<今なお暗い影を落とすサリドマイド渦>

 サリドマイドが発売されて50年以上の月日が流れたにもかかわらず、サリドマイド薬害で苦しむ人々にとってはなお苦難の日々が続いている。日本ではサリドマイド薬害事件といえば過去の事件とされているともいえる。しかしながら、サリドマイド被害者とサリドマイド(商品名コンテルガン)を製造した製薬会社の戦いは、決して終わってはいない。それを裏付ける事実として、英国ガーディアン紙のレポート(The Guardian14/11/2014)記事やサリドマイド薬害に関する公聴会が、2017年2月15日にドイツのボン地方裁判所で開かれている(Asia Net 67389, Kyodo Tsushin PR wire)。
本稿では、サリドマイド薬害裁判がどのような訴訟経過をたどったのか及び製薬会社グリュネンタールは、いかにして刑事責任を免れ得たのかを、上述ガーディアン紙の記事をもとに辿っていくこととする。

サリドマイド:何千もの人生を奪った人々は如何にして裁きを免れたのか The Guardian 2014年11月14日
Harold Evans Thalidomide: how men who blighted lives of thousands evaded justice

サリドマイド薬害は、戦争被害を別にすれば人類が作出したもっとも深刻な人体に対する被害である。20,000人の障害児と80,000件の流産を生じさせたからである。このたびサリドマイド薬害に関する、特に製薬会社グリュネンタール社の不法行為について、新たな証拠が発見された。これらの証拠によりサリドマイド薬害事件は、製薬会社とドイツ司法制度により歪められ、薬害事件をより重篤化させたことが判明した。

新証拠は英国サリドマイドトラストの調査員らにより発見され、ドイツ・北ライン-ウェストファリア州の保管庫に埋もれていた膨大な資料による。これらの資料は、英国のインス国際法律事務所で精査され、その結果当時西ドイツであったドイツ連邦政府が、司法・行政・立法府それぞれに政治的な干渉を行い、三権分立を脅かしていたことが判明した。

 胎児への薬の脅威が証明されて半世紀以上も経っているというのに、最初の悲劇を引き起こした製薬会社は、今なおサリドマイドの処方販売を南米の一部で継続している。それにより1960年代に被害者が生まれたと同様に、被害者は絶えないのである。 

サリドマイド薬害裁判は、1968527日、アーヘン近郊のアルスドルフで始まった。被告となったのはサリドマイドを製造したグリュネンタール社従業員である。この裁判は、被告に対する処罰感情の強さからニュールンベルグ軍事裁判を彷彿させるような大規模な訴訟に匹敵するとされた。なぜならこの薬害により死亡し、または死を待つしかない乳児の数は何千にものぼったからである。一方で生存している乳児を抱える家族は、民事訴訟を提起したが刑事裁判が優先されたため、救済支援を得るには何年も待たされることになった。

被告グリュネンタール社は無罪を主張した。すなわち障害奇形と薬剤の因果関係を否定し多数の障害児出生は神のなされた業である、と陳述したのである。そして

グリュネンタール社は裁判の影響により保険料が引き上げられることを懸念し、化学メーカーとして、政治と密接に結びついた支援をこっそりと受けていた。

北ライン-ウェストファリア州の担当検察官は、会社の捜査に対する組織的妨害があることに気づき、同社の「バンカー」(隠し倉庫)と顧問弁護士のもとにある書類を差押え・押収せねばならなかった。

差押え押収した5,000症例履歴の検証には6年を費やした。その中には妊娠中サリドマイド剤を服用し、障害児を出産あるいは流産した母親の記録や、サリドマイド剤の副作用のひとつである回復見込みのない末梢神経障害にり患した成人男女の履歴が記載されていた。被告人である従業員9人の冒頭陳述書は972ページ、原告側証人351人、技術専門家29人、証拠資料は70,000ページに及び、共同原告は400人であった。

