏重して、素問霊枢を観念的迷信的として拒否し、其の研究を怠って来た。かくして日本人は千五百年の年月を費やして、今尚中国医学を総合的体系的に把握出来ないでいるのである。

   中国医学の根幹は古代に在る。真相は比較に依って明らかになる。古代が分からないと中世も近世も現代も分からない。更には世界の古代医学が分からなくなる。ギリシャだけでは古代医学の真相はつかめない。

   古代医学は素問、霊枢、傷寒論、金匱要略、神農本草経という五つの基本的文献を持っている。此等の書籍を総合的に研究し、其の内容を有機的体系的に把握して、始めて古代医学は理解出来る。素問、霊枢を疎外しては其れは不可能である。私は素問、霊枢に基づいて中国古代医学の真相を闡明したい。

2 方技

   漢代、中国では、医薬に関する技術は方技と呼ばれた。方は耒(鋤)の象形文字で、左右に張り出た柄が直線状に伸びることから、方向、道筋、方法、技術の意味になった。技は細かな手わざである。似た言葉に方術、術数などがある。此れも医卜星相の技術で、医学以外の諸術も含む。医師は医或は工と呼ばれた。医とは病を治する工なり、と説文にある。工とは技術者のことである。

3 歴史

   紀元前五百年期、古代世界に於いて思想哲学革命が起こる。前代の神秘的、アニミズム的な思想は否定され、論理的合理的な思想が成立した。中国では、前一千年の殷周革命は其の先駆となった。殷人は鬼神を尊び、周人は人を尊重し礼儀を重んじた。此れより諸子百家の古代合理主義が興隆し、百花斉放の盛況を呈した。孔子は其の中の一人である。

   此の思想哲学革命を背景にして古代科学が成立する。古代医学は其の一環をなす。中国に於いては鬼神の世界、巫祝の医学を否定して、論理的合理的実証的な医学を構築した。其の成果が、漢書芸文志の方技略に著録された書物である。漢代の医師たちは其の医学が鬼神の世界を離脱し、巫祝の医学の否定の上に築かれたことを明確に自覚している。

4 時代

   論語、孟子には陰陽という言葉は殆ど見られない。前三百年頃の荘子や鄒衍に至って盛んに使われる。陰陽、五行は素問、霊枢の根幹を作る枠組み概念である。中国古代医学は略此の頃より発足したと考えられる。呂氏春秋や淮南子には素問、霊枢と共通する思想が見られる。前二百年頃の馬王堆医書には霊枢の経脈第十の原型と思われる文献が含まれている。史記、扁鵲伝の医学は素問、霊枢の医学と略重なる。紀元十六年の漢書、王莽伝の解剖記事は霊枢、難経の解剖記事に対応している。八十年頃の漢書芸文志、方技略は前漢後期の医学の状況を示している。以上の時代が漢代医学の最盛期で、二百年頃編纂された傷寒論、金匱要略の著書らには、既に素霊の解剖学が良く分からなくなっている様に見える。三百年頃に出た脈経、甲乙経は古代医学の最編集本でこの頃、古代医学の学術的創造力は枯渇していたのであろう。

   以上により、中国古代医学は、前三百年から後三百年の約六百年間に黄河を中心とし、長江に及ぶ地域で行われた医学である、と定義することが出来る。三世紀の末、四世紀の始め、八王の乱、永嘉の乱により、北中国は戦乱と飢饉によって荒廃し、人口は激減し、古代の書籍も大量に喪失した。この時、古代の医学も亦正確な伝承を失ったのであろう。中世以降は誤解と憶測の下に継承され、今日に至っている。中世は尚お古代の骨格を保っていた。近世以後は古代の実証性を喪失し、憶測と思弁の医学となった。

5 特徴

   方技すなわち中国古代医学は次の様な特徴を持っている。
  1 総合的体系性
  2 実証的合理性
  3 論理的整合性
  4 臨床的有効性
  5 実際上安全性

