国際保健と医療人類学

抄録

 健康は、幸福と密接に関わっており大変にとらえにくい。そのため、健康追求に深く関係する国際保健分野のイメージもあいまいなものとなっている。ここでは「健康追求=幸福追求」との陥りやすい過ちを避けるため、国際保健に「(幸福追求とは異なる意味での)健康追求の場」という一応の定義を与える。また、国際保健の現場から出る様々な問題を整理・理論化する研究分野にも目を向けるべきである。国際保健分野は複数の分野の横断的、重層的な側面を持っているが、それを「研究」と「実践」に大きく2分するモデルを提示したい。このモデルにより、活動者が国際保健において自らの進むべき方向性を有効に見出だすことができるだろう。

 さらに、国際保健に関わる際の基礎的素養のひとつとして、文化人類学を紹介する。文化人類学は複数の文化間に優劣を認めない「文化相対主義」に基づき、文化の比較検討を行う分野であり、「未開の奇習」を紹介したり、文化に合わせたより良い国際協力を模索することが本分では決してない。文化人類学は、当然に思われる日々の行動が社会文化の強い支配下にあることを明らかにするが、このような視点の導入が国際保健には必要である。その良い例が、中南米に居住するヤノマモ族が行う「女児殺し」である。文化人類学によると、女児殺しという現象は文化的なコンテクストを通して最も有効に読みとれる。人類学からの視点は、国際保健に携わる者が、よく言われているよりもさらに深いレベルで、イデオロギー同士の相克・相互作用とその結果ついて考え続けなければならないことを教えてくれる。

本文

1.国際保健の定義

 国際保健の定義は難しい。特に、オタワ憲章に見られる「ヘルス・プロモーション」という概念を採る場合には、全ての政策決定機関、ボランティア組織、産業、メディアを保健戦略に巻き込むことが要求されており、社会活動全体がターゲットになってしまう。そうでなくても、「単なる保健医療協力」を超える定義を国際保健に与えようとすれば、善意に基づくあらゆる国際活動がその範疇に入りかねない。それどころか、海外旅行などの善意とは関係ない活動や、戦争や難民虐殺などの「悪意ある」活動さえも国際保健に含めることが十分可能である(たいへん議論のあるところではあるが)。

 そして「単なる保健医療協力」などは存在しない。それは、「保健」が保健だけで存在し得ないからである。言い換えると、保健医療は個人・社会・イデオロギーに関するあらゆる事象と複雑に関係している。どのような分野も社会と連関しているが、国際保健は英語で言うや日本語で言う<幸せ>と密接に関わる分野なだけにより強く社会文化を意識せざるを得ない。

 このような事情から、国際保健に「人類全体の幸福を追求する分野」との定義を与える考えは根強いようである。しかしこれでは、カバーする領域があまりに広がりすぎてしまう。さらに、この定義は「幸福=健康」という思想(healthism)を導く危険があることを指摘したい。国際保健は健康の追求が核となるし、確かにWHO憲章に示された<健康>は、究極の幸福状態を現している(注釈)。

 しかし、それならば健康という語を用いる必要はなくなる。私は、<健康>を狭義にとらえるべきではないと思うが、同時にあまりに理想的にとらえることも避けるべきと考えている。健康とはある特定の状態を指すものでなく、ある種の主観的状態を表す。そして、健康は幸福と同値でもないし、幸福の一部でもない(健康ではないが幸せ、という状態はあると考える)。ともかく「健康問題は、どのコミュニティでも最大の問題である」との考えは、誤りであろう。

 話を元に戻す。いろいろ考えると国際保健に当てはまる定義などないのではないかとさえ思えるが、私は国際保健をあえて

  健康という視点を中心に据えて人類に寄与することを目的とした人々で構成される横断的分野

と定義したい。縦割りされた諸分野を横に貫く分野、だ。そして、横に貫いている一本の軸は<健康>という概念である。だから、健康を強く意識した活動であれば、国際保健活動と言える。同じ井戸掘りでもアルバイトでやる場合は国際保健的ではなく、健康追求のための井戸掘りは国際保健活動なのだ!この定義では、<国際保健>は従来の<保健医療協力>を超える。