公判は鉱山内敷地にあるカジノを思わせる、この地域最大の場所で行われた。700人近い傍聴者はその空間を埋め尽くした。裁判は毎日、障害児の母親らがなぜ自分の子がこんな目にあうことになったのかを知りたいと希望を寄せるなか、5人の裁判官(3人は職業裁判官、2人は在野の弁護士で構成されていた)、科学者、新聞記者や証人らが、赤十字の看護師に付き添われた3人の障害児のそばを行き来した。 

公判廷でグリュネンタール社は争う姿勢であった。検察官の数を優に超える40人の同社弁護人らは、裁判遅延を生じさせることに尽力した。また彼らは何度も退席をほのめかしながら、公判廷を威嚇した。同社は12日間でのべ18人の弁護人を通じてグリュネンタール社に悲劇が待ち受けると警告したハンブルグの小児科医、Widukind Lenzの重要な証言に揺さぶりをかけたが、失敗に終わった。週3回行われたこの裁判は少なくとも3年はかかると評価されていたが、実際はそうではなかった。

1970128日、アーヘン地裁は刑事訴訟法1532項により訴訟手続きを打ち切った(関西法学第63巻 第3号)。裁判官は打ち切り理由について、検察官からの明示的な承諾を得ていると述べた。被告9人は、サリドマイド剤服用により胎児死亡や乳児の催奇形性の結果を生じさせたという過失致死罪と傷害罪の事実で起訴されたが、地裁判断により将来的にも刑事的に免責された。*なお過失行為と結果発生の因果関係が最大の論点であるにも関わらず、裁判官は一切その点に触れることなく「公益性」の観点から当該裁判を打ち切ったのである。

障害児の多くは四肢障害のみならず内蔵にも合併症を有し、また視覚障害を持つ子供もいた。そのような2,554のドイツ被害者家族は沈黙を強いられるのみだった。障害児の親たちには、連邦政府とグリュネンタール社によって考えられた僅かばかりの補償金しか手立てはなかった。それは被害者よりはるかに加害者たるグリュネンタール社を利する手段であった。

正義のため優先すべきは、刑事裁判で巨悪の責任追及をする一方で、政府は被害者支援を行うことであったはずである。1962年当時の西ドイツ社会民主党(SPD)はそれを唱えたはずだったが、自らが政権についたのち(1966CDUと連立、1969FDPと連立を組んでいた)この主張を忘れてしまった。

その代わりに生じた出来事といえば、怒号が飛び交う中で目撃者が証言供述し、醜いシーンに証人が耐えている一方で、真の訴訟活動はどこかに行ってしまった。今回英国のサリドマイドトラストが依頼した調査員が発見した文書には、本件刑事手続きの中で政府に対する干渉があったことが記載されている。

1969721日の書類には以下のことが記されていた。すなわちグリュネンタール社の取締役と同社弁護人らは連邦保健省の官僚と密談していたのである。本件公判では主要な被告人の出廷が健康上の理由により免除されていたが、この人物は当該密会の場に出席したのみならずその他の会合にも参加していた。この免除された主要被告人こそグリュネンタール社の創始者、Hermann Wirtz であった。彼は71歳、五児の父親であり、アーヘンの地元では名高い敬虔なカトリック教徒の慈善家として知られていた。これらの密談や会合に原告及びその代理人の姿はなかったし、その密談の存在すら知らされていなかった。

この7月の密談のフォローアップとして918日の会合内容が次のように記載されている。連邦政府の4つの省庁は、「全体的な紛争解決手段」を議論し、訴訟終結に向けた高度に政治的な介入をすべきことで一致した。

また公判における最大の利益相反者は、Joseph Neubergerであったとこの文書には記載がある。彼は自身の法律事務所Neuberger, Pick and Greevenのパートナーであり、グリュネンタール化学社と顧問契約をしていた。196611月、彼は個人的にグリュネンタール創業者のWirtz の弁護を引き継いだたにもかかわらず、その3週間後の196612月には訴追側である検察官をコントロールする地位を得た。

一体何かあったのだろうか?当時西ドイツでは、ドイツ社会民主党(SPD)が自由民主党(FDP)と連立政権を組むという政界再編があった。この政変によりSPD党員であった