6 総合的体系性

   漢書・芸文志方技略には四つの部門の医書が集録されている。医経には黄帝内経など、医学の体系が記されており、医学の全ての部門を含んでいる。経方には風寒熱十六病方など疾病各論と治療各論が属している。房中は医学的セクソロジであり、神仙は不老長生術の研究書である。以上により方技が医学の全ての部門を持つ総合的な体系性を備えた学術であることが分かる。

7 実証的合理性

   中国古代医学は前代のアニミズム的シャーマニズム的な鬼神からの離脱を以て其の合理主義を確立した。「(医の)道に鬼神(神秘的超越的存在は)無し。(我々は鬼神に捉われることなく)独り来たり独り往く(独立自由だ)。宝命全形論25」。また「鬼神に拘る者は與に至徳(最高の真理、ここでは医学)を云う可からず。五蔵別論11」。此等は其の宣言である。古代医学は其の方法として、正確な観察と精密な度量、合理的な類推と鋭利な洞察を駆使している。解剖学は其の一面である。

8 解剖

   解剖という言葉は霊枢の経水第十二に出ている。解剖の記録は漢書、王莽伝に在る。漢代の解剖学の主要テーマは、蔵府の計測と経路の走行経路に在る。経路とは血管と神経である。血管系統の主幹に就いては略正確に把握し記載している。古代解剖学の描く人体の構造は医学史が述べる様な荒唐無稽なものではない。人体は五つの系統に分類され、各系統の間にフィードバック・システムを装備したダイナミックな動的平衡系として把握されている。

9 論理的整合性

  中国古代医学は、其の医学的経験と知識を整理統合するに当たって、三つの枠組概念を利用した。陰陽、五行、三才である。此等の概念は中国医学を観念論的迷信に陥らせた元凶として指弾されてきた。併しそれは誤解或いは無理解による。此等の概念はそれ自体に於いて合理的であり、医学に於ける利用に就いても概ね妥当である。

   現代物理学によれば、世界は物質とエネルギーより成る。此れに情報を加えることもある。情報とは物質とエネルギーの存在様式である。此の観点から、此等の枠組概念を見ると、陰陽はエネルギーに関する概念であり、五行と三才は物質とエネルギーの存在パタンに関する概念である。此の陰陽、五行、三才は自然と人体に就いて合理的且つ整然たる叙述を此の医学に与えている。

   陰陽は太陽エネルギーの地上に於ける存在様式である。日の当たる「エ」の豊富な丘が陽である。陰湿で「エ」の少ない日陰の所が陰である。陰陽は人体に於いては現代医学の自律神経系とほぼ同様の機能を担っている。陰は同化的に、陽は異化的に作用する。昼間は陽優位、夜は陰優位である。病理的には陰は悪寒、陽は発熱をもたらす。睡眠、食欲、便通、発汗などの調整も陰陽の仕事である。

  五行は民間日用の五つの資材と云うが、疑問がある。恐らく中国の黄土の上に展開する四季の景観の推移から考え出されたものであろう。医学上では次の曲面で利用される。解剖学的には臓器組織の五系統分類と其の機能関連の構築。臨床的には、蔵府の相克関係に基づく疾病の経過論、予後、転帰の判定。

   三才とは天地人である。宇宙を構成する三つの要素である。医学上では病因論と其れに基づく疾病分類に使われている。其の病因論は宇宙論的空間的で、現代医学の其れが進化論的時間的であるのと対照的である。併し内容的には略重なる。

10 臨床的有効性と実際上安全性

   臨床に関する学術も、漢方の述べる所とは大いに異なる。其の詳細は略す。此の医学は多くの治績を挙げると共に、多くの医療過誤も犯している。三世紀末、古代世界の崩壊と歩調を合わせて、創造力は枯渇し、其の伝承を失って行った。

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日本医学史学会9月例会・神奈川地方会第11回学術大会 合同会