 ここで、国際保健が追求すべき健康とはいったいどのようなものか?との問いが浮上する。この問いは、上の定義を採らない場合でも国際保健に関わろうとするあらゆる人が認識しなければならない。


2.国際保健のパースペクティブ

 国際保健活動は常に成功するわけではない。同じようなことをやったのに<成功>するプロジェクトと<失敗>するプロジェクトがあるのはなぜだろうか。

 さまざまな報告書・レポートでは「現地のニーズにあった活動をしなければならない」、「様々な価値観がある以上、一元的なものの見方を押しつけない活動が必要」、「机上の理念では役に立たない」といったことが叫ばれている。しかし、「現地のニーズに合」わせること、とか「一元的なものの見方を押しつけない活動」とは一体どのようなものなのか?。この問いは、誰もが考えるべきことであり同時に誰もが明確な答えを見出せないままでいる。そして、難しい問いであっても、それを連呼するだけでは問題意識は深まるだろうが解決を導くことにはならない。

 論点を整理しよう。国際保健活動の現場からは上の問いに代表されるような問題提起が出てきている。そのような問題提起は現場の体験から得られた生の声である。生のままで存在する体験の集合を基準に沿って整理し、それらの体験が持つ意味(さらにはメタファー)を解釈し、普遍性を持つ<理論>としてまとめ上げ現場へと還元する作業が必要なのではないだろうか。そのような作業を「学問」と言う(少なくとも私はそう考える)。「国際保健学」とでも言うべき分野の必要性はここにある。

 さて、上で<国際保健とは健康を軸にした横断分野>と書いた。この定義では、国際保健は複数の分野が重層的に関係する分野となる。いや、上の定義を採らなくても「国際保健はポツンと独立に存在する」などと考えることはできないだろう。そして、その複雑さ、重層性が国際保健のイメージをあいまいにし、自らの位置と役割を不明確にしていると私は考えている。国際保健の有機的なつながりを単純にモデル化することは包括的な理解を妨げる危険があるが<位置/役割>を見通す助けとしてあえてモデルを提示したい。

 「国際保健分野マップ」(図参照)では、国際保健を「研究」と「実践」に大きく分けている。この図では、研究分野として上で述べた「国際保健学」を置いている。国際保健研究は、疫学、保健医療システム論、医療人類学の3つの主要分野と多くの関連分野から支えられている。ここで大切なのは、これらの分野は国際保健に大きく貢献しうるものであるが、国際保健(または保健医療)のための学問ではない、ということである。だから、これらの分野で活動するものが<国際保健>を必ずしも意識している必要はない。国際保健が横断的分野である以上、当然のことである。

 国際保健活動を行う場合、このモデルにおいて自分がどこに位置づけられるのかを考えてみると、自分の進む方向性を明らかにする助けになるだろう。位置づけがあいまいなままでは、自分が全ての分野に関わらねばならないような錯覚に陥るかもしれない。しかし、位置づけが明確であれば、自分が得意とするスタンスに立ってその分野を進みつつ、同時に他の分野との連関を考えることが可能であろう。「国際保健には一分野に凝り固まったスペシャリストよりも、ジェネラリストが必要だ」とはよく聞くが、ここで求められているジェネラリストとはこのようなものであろう(全てに精通している、ということなく)。

 また、研究と実践がはっきりと独立することはない。現場の実践から得た体験が研究を支え、研究が導いた理論が現場での有効な実践に活かされる、そのような双方向性が必ず存在し、また存在しなければならない。理論なき実践や実践を目的としない研究もあると思うが、そうでないものもあってよい。また、研究と実践は離れて存在するとも限らない。例えば、文化人類学における民族誌のように実践から研究への方向性を担うものや、医療システム論のように研究から実践への応用を目指すものもある。


3.文化人類学的視点の導入

 ここで、国際保健研究の基礎分野として医療人類学を紹介したい。とは言っても、医療人類学は国際保健の一分野ではなく独立した分野だから、活動の際の<基礎的な素養>といったイメージでとらえるべきだろう(国際保健への応用を重視する立場もある)。なお、医療人類学は文化人類学と呼ばれる分野に属する。

