4年間

霞ヶ関の4年間はとても面白かった。日本のFDAで、Director Medical Reviewerとして、臨床試験結果の吟味が一人前にできるようになった。プロトコールの良し悪しもわかるようになった。生物統計の勉強もできた。クニリカルエビデンスの日本語版作成にも関与できた。ランセットにささやかな症例報告も載せられた。BMJで発表した仕事が、国際的な教科書にも載った。薬事行政の中に、たくさんの知り合いもできた。休日を利用して趣味の医学教育で全国を飛び回ることもできた。

そしてこれは特筆すべきことなのだが,大本営の中にあって,大本営を批判する記事を,いくら自分のホームページに載せても,大本営の中で,”面白いですね.よく読んでいますよ”と,評価の言葉を貰うことはあっても,記事を書くのを止めろという声は,ただの一度たりとも,どこからも聞こえてこなかった.

まともな批判精神を持っていれば,当たり前だというのは簡単だが,これだけの度量がある組織は,日本の中でも厚労省だけだ.その証拠に,自分の所属組織を,実際にその組織に所属しながら,名前を明らかにして批判することを容認できる組織が,一体日本のどこにあるというのか?そんな会社や官公庁があったら教えてもらいたい.

そうこうしているうちに、医師免許をとってから25年たった。一職場あたりの平均在職期間が2年半の人間が霞ヶ関に4年。年齢も五十を過ぎたおじさんが、9階の新薬審査二部では窓際の大きな椅子で、治験相談の席では向かって一番右の椅子で、いつも大きな顔をしていたのでは、みなさん、さぞかし迷惑だったに違いない。いくら図々しい私でも、それぐらいの心遣いはあったと思し召せ。はてさて、次はどこへ行こうか。

自分も五十を過ぎて、あと何年生きられるかわからない。でも、余命は、自分でコントロールできないことだから、思い悩むのは無駄だ。余命で思い悩むよりも、自分を必要としてくれるところで仕事をしたい。4年の歳月を経て、霞ヶ関は、もう僕を必要としていなかった。Director Medical Reviewerが辞めて3ヶ月たっても、PMDAは立派に機能していることが何よりの証拠だ。それは、僕が教育して人を育てたからに他ならない。だから、僕自身はお払い箱になって出て行く名誉を受けたられたのだ。

そう、いつも、僕は、自分を必要としてくれるところに場所を探してきた。埼玉県の重度知的障害者施設、上越の国立精神療養所、霞ヶ関・・・どこも、誰も行きたがらないところだった。誰か他に行きたい人がいるところには、興味がなかった。行きたい人が行けばいい。その人は願いが叶って幸せな気持ちで仕事ができるだろう。だから、行きたい人と競争してまで行こうとは思わない。

誰も行きたがらない職場に行けば、とても大切にしてもらえる。暖かく迎えてもらって、気持ちよく働ける。いい仕事をするために一番大切な条件が整っていることになる。

発達障害診療メモ

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