Neuberger1966年から1972年まで、北ライン-ウェストファリア州の司法長官に就任したのである。長官職に就く3日前、彼は検察官に自らのクライアントであるグリュネンタール社に対する追及をしないことを要求する書簡を送っている。そこには「私は個人的に、執行行為(訴訟打ち切り)に対する義務を負っている」と記されていた。

また彼が司法長官就任の宣誓をした日の午後の最後の仕事は、アーヘンで検察官と面会することであった。再度彼はWirtzに対する検察の追及をやめるように頼んだ。Neubergerは検察官にWirtzの顧問弁護人を辞めたことを告げ、司法長官職に就任すると述べた。しかしその際彼は自らのグリュネンタール社に対する主張をまたしても展開し、繰り返した。彼の個人的な関心はWirtzと会社を守ることにあり、司法長官就任後もなおそれに執着していたといえる。

19702月、検察当局は訴訟打ち切りに関し、可否二通の書面を準備した。それに先立つ126日、グリュネンタール社は秘密会談での成果が功を奏しつつあることを検察に持ちかけていた。その「成果」の内容は、もし2,544家族が損害賠償請求訴訟を断念するならば、グリュネンタール社は1億ドイツマルク(2700万アメリカドル)を基金に対し拠出するという提案だった。しかしながらこの提案には政府とグリュネンタール社の間で取引があったことや、訴訟打ち切りに関することがらは一切言及されていなかった。被告であるグリュネンタール社の位置づけは、被害者家族に対する配慮のひとつとして憂慮すべきものの一つに組み込まれた。同社は提案が受け入れられないならば、刑事裁判を続け、それから民事訴訟を提起し、控訴するつもりである、と述べた。もしグリュネンタール社の思惑どおりならば、これらすべての解決を見るには少なくとも10年を要するであろう、そしてその間被害を受けた子供たちは一切の補償を受け得ないのである。

ところで、訴訟打ち切りに関し刑事訴訟法の観点からもうひとつのアプローチが模索された。今回公開された文書には非公式な議論が進んでいたことを示唆するものがある。その文書は、訴訟打ち切りに対する検察官の異議申し立てが添えられた草稿を含む。日付はないが状況から19702月であると推察される。ただ一つ訴訟打ち切り推進の議論はあったものの、検察側としては刑の免除はありえないと考えていた。訴訟終結が早いほど、被害者は民事賠償請求を早期に提起できるわけだが、もし被告側に過失が認定されなければ、補償金も減額されてしまうことになるからである。

その文書は裁判打ち切りのためには、次の3要件を充たす必要がある、と説く。

第一に、裁判打ち切りが明らかに公益にかなうこと。

第二に、被告の罪状の程度が軽いこと。

第三に、服用により「重大な身体的危害を招来した」

上記要件はドイツ連邦刑事訴訟法153条の構成要件にあてはめて、訴訟終結を導き出すものと考えられる。

この文書において、上記二つの条件はどちらも充足されていない、と結論付けているが、仮に上記二条件が充足されていても、第三要件である「深刻な身体的危害を招来した」という事実の認定が未確定なままでは、訴訟打ち切りには至りえないはずである。

ではなぜ検察官はNeubergerに対する報告で、訴訟打ち切りに対する同意をしたのであろうか。州検事Josef Havertzは、「Neuberger長官就任後、すべてが悪化した」と述べた。さらに「一州検事に過ぎない私は、当時書類のなかで溺れかかっていた。昨年ようやく若い二人の検事がアシスタントとして赴任したが、彼らは私に背を向け、被害者を裏切っていた」、とも述べている。

州検事Havertzのいうところの「裏切り」には2つの意味こめられている。まず、訴訟を無価値化させたことである。いかなる社会においても何千もの乳児が死亡している事実や、障害児の招来及び成人に対して重篤な神経障害を生じさせたことを無視できるはずがない。次に当該裁判が訴訟打ち切りによって判決が下されなかったことにより、障害児の両親らの損害賠償請求の主張も封ぜられたことである。それゆえドイツ政府はWirtzとその配下の検察官らの訴訟からの解放を了承しただけでなく、ドイツの納税者が被告であるグリュネンタール社の代わりに、税金で補償金の大部分を支払うことにした。