[一般口演]

1.『鎮将府日誌』について(その2・太政官日誌との併読)                     中西 淳朗

 1.平成 7年 9月30日の学術大会において,(その1.序説)を発表したが,その際,『鎮将府日誌』の概略を紹介した部分に誤りがあった(神奈川医学会雑誌第23巻第 1号   161頁)ので次のごとくに改める。

  『鎮将府日誌』は14×21cm,1号が美濃紙15枚ほどの,木版刷の和綴本で,全27号350余丁となっている。記事は慶応 4年 7月 1日から10月18日までのことを記している。

 2.前回にもふれたが,鎮将府日誌に書かれている記事が,必ずしも太政官日誌に書かれていない,あるいはその逆もあったり各藩からの報告に混乱がみられるこれを正す作業は大変な労力を要し,一気に解決出来るとは思えない。

 3.混乱のひとつの例として,上野彰義隊との戦に参加し負傷後,横浜軍陣病院で死亡した薩摩藩の益満休之助,床次吉之助,貴島勇右衛門の 3名の死亡日について,関寛斉日記,幕末維新全殉難者名鑑,横浜軍陣病院の日記,杉並大円寺の墓誌で調査し比較したところ,すべて一致している者は認めなかった。

  益満の場合,関寛斉が誤報とは知らず床次の死亡日を益満の欄に記入しているし,床次の場合は墓誌に数字が脱落するという単純ミスがあるし,貴島の場合は名鑑に理由不明の月日が入っている。

 4.このような情報混乱をふまえた上で,鎮将府日誌や太政官日誌等を併読していかねばならない。
 そこで,日誌類をリストアップして相互関係を求めることとした。

 A.太政官日誌。慶応 4年 2月17日より書きはじめ,明治10年 1月第 1号で終り,全1,177部である。

 B.東征軍関係
  1) 江城日誌。慶応 4年 5月 5日より 5月末まで記す。全15号(実質内容は閏 4月29日より 6月12日まで),他に         前編。
  2) 鎮台日誌。慶応 4年 6月 1日より 7月27日までを記す。全12号。
  3) 鎮将府日誌。慶応 4年 7月 7日より10月18日までを記す。全27号。
  4) 東京城日誌。明治元年10月13日より同 2年 3月27日までを示す。全29冊。

 C.東京府日誌。慶応 4年 8月17日より 9月 7日までを記し,以後は東京城日誌に吸収された。

 上の如き官発行の日誌に対して,横浜軍陣病院の日記は未発行で,慶応 4年 4月18日から10月18日までを記しており,病院の入院患者に関する研究に際しては,AからBの3)までの 4種の日誌と日記と比較しつつ調査する必要があることが解った。

 5.そして横浜軍陣病院が,慶応 4年 7月20日に設立された東京大病院の支営的立場におかれ,大病院を支配取締した機関が,東京府,鎮将府( 9月13日から10月18日まで),そして東京府と変わった点も考慮に入れて調査研究をする必要性も存在することが解った。

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2.本間玄調について                           荒井 保男

  本間玄調は幕末,水戸藩の生んだ名医で,漢蘭折衷派に属し華岡清州外科の大成者と称せられ,わが国最初の脱疸下肢切断術施行者として,また野兎病最初の記載者として名高い。
 
   今回,私は水戸市,小川町を尋ね,名医・玄調は一地方都市に忽然として現われたのではなくて,玄調を育てるべき大きな土壌が存在していたのを知った。それは@優れた家系 A稽医館の存在堯 B水戸藩医学の隆盛 Cその推進者たる藩主,徳川斉昭公の寵愛がそれである。