 文化人類学は、最も広い意味での文化を分析することにより(哲学と異なる手法で)人間活動を研究する。この分野の特徴は、文化の持つ価値体系や概念の<比較>を中心に据えた分析を行う点であり、比較する際のベースとなる考えは「文化相対主義」である。例えば「未開の文化を持つ人々の生活は、大昔の人々の生活を現している」との考えがあるが、これは「未開の文化は近代文明より劣っているから、(現代人より劣っている)大昔の人々の文化を現しているのだろう」という進化論的な文化観に基づいており、文化相対主義では<西洋文明が最も優れていると判断する合理的根拠は何もない>として斥けられる。つまり、文化相対主義とは、文化の優劣を判定する価値体系自体が判断者の文化に内包されている以上優劣は付けようがない、と見るイデオロギーである。

 文化人類学への伝統的な最大の誤解は、「文化人類学は、異文化−特に<未開>の地域−の習慣を観察する学問である」というものだ。実際、人類学のテキストは我々とは大きく異なる、奇異にさえ思える<奇妙な>習慣をおもしろおかしく紹介したものが多い。著明な入門書でも、未知の風習の持つ科学的な合理性を解説してみせるだけだったり、第3世界の文化だけをターゲットにしたものがある。これらは確かに文化人類学の主要な成果/側面ではあるが、全てではない。2、3年の長期間にわたり、一つのコミュニティに潜り込んで人々の生活形態、文化、概念を調査して民族誌にまとめていく「参与調査(フィールドワーク)」と言われる手法や、現代医療が我々にもたらす行動/概念の変化を調べたりするなど、この学問がフォローする分野は極めて広く、手法も多彩である。

 今、「行動/概念」と述べたが、文化人類学はこの2つを並列させない。例えば、住民の医療に関わる行動は何らかの疾病概念やその他の概念によって支配されている、との立場をとることもある。宗教戦争を考えてみてほしい。正しいことだ、と思って行った行動が、自分の属する文化で<正しい>とされているに過ぎないことも多いのだ。精神病の定義を考えれば、「病気かどうかを判定する根拠は文化レベルの価値体系であることも多い」との意見は、よりすんなりと理解できる。

 国際保健分野へ文化人類学の視点を向けてみよう。消化器疾患による乳幼児死亡が多いあるコミュニティで、井戸が共同トイレのすぐそばにあり、それが病因らしいことが推測できたとする。私たちの多くは、「衛生教育がしっかりしていれば病気にならないのに」と思うだろうが、その考えそのものに「細菌、微生物が病気を引き起こす」という近代生体医学の疾病概念が含まれているのは間違いない。私たちがそのような概念を持つことは自由だが、「消化器疾患を抑える」との目標を立てた場合には単純に概念を適用できるとは限らない。人々に<病原微生物>などというイメージがない場合に、自分の考えをまくしたてても有効でないし、そもそも現代衛生学的な方向の「啓蒙」をするのがベストなのかも分からない。このような多元的な視点を積極的に導入することや、異なる概念が形を変えて受容されたり逆に排斥されたりする様子を観察した成果を応用することで、より有効な対策が可能かも知れない。


4.文化人類学の目指すこと

 ただし、文化人類学は有効な対策を考えることが本分ではない。文化の姿や文化同士の相互作用を観察・記述・理論化するまでがその本分であろう。ここでは、中南米に居住するヤノマモ族を例として文化人類学の一端を示したい。

 ヤノマモ族は人類学者による系統的な調査が最も進んだ民族であり、好戦的なことで知られる。ヤノマモ族の男女比は有意に男性が多く、好戦的な亜族ほど男性比は極度に増える(比率260:100)。この事実は、好戦的なほど男性が減少するはず、という予想に完全に反する。この問題に文化人類学者が結論を与えた。口減らしのための女児殺しが行われていたのである。男性をより多く必要とする好戦的な集団ほど女児殺しが盛んであった。そして、女児殺しという慣習は、男児を殺すよりも有効な人口抑制をもたらす(それを意図しているかどうかは別にして)。ここで女児殺しは単なる手段を超えて、社会的な人口抑制装置として働いている。一般的にはどのような殺人にも人道的問題が付きまとうが、文化人類学者は、この問題への価値判断を行ってはいない。