加えて障害児の両親らは民事訴訟も終結させるよう圧迫を受けた。政府とグリュネンタール社の秘密会談により持ち上がった救済スキームは、各障害児に対して生涯受け取る補償額を平均22,000ドルと算定していた。これは被告側の主張のわずか10%しか認められない額であった。この算定額はその後40年もの間改定されることなく運用されていたが、政府は2008年から2013年にかけて思い切った二段階の改定をし、もっとも重篤な被害者には月額6,691.2ドルまで支給の引き上げを行った。しかしその財源はドイツ政府が拠出しており、グリュネンタール社の負担部分は3%に満たない。

英国サリドマイドトラストは、今回発見された資料を「Conterganスキャンダル--当時サリドマイドは、西ドイツではこの商品名で販売されていた」の調査委託をしている、北ライン-ウェストファリア州保健省に提供するつもりであると述べている。保健省は、当該調査はWilhelms 大学Munster校によって実施され、地域の国家当局の行為に焦点を当てて行い、その結果は2015年に報告する予定であると発表した。

サリドマイドトラストのMartin Johnsonは、今回発見された資料に関し連邦司法省の姿勢に対し厳しい非難を向けているが、司法省はこれに対するコメントを拒否している。同氏は、「我々は北ライン-ウェストファリア州の行動を歓迎する。しかし我々はまた当時訴訟妨害で主要な役割を担った連邦政府にはその理由について明確な回答を求める。このことは現在なお障害で苦しむ被害者のためだけではなく、グリュネンタール社のサリドマイドで命を落とした数千の子供たちのためにも資するものである。サリドマイドの悲劇は戦後の西ドイツにおける最大・最悪の犯罪である。我々は正義の裁判が行われなければならず、その遂行を見届けなければならない」と述べた。

そもそもグリュネンタール化学社は、Wirtz家がラインラントの小さな町シュトルベルグに拠点を置き、医薬品業界では新参者だった。戦前、同社は石鹸や香水、洗剤などを製造していた。しかし戦後1946年、Herman Wirtzがグリュネンタール社を創業して以来、32歳の科学者Heinrich Muckterの指揮のもと6人の科学者や技術者を雇い入れた。WirtzMuckterはナチス党員だった。それは戦後のドイツでは決して珍しいことではなかったが。ここでWirtzの会社グリュネンタールで特筆すべきは、ナチスの強制収容所で実験していた科学者を揃えていたことである。非常勤取締役会長は、Otto Ambrosで神経ガスサリンの開発者であり、アウシュビッツI.G. FARBEN(戦前ドイツの化学産業を独占した企業連盟、独占禁止法で市場寡占を生じさせるとして禁止される企業結合形態であるトラストである)工場の建設を担当した。Ambrosはニュールンベルグ軍事裁判で懲役8年の刑を言い渡されたが、アメリカ軍の化学兵器部隊に支援を要請され、4年の刑期に短縮され釈放された。

Muckterはチフスワクチンの効果を確かめるため、ポーランドの強制収容所で人体実験を行った。その多くは死亡したが、彼はポーランド検察当局からうまく刑事訴追を免れた。

そしてグリュネンタール社には、Dr. Martin Sttaemmerも所属していた。彼はナチスの人種差別政策である優勢学・衛生学を推進した幹部の一人だった。彼ら科学者は同社に属することで、たぐいまれな野心を抱いていたわけではなかった。一方で顧問弁護士としてグリュネンタール社の弁護活動をしたNeubergerは、ユダヤ人である彼はナチスに対してまったくシンパシーはなかったはずであろうが、戦前ナチスによる迫害を逃れるためイスラエルに移住し、戦後ドイツが奇跡的な復興を果たすと「ドイツのために」戻りナチスの集団からなる同社の弁護人となった。

もっとも、戦後西ドイツのどさくさともいえる状態は、サリドマイドの悲劇が生じても不思議はなかったであろう。あるスウェーデンの監視団員は、このドイツ経済の復興ぶりを、商業的成功には神聖な権利があるとの極めて傲慢な信念で成し得る、と唱えた。ドイツにはNeubergerメダルといわれる、ユダヤ人を助けた非ユダヤ人に贈呈される栄誉があるが、これこそこの信念の象徴といえるだろう。ちなみに2008年にメルケル首相はこの栄誉に輝いた。