(一) 優れた家系と稽医館

  初代は道悦といい,島原の乱の際鎮圧軍の一責として戦場に赴いたが,負傷して障害を持つ身となり武士を断念,医学を学び,本間家の宗祖となった。江戸に出て,次いで常陸の水郷,潮来に移り「自準亭」を開き,代々医業とした。四代目道意は更に潮来より小川村へと移り住み,五代目玄琢は歴代の医師の中でも特に優れた逸材で,水戸藩に医学研究所の創立を願い出て許され,六代藩主の命名による「稽医館」を創設した。稽医館は藩当局の指示を受けて西洋医学を研究するなど,当時の地方には珍しい医学研究所として発展していった。玄琢は稽医館創設などの功績により藩医に列せられた。玄調の実父,玄有もまた稽医館の運営発展に尽くした功労者で,七代目道偉もまた稽医館の研究体制の中心人物となり,庶民救済としての活躍はめざましく,郡宰小宮山風軒の推薦で十人組上座表医師に抜擢された。八代目が玄調で若くして「家学」を学ぶなど医師として立つのに十分な環境が備わっていたのである。

(二) 徳川斉昭と玄調

  斉昭は光圀,原南陽以来の水戸医学を更に進展させ,医療と厚生に力を注いだ人物である。彼は教育改革を行い,一大藩弘道館を設立したが,ここに文館,武館とならんで医学館を併設,調剤,製薬の諸局を療養所,養牛場,薬園などが設けられていた。当時に於ける最高の「医学の府」のひとつということができよう。玄調は,後召されて斉昭の侍医として,医学館教授として活躍するのであるが,かかる藩主に寵愛されたことは,玄調を大きく成長させてゆく上で,多大な力となったことは想像に難くない。

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3.荒川保男:虱に賭けた40年の生涯                           佐分利保雄

  荒川保男は明治26年會律に生まれ,大正 6年東京農業大学を卒業した。大正11年ユタ州立大学に入学,昆虫学を専攻し,大正14年に卒業,理学士の称号を得た。大正15年,南満州鉄道鰍ノ入社,農事試験場公主嶺支所,熊岳城支所の病理昆虫科にて,主としてコロモジラミの研究に専念し,千数百枚におよぶ学位請求論文を完成させ,休暇を得て,帰省中,平町(いわき市)四倉海岸にて急逝した。40歳であった。先輩,僚友,遺族によって、この論文を「衣虱の研究」と題する単行本とし,満鉄の奨学資金により自家出版された。その内容をみると,東北人のねばりに西洋人の合理主義が加わり,繰り返し行われた実験のデータがそのまま記載されており,読むに難渋するほどであるが,60年を経た今日でも,この本が他の研究文献に引用されており,北隆館の「衛生昆虫」にもその図版が掲載されていることは,彼の業績が高く評価されている証拠であろう。

   221頁のうち, 158頁は生態学的研究に,22頁が解剖生理,18頁が病原体の媒介に,残る頁はケジラミなどの記載に費やされている。

  彼は日本を代表するしらみの研究者であったが,序文にもあるように「天彼に貸すに幾ばくの余命をもってするならば,学会最高の栄誉を担い得たであろうものを…」まことに惜しいことであった。熊岳城分場長,渡辺柳蔵らの論文刊行委員により,一周忌にこの大著が出版され,世に出たことは,ご遺族の喜びとともに,後学者の為に大いなる遺産を残したと言うべきであろう。

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4.ペスト残影シリーズ その8 ライン川中流域に「ペスト残影」を求めて            滝上 正

 第3回本大会で発表した後,さらにライン川中流域で確認できたペスト残影について紹介したい。
 
  一つの疾病について各地に多数の記念ないしは残影を認めるということはペスト以外には見られないことで,ペストの被害の深刻さ,それから逃れたいという人々の切なる願いをそこに見ることができる。

 1. Bonnの市内にあるキリスト磔刑の石塔は1666年の当地方のペスト流行時にペストから回復した一夫妻が感謝をこめて建てた塔である。またボン大学医学史教室には1729年ローマで発行された健康証明書が保存されている。ペスト流行時旅行者が市門に入るときこれを提示して許可を求めた。

