本邦における低体温症2011を読んで

2013-09-28

低体温症の発症は屋内が300例余と屋外の3倍で、中央値は75-79歳の間で、最頻値は80-84歳にみられた60余例であった。三分の二が同居者を持ち、半数強が完全自立であった。
寒冷暴露が明らかでない、88例では同居者が居るのが9割、自立は三分の一に減っているが、最頻値は80-84歳と同様だった。
熱中症と同じく、高齢者では体温保持が出来ないばかりか、環境を整える努力を怠り、低体温症も起こし得る。
胃瘻は不自然と言う声もあるが、熱中症や低体温症も、この様な背景をみるに、自然な末期とも取れるが、胃瘻と共通するのは、口から水分・栄養を自律的に取れない事で、体温調節も上手く行かないということである。 発見してしまえば、致し方なく、体外循環を用いた積極的な復温266例や気管内挿管149例を行っているが、これも強制された健康と扱うべきなのだろうか?


登山・難民・低体温症・奥克彦

2010-09-05

トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか(山と渓谷社2010 ISBN978-4-635-14014-0)は、嘆かわしい高齢者の群れが次々山で手折れる様を、低体温症を中心として註釈した本である。
やりたい事と出来る事の区別が出来るのが「大人」であるが、「高山病の症状でいつものこと」と登山した後いつも吐き癖のあるまま不十分な熱量しか取らない客を引かねばならない、そういう質の客が烏合するツアー登山の悲哀を描いている。
こうした様を見ると、「大人」になりきれない高齢者は、べつに山の上だけではなく、後期高齢者健康保険の仕組みを受容しなかったり、降圧剤や血糖降下剤の仕組みを受容しなかったり、空調を蔑視し使わなくて死ぬのも一緒であるように見える。共通点は加齢を認めず、人という駒は個別ではなく記号として同じと誤解して、過度の平等を身体能力の面でも健康面でも求める。
もちろんそれが強いられる場面もある。難民である。日本のソ連との戦役は夏に終わった。9月上旬まで続いた昭和20年の対ソ連戦は夏が終わると同時に幕を引く事が出来た。年齢や体力、事前の準備を峻別する事も無く、過度に平等を強いるのが難民の逃避行である。出来ないと思っても、やらざるを得ず、やって倒れてもそれも淘汰の沙汰であるとしか言いようも無い厳しさがまつ。
しかし、季節や国土の自然に依ってはより厳しい目に遭わざるを得ないこともある。
そして、トムラウシのこの本に、第一次湾岸戦争でのクルド難民の悲哀を、低体温症の事例として、金田正樹医師が挙げている。

90年の夏にクェート侵攻で始まったイラクの戦役は、91年正月多国籍軍に反撃に終わった。呼応してフセインに叛旗を翻したクルド族は、多国籍軍がクェート奪還だけで歩みを止めたために、フセイン軍の制圧により、冬のイラン国境・トルコ国境を越える、逃避行に移らざるを得なくなった。二百万人には乳児も含まれる。イラン側への国際緊急援助隊として金田医師も加わっていた。
そしてそのアシストとして、奥克彦氏が在イラン日本大使館と現地を結ぶ役を果たしていた。

大人用の1ベットに5名の赤ちゃんが寝ている。…ベットと身体の間にはゴム製のシートが引いてある。下痢の便とおしっこでびしょびしょに濡れている。背中に触ると冷たい。イランの看護師さんはオムツ替えもあまりやっていないし、難民の母親に替えのオムツなどない。
「死因は低体温症だ」と気がついた時には、もう十二名の赤ちゃんが亡くなっていた。
経緯を奥一等書記官に話し、オムツ用の布の購入をなんとかならないかと相談した。
「わかった。それはおやすいご用です。任せてください。とりあえずテヘランから紙オムツを送るように手配しましょう」
沐浴、紙オムツの使用は、低体温症を予防し、赤ちゃんの回復を早めた。(トムラウシ山遭難はなぜ起きたのか第四章P153-156)

濡れると冷える、乾けば暖かい。人情と逆なのが体温である。そういう良識常識も持たない大人が山に入る事自体が、人災である。だれが引き起こしたかと言えば、大人になりきれない「高齢者」一人独りの愚かさが山になって起こしたとしか言い様が無いし、難民にならなければ失われなかったかもしれない12名の赤ん坊の命も同じだろう。平和な地上に戻ればICUやNICUで集学的に救命することもあるかもしれないが、失われないように予め愚かな行為を行わない事が大切である。


トムラウシ山遭難事故 調査報告書[pdf]・救急医学会hypothermiaSTUDY2011報告書[pdf]・胃瘻へのパブコメ


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