このような状況下、WirtzMuckterはサリドマイドを妊娠中のつわりや、不眠症の特効薬とうたい、OTC薬として錠剤と液剤の形態で販売したのである。その結果、市場撤退を余儀なくされるまで、サリドマイドはドイツ国内でバイエル社のアスピリンに次ぐ売り上げ第二位の薬となった。 

また、サリドマイドが市場から撤退することになる19611127日まで、WirtzMuckterは大規模な販売促進により世界52か国にサリドマイドを広めた。宣伝文句は「完全に無害で、驚くほど安全、痛みを取り去る妊婦や授乳中の母親の服用も子供への副作用はなく問題なし」という全くの虚偽広告であった。グリュネンタール社は、胎児に対しいかなる影響があるのか全く検討していなかったのである。のちに彼らが唱える常套句「50年代にいったい誰が副作用の危険発生を予見できたのか」、という反論はナンセンスであり、繰り返すほど低俗になった。

ところで、胎児への障害が疫学的に証明される以前に、グリュネンタール社の主張は排斥された。というのは、鎮静剤としてサリドマイドを服用した成人の深刻な末梢神経障害の副作用が明らかになったからである。1959年になるとグリュネンタール社はドイツの医師やサリドマイドを扱う代理店から、この副作用について次々と報告を受けるようになった。それに対し同社経営陣はいつもこう反論した「このようなことは聞いたことがない」と。

しかし医学論文は無視できなかった。最初は196012月、British Medical Journalに掲載されたサリドマイド(英国での商品名はDistaval)による末梢神経障害4例の報告であった。Muckterはすでに同様の症例を150例把握していたが、売り上げに比例した収入を受け取っていたため、英国の代理店に「どっしり構え、売り上げ増加にまい進するように」と説いた。またこうも言った、「西ドイツだけで、毎日百万人以上がコンテルガンを飲んでいる」そしてさらに「それは時々出現するアレルギーのことを言っているのだ。薬を止めればなくなるよ」。これもまた嘘であった。経営陣により副作用の報告は粉飾され、覆い隠され、ときに賄賂を使ってお世辞を流布し、クレイマーを排斥した。グリュネンタール社は、このような者たちの調査活動にも熱心であった。それはエッセンの私立探偵Ernst Jahnkeに指示して行われた。Jahnkeは、グリュネンタール社に批判的な患者や医師を監視したのであった。そしてグリュネンタール社はサリドマイド問題について否定し、問題解決を遅延させるのが常套手段であった。ドイツとオーストラリアの医師がサリドマイドとそれによるむごたらしい結果発生の間には因果関係がある、と主張するまでグリュネンタール社は異常出産に対し何らの措置も取らなかった。今般英国サリドマイドトラストにより発見されたアーカイブファイルの文書には、同社が裁判中であるにもかかわらず、問題となっているサリドマイドを販売し続けたことを示す証拠資料を含んでいる。すなわち19611127日にサリドマイドを市場から回収したが、グリュネンタール社はその時から少なくとも6週間まえには、サリドマイドの毒性についてすでに関知しており、その間妊娠中の女性数千人を危険にさらしていたという指摘がなされていた。

ところで英国サリドマイドトラストにより回収されたファイルには、Dr.Gunter von Waldeyer-Hartzによる告発状が含まれている。彼は大学で化学を専攻し、グリュネンタール社のサイエンスセールス部門でトレーニングを受けていたが、それはちょうど市場からサリドマイドが回収される6週間前であった。196915日、彼の公表した証拠は裁判で開示されない可能性があったので、彼は北ライン-ウェストファリア州と連邦の連絡担当大臣、Dr.Posserあてに書留で書簡を送付した。その内容は、「私たちはサリドマイドの包装箱を見せられた。そこには、妊娠中の女性は服用禁止、というステッカーが貼ってあった。経営陣は遅くとも10月半ばまでには、子宮内部に副作用が生じることについて知っていた。何ら疑いなくそのような薬剤販売を継続するという判断は、私からすれば営利目的があり、犯罪である」というものだった。さらに、かれは4人の証人の名を挙げた。1969126日付Havertz検事のメモによれば、1968年春もしくは夏には刑事大法廷でDr.Waldeyer-Hartzの証人尋問申請をしたはずだったが、結局実現しなかった。 