 2. Bad  Honnefの一部落においては1666年に流行のペストでは12人しか生き残らなかった。そのうちの 2人が感謝のしるしに建てたというアンナの小祠がその部落内にある。また生き残った町の人々が感謝して,St.Servatiusに捧げた同名の礼拝堂が町外れの山の中にある。

 3. Andernachはペスト医師J.winterの生誕地であり,彼の名を冠したWinterMuseumがある。またここには小さなペストの塔も見られる。

 4. Bingenの Rochuskapelle は町当局が1666年流行のペスト鎮圧をペストの守護聖人Rochusに願ってかなえられ感謝をこめてRochusbergに建てたものである。堂内の主祭壇には聖人Rochusが祭られ,また側廊にはペスト祭壇がある。

 5. Eifel火山帯の中央部,Totenmaarの湖畔にあったWeinfeldの部落は16世紀前半のペストの流行で壊滅し,今そこには無人の礼拝堂と墓地のみが残っている。

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5.ケガレの思想の歴史的展開                             杉田 暉道

 ケガレは日本人特有の宗教感覚である。歴史事典には「罪も禍も皆同じくケガレで悪霊の仕業と考える」とある。ケガレをもう少しわかり易く説明すると,たとえばわれわれが日常使っている,自分の茶のみ茶碗を自分の子供に「これは私が20年使っていたもので,熱湯消毒したから全く汚れていない。それでお前にやろう。」といっても,子供は喜んでこれを受け取らない。この感覚がケガレである。

   ケガレの思想は古くから存在し,すでに古代インドの『マヌ法典』(AD 2世紀に成立)にその記述がみられる。すなわち出産,性交,排泄行為,経血,死などの根源的な生命現象によって生ずる身体の12種の物質およびこれに関係した職業を,ケガレが生じる強力な源とした。この思想は『古事記』,『祝詞』にみられる。

   『古事記』では「いざなぎの命は,ウジのわいたいざなみの命(いざなぎの命の妻)の死体を見たためケガレた体になるが,清めの儀式を行うことにより,日本の主要神が生まれた」とある。仏教が日本に伝来すると殺生戒の思想が広まった。これが平安時代の後半期では疫病が流行り,大寒冷が起こり,もののけの思想が特に貴族の間に浸透した。したがって一般大衆は現世を穢土であると考えるにいたった。さらに源信が『往生要集』を著わし,末法思想と浄土・穢土との関係をわかり易く述べた。

   このためケガレの思想は殺生戒の思想をとりいれ,急速に一般民衆の間に広まった。かくして朝廷は時には「天下触穢」の布告を出し,穢れを消すために陰陽師を使って種々のタブーを出した。さらに触穢は甲穢,乙穢,丙穢に分けられ,死穢に触れた者は甲穢として30日間,その人間に接触した者は乙穢として20日間,その乙穢の者に接触した者は,丙穢として10日間,その丙穢の人間と接触した者は 3日間神社に参詣してはいけないというような規則もできた。

   ケガレの中でもっとも重いケガレは,死者の死穢であった。そして死者の死霊もケガレているが,死後33年〜50年経過すると死霊は浄化して氏神になると考えた。したがって死者の葬儀を全く行わなかった。これを初めて行い死者を救済したのは鎌倉時代の新興仏教の祖師達であった。これが今日まで続いているのである。

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《医学会だより》                              日本医史学会神奈川地方会

 わが日本医史学会神奈川地方会は,医学の歴史を研究してその普及をはかる目的で,平成4年5月16日(土)に川口良平県医会長をお招きし横浜市医師会館内で結成総会を開き,以後 5ヶ年間,以下の如き活動をしている。

1. 総会と幹事会,総会は毎年 2月に開催しており,平成 9年度の会員数は114名である。幹事会は春秋 2回開催し,学術大会の準備,会務運営等について協議している。

