今となっては、文字はおろか、動画まで簡単にやり取り出来るが、共産党が支配していた戦後の大陸からの気象通報も途絶えた中での、戦後の気象予報。昔、授業で教わった時はNHK第二で気象通報を天気図に起こすのも大変だったが、それもモールスからやっていたという昭和30年代に、電算機を入れ、電算機に気象を理解させるための数値モデルを戦争の間から用意してきた先人には頭が下がる。
天気予報をリアルタイムで行うためには、情報処理技術の進化が必要である。
この本は、1960年代前半までの中央気象台=気象庁での、数値予報への取り組みを軸に語られている。
富士山レーダーなどの本は多く出されているが、気象(長期的な地球温暖化や放射能降下物の予測も含む)の分野ほど電算処理が早くから取り入れられ、応用に用いられている割に、気象に電算機が取り込まれた当時の話しを読む機会は少なかった。
コンピューターにはソフトをいれなければ只の箱だし、データーを収集しなければ、計算のしようもない。
予測式を立てるにあたっての基礎研究や、電信無電の創始期からの、情報処理についても、触れられている。
ただ、その後に起きた、測候のロボット化などについては言及はない。
天気を研究するには必要ないが、予測するには気圧等の測候記録を短い時間で収集しないと、翌日には間に合わない。
これが可能になったのは、電信網の整備が寄与し、さらに日露戦争で実用化された、無電技術が役に立った。
また、先んじて日清戦争に勝利していたので、台湾や中国大陸の領事館等での気象観測結果を電信で日本に送る事が、天気予想の経験値を積む上でも、その日の予想を立てるにも重要であった。朝鮮半島での測候も重要で、軍事の指揮伝達にも必要であったが、開戦後素早く朝鮮半島への電信網が敷設されている。
次の戦争として、日中戦争と太平洋戦争が書かれている。
海軍は比較的好意的であったらしいが、文部省の下にある中央気象台が軍事体制に組み込まれていない事に対して、特に陸軍が強硬に新体制に切り替えようと、様々な施策を巡らせていた。昭和16年には三千人の人員を外地を含めて抱える事になっていた。
自主独立を守る苦労とは別に、情報収集を高めるために、無電の拡充と海外放送の収集も新体制の一部として整備された。
その蓄積は、昭和16年の夏から、海外の天気予報に充てられることになった。当初、神戸海洋気象台に秘密の部署が設けられ、11月7日には、台長である藤原咲平に禁足令がだされ、北太平洋と比近海の天気予報を求められた。海外からの受電は上手く行かなかったが、連合艦隊と共に高気圧が移動し、真珠湾の成功に結びついた。
その後、気象管制が実施され、戦後まで予報は国民の耳に入らなくなった。無線模写電信(FAX)などの技術も投入され、軍も含めた気象関係者は増加を続けた、戦後の引き揚げに際して全員を受け入れ、1950年になって3割の解雇を余儀なくされ、労働問題を国鉄等と同じく引き起こしたらしい。
戦争に前後して、東大の物理学科に、気象の講座が設けられ、台長である藤原が教授として併任になった。
しかし、戦時体制に組み込まれ実のところ講義は出来なかった。そのため、正野重方高層気象課長が助教授として赴任した。ここから、気象を数値予想しようとするNPグループの理論確立が始まった。
後年、米国で名を成す、真鍋淑郎は「大気大循環について知る所を記せ」との設問に対して、数式四本をレポートとして提出したという逸話が残されている。もっとも、流石に正野はこれには怒ったらしい。しかし、それ程の数式が導き出せてこそ、数値予測は実用化出来た。
昭和29年夏、富士通が開発したリレー式計算機FACOM-100を富士通の工場で借用し、昭和28年5月の爆弾低気圧について、500hPa(高度5km程度)の等圧線を計算した。その後も、富士フィルムが作ったFUJICなどの借用を重ねながら、数値予報の有効性を検証していった。
昭和31年に気象庁という外局になるのに前後して、32年から3年間を掛けて、大手町の気象庁に、電算機のビルを建て計算機を運び込み予報を行うべく、予算が投じられた。
建物が二千万円弱、毎月のリース料が1300万円、国庫債務負担行為で2億円が投じられた。
施設を設けるだけでは動かないのが官庁である。必要な職制も用意しないといけない。先に触れた海外無線等の通信所を廃して、定員を電算機に振り向けるとともに、今まで無かった名前の仕事を人事を掌握する、行政管理庁に納得して頂く必要があった。今では説明も要らない「プログラマ」4名と、今では想像もつかない仕事「空気調整係」4名である。プログラマーには管理職がないのに、エアコンに係長が用意されているのが、驚くべき事である。電力も足らず、本庁の周りを囲む官舎では戸毎に煙突が立ち石炭を焼べていたのに、神田橋の変電所から、停電対策を考えループで専用の電力線を引いた。米国製の電算機に50Hzの交流は使えないので、60Hzの整流装置も必要だった。
最終的に納品されたのはユニバックではなく、IBM704であった。
選定の大きな決め手になったのは短語長付加装置により記憶容量を倍にできるので、細かい計算が可能になると言う点であった。
時期的にも電算技術の革新があり、機械語だけであったところから、FORTRANの誕生に気象庁の購入が間に合った。
教える筈のIBMの社員も初めての言語によるプログラミングを現場で試行錯誤しながら習得することになった。
米国から、25tトレーラートラックに載せられたままの船艙に収められた、電算機本体は横浜港で荷揚げされ昭和34年正月大手町へ運ばれ、年度末に引き渡された。10キロフロップスで32KBという性能は今の次元では小さな物だったが、神田橋の変電所の電気使用料は空調等も含めて、倍になったという。
昭和35年11月には数値予報の国際シンポジュームが開催された。その後は、技術史よりも人々を訪ね歩いた昔語りが書かれている。