Neibergerの訴訟打ち切り決定を受諾した裁判官らは、有罪とも無罪とも判断しなかった。しかし結論において、主要な争点はすべて法的に証明されたと述べた。すなわち、サリドマイド服用により、末梢神経障害を引き起こすことは予見可能性があり、多くの化学物質は胎児に有害であることは公知の事実である。グリュネンタール社には副作用を生ずるかもしれないと予見可能であったにもかかわらず、結果を回避する義務を怠り過失が認められる。

そしてこのような重篤な結果を生じさせたグリュネンタール社は、当時の基準に照らしても責任非難を免れるべきではなく、サリドマイド服用に際し誤解を生じさせ、許しがたい違法行為である。この後にも非倫理的、妨害的等同社を厳しく糾弾する文言が羅列されている。

しかし、いかなる理由からか、その後裁判官らは前言を翻し、グリュネンタール社は刑事免責となった。酌量すべき事情があったのだろうか。裁判官らは被告人らの個人的な苦しみに同情すると表明した。連邦法規制の欠如により、残念なことに、過当競争のために非倫理的な商慣行が広まってしまった。グリュネンタール社は自ら進んで貧困にあえぐ被害者のために私財を投げうってかなりの貢献をしているのである、とも述べたのであった。

そして刑事免責決定がなされたことにより、グリュネンタール社は刑事免責というカードを徹底的に利用した。それは自らが作出した悲劇を拭うための絶好の言い訳カードであった。訴訟打ち切りのおかげで、同社には何ら責任がないと言い張った。我々は当時の一般的な製薬業界の基準に従っていた以上、我々に違法性はなく単に不運だっただけだ、と説いた。この主張は、彼らがいかに理論づけようが、ピノキオの鼻の延長にすぎない。彼らは1958年に科学的供述書において虚偽の供述をして以来、この主張を崩していないのである。

もっとも1940年代半ばから胎児毒性の研究は、製薬会社でルーティンとして行われていた。1970年の同社の最後の発言のなかではドイツの裁判官も薬物が胎盤に達しうることを認めている。また、催奇形性における鎮痛剤とサリドマイドの直接的な競合作用が検討され、その結果は論文で公表されている。「医薬品製造者に求められる真摯かつ良心ある行動基準に、グリュネンタール社は総じてあてはまらない」と裁判官は述べた。

そうはいってもスウェーデン、スイスを除いた多くの国では政府も司法も被害者たちを羊飼いダビデが巨人ゴリアテに挑む闘いのように、圧倒的不利な法廷闘争のなかに置き去りにした。保護者達は手持ちの武器が限られているにもかかわらず、巨大・不滅の製薬会社に対する不安に対峙する義務が増大していった。

オーストラリアとニュージーランドにおいては、オーストラリアサリドマイドトラストKen Youdaleと弁護士Peter Gordon201312月にグリュネンタール社に対して提起したクラスアクション(集団訴訟の一形態、日本では認められていない)で勝訴するまで、100人の被害者が40年のあいだ何らの支援もなく、苦難を強いられていた。100人の被害者のためにサリドマイド販売委託代理店であった英国の多国籍企業Diageoは基金として自主的に8800万ドルを拠出したが、グリュネンタール社は支払いを拒否した。

 またカナダではいまなお100人の被害者が今日も悲惨な生活を送っている。なぜなら彼らは高齢化し、障害がより負担を加重しているからである。さらにはカナダでのサリドマイド委託販売代理店Richardson-Merrellや政府からの補償金は底をついている。バスタブに入れるのはストレッチャーで体を誰かに持ち上げてもらえる時だけ、というカナダ人女性被害者の映像は見るに耐えない。