2. 学術大会,毎年 2月と 9月に学術大会を開き,一般口演と特別講演を行っているが,近来一般口演の申込みが多くなり,本年 9月の大会では特別講演を見送った。

  なお, 9月の大会は,日本医史学会本部の月例会と共催の形をとっている。これにより9月の案内は全国にくばられている。

3. 発行物,学術大会の抄録を 1年分収録した「地方会だより」を発行している。これには年次報告,会計決算書,同予算書,役員名簿,会則も収載している。

  「地方会だより」の他に, 2年に 1回を目途に会員の名簿を作り配布している。

4. 人事,地方会発足から 4ヶ年間,大滝紀雄先生が会長をつとめられ,平成8年2月以降は杉田暉道先生が会長となられ,大滝紀雄先生は名誉会長となられた。幹事は現在のところ10名である。

5. 外部団体への協力,神奈川医学会は勿論のこと,横浜市総合医学振興財団,横浜市中央図書館等の事業に協力し,主として郷土の医学史を中心に講演や執筆活動を幹事諸氏にお願いし,好評をえている。

6. 医師会々員へのお願い,医史学は決して老人の趣味で取組む学問ではなく,若い時代から学べる学問で,そこから汲みとる成果は,今後も日常診療の姿勢に大変役立つので,ふるって入会していただきたい。
 

7. 最近の活動から。

 a)平成 9年 9月27日の学術大会の演題

  1) 本間玄調(棗軒)について                            荒井 保男   衣笠 昭
  2) 鎮将府日誌 (その2) 〜太政官日誌との併読〜                  中西 淳朗
  3) 荒川保男,虱に賭けた40年の生涯                          佐分利 保雄
  4) ペスト残影 (その8)ライン川中流域に「ペスト残影」を求めて      滝上 正
  5) ケガレの思想の歴史的展開                                       杉田 暉道

 b) 8月末に,横浜市立大学一般教育委員会から,『横浜と医学の歴史』が刊行された。この本はシリーズ・一般教育のひろばNo.12として発刊されたもので,15人の執筆者のうち12人が当会の会員である。従来の歴史書とは異なり,横浜の近代医学形成に働いた外国人医師の事蹟からはじめるなど,医学生でも面白く読める工夫が加えられている。一読をおすすめする。                    (幹事長 中西 淳朗)

―神奈川医学会雑誌 第25巻・第1号 (平成10 年1月1日)―
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参考事項(役員並びに会則)

日本医史学会神奈川地方会役員

会   長     杉田  暉道
幹事長      中西  淳朗
幹   事     荒井  保男    大村  敏郎    衣笠  昭(会計)  河野  清    滝上  正
            佐分利保雄    深瀬  泰旦    真柳  誠          山本  徳子
監   事     家本  誠一    大島  智夫                                                                                                                                [50音順]
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名誉会長    大滝  紀雄
                                             [第4期:平成10年2月〜平成12年1月]
 

日本医史学会神奈川地方会会則

第1条(名称)          本会は日本医史学会神奈川地方会という。

第2条(目的)          本会は医学の歴史を研究してその普及をはかるを目的とする。

第3条(事業)          本会は第2条の目的を達成するために次の事業を行う。
                          1)総会
                          2)学術集会
                          3)その他前条の目的を達成するために必要な事業

第4条(入会)          本会の趣旨に賛同し、その目的達成に協力しようとする人は、会員の紹介を得て会員となるこ                            とができる。

第5条(会費)          正会員は年会費2000円を前納する。

6条(役員)              本会は運営のためつぎの役員をおく。
                             会長1名、幹事長1名、幹事若干名(うち会計1名)、監事2名。任期は2年とし、重任は妨げ                               ない。

第7条(名誉会長、顧問)  本会は名誉会長、顧問をおくことができる。
                                   任期は会長の任期に準ずる。

第8条(会計年度)      1月1日より12月31日をもって会計年度とする。
                            [平成4年5月16日議定、平成8年2月17日改定]

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