 一方サリドマイドが1965年まで販売されていたスペインでは、グリュネンタール社に対しスペインサリドマイド被害者の会(Avite)が同社を相手に闘い続けている。180人の被害者のために提起された訴訟は、いまなお結審しないのである。20131121日車いすで出廷した原告らは障害の重要度に応じて賠償金を支払え、という勝訴判決に沸いた。しかしそれもつかの間、2014年の控訴審では損害賠償請求権の請求権消滅時効を理由にその判決は覆された。現在Aviteは最高裁に上告中であるが、それには多額の資金が必要である。

サリドマイドの紛れもない被害者Juan Carlos Velez44歳)は、マドリッドの石畳のこぎれいな街角に帽子を上向けて座っている。彼には差し出されたコインを受け取ろうにもその術がない。なぜなら彼には手がないからだ。

 グリュネンタール社はアーヘンに緩和ケアのための基金を創設したことにより、自らの道義的義務を果たしたと思っているかもしれないが、それは欺瞞である。世界中の被害者の何の慰めにもなってはいない。300人のスペイン被害者会(Avite)メンバーは、ローマ法王フランシスコ1世が、グリュネンタール社創業者Herman Wirtzの息子Michael Wirtzに対し祝福をしたことに憤りを隠せない。Michaelはもはや執行役ではないが、かれこそ傲慢不遜なグリュネンタール社の象徴とみなされている。2014年、アーヘンに創設された基金の記念式典において、同社はサリドマイドについては一言も言及しなかった。教会区のHeinrich Mussinghoff司教は、ローマカトリック教会における、一般市民の最高栄誉である

St.Sylvester勲章をMichaelに、授与した。このようなことからもAviteはこの受賞の取り消しを法王に請願している。ただ、法王フランシスコ1世の故郷はアルゼンチンであるが、法王は故郷の人々の苦しみをお救いにはならないのだろうか。

 アルゼンチンではいくつかの製薬会社がサリドマイドに対し厳しい販売制限を課してこなかったため、数多くの第二、第三世代の被害者がいると考えられている。Nacional de Meckamenの記録(2066)によれば、少なくとも2000年ころまでグリュネンタール社がThalidomide Cassaraという商品名でサリドマイドを販売していたことが示されている。

8つの異なるメーカーがサリドマイドを製造しており、そのうち6社の製品は病院処方に限られている。しかし残りの2社、グリュネンタール社製ともう一社の製品は、処方箋さえあれば入手可能であった。すなわちだれもが近くの薬局に行けばサリドマイドを買えた。パッケージには警告はあるが、いったん手にすれば転売や、友人・家族も服用可能になる。

 またブラジルではサリドマイド使用が病院での処方に制限されていた1997年から2005年の間は、被害が1例のみ報告されているが、2005年から2008年の間にこの制限が骨抜きになっていたため、5例の被害報告があった。

 サリドマイドはその効能として多発性骨髄腫の患者の延命や、ハンセン病の症状を緩和することは判明しているが、その作用機序は未だ不明である。またサリドマイドの特許は切れていることから、何百万錠ものサリドマイドが生産され、闇で取引されている。ただ、闇市場の業者は妊婦の服用リスクよりもその潜在的価値に重きを置いているようだ。Eclamcに所属するラテンアメリカの小児科医たちは、100人の障害児の存在を把握しているが、そのほかにも膨大な数の罪もない被害者がいるのではないかと疑っている。なぜなら、彼らが把握しているのはラテンアメリカ全出生の1%にも満たないからである。新たな悲劇の兆候が懸念されている。

ジュネーブのWHO本部で201410月に開催されたサリドマイドの専門家会議では、疫学研究の強化が提唱された。このような科学者たちによる贖罪ともいえる努力は、巨大製薬会社に対する法王の残念な抱擁よりはましである。グリュネンタール社は刑事法廷において説明責任を逃れ、世界中の罪のない人々を痛めつけ苦しみを与えた責任を今なお否定している。

サリドマイド問題における報道の検証 に戻る
薬害ビジネス-その虚栄と破綻:米国における血友病HIV/AIDS禍の実態-