 ところで、女児殺しがそのコミュニティで受容される背景として、強い男尊女卑思想とそれに密接に関連する好戦的な性質がある。好戦的な亜族ほど戦士としての男子が必要とされ、男尊女卑も強まり、女子の比率が減るのである。

 結局、女児殺しはヤノマモ族のイデオロギーに支えられた行動であり、これはもはや文化による殺人と言える。今、私は<文化による殺人>という概念を提起したが、医療の現場でも胎児の中絶や脳死の問題等があり、この概念は決して「未開の地域」に限ったものではないと思われる。

 このコミュニティへの国際保健的アプローチを行うとして、女児殺しの問題をどう価値判断するべきだろうか。単純に食糧援助をして女児殺しをやめさせることが解決策であろうか。食糧援助と女児の保護は、人口増加を確実にもたらす。そして、<文化による殺人>を否定するためには、今ある文化を否定する必要がある。文化の否定や改変を単純に非難はしない。ただ、そのような行動がもたらす意味を考慮する姿勢が必要である。

 ここで、国際保健は、<文化による殺人>にどう対応すべきなのだろうか。第1節で提出した、<国際保健が追求すべき健康とはいったいどのようなものか>という問いとあわせて考えると面白いかも知れない。

 文化相対主義から導かれる視点は、私にとって新鮮であった。しかし、文化相対主義に従って行われた観察すらも、観察者の主観からは逃れられないはずだ。この矛盾について、ある文化人類学者は次のように述べている。「文化人類学は、文化についての客観的情報を提供するのではなく、我々が彼らをどのように捉えているか、つまり我々の<文化>の一部を暴露しているにすぎない。したがって異文化の分析は、自分が所属する社会の<文化>についての分析を同時に意味するのである」 (太田 好信:1994,『人類学のコモンセンス』17ページ)。文化人類学は、自文化理解の場でもあるのだ。

 はるか昔スフィンクスが問うた難題の答えは「人間」だった。そして、現代の文化人類学は、<人類とは何か>という問いを鋭く投げかけている。


謝辞
 筆者は医療人類学学生機構(SOMA;そーま)というちょっと気取った名前の集まりに参加している。このこぢんまりとした研究会のメンバーである土谷恵子(産業医科大4年)からは、多忙の中、議論の方向性に関する貴重な助言を頂いた。SOMAの顧問をお願いしている医療人類学者の池田光穂先生(熊本大文学部)は、準備不足で狼狽していた筆者に議論展開その他の重要な示唆を与えて下さった。さらに、SOMA代表である井手康史(佐賀医科大学4年)は、ほとんどこの発表論文の共著者として言ってよいほどの貢献をしてくれた。ともかく、SOMAなしにはこの発表はあり得なかった。以上のような極めて有能な人材が集まった九州の地に生まれ育ったことを誇りとしたい。

 また、この発表の機会を与えてくれた国際保健研究会主宰の高山義浩氏には、原稿の遅れにより迷惑をかけてしまった。

 以上の人々に、心からの感謝の念を表し、結語に代える。


(注釈)世界保健機関憲章 前文(1946)

健康とは、単に疾病や虚弱がないことではなく、身体的、精神的、社会的に完全に満足のいく状態を指す。健康は人間の基本的権利であり、到達可能な限りの高度な健康水準を達成することは、全ての人間の基本的権利のひとつである。

 非常に有名な健康の定義である。一般的に考えられている、病気がない状態としての健康ではなく、精神的社会的な状況にも注目した点で当時は画期的であったと思われる。個人を社会的なコンテクストからもとらえようとする文化人類学的な視点は、以後の宣言には頻繁に登場する。

 また、個人の健康の実現を社会の責任として明記し、「個人の健康権」とでもいうべきものを提唱している。健康が人権の一つとして取り入れられたわけだ。その意味でもこの憲章は影響が大きかった。例えば日本国憲法25条は、健康実現を「国民の権利・国の義務」として定めている。これは、憲法作成に関わったGHQ幹部がWHO憲章の強い影響下にあったためではないかと推測される。ともかく、大戦後に制定された各国の憲法には、「健康権」が取り入れられているところが多い。大戦前には、そのような憲法を持つ国はソビエト連邦一国だったことを考えると、WHOは創立時から健康・保健に関するイデオローグとして機能していたと思われる。

 ただ、この健康概念は理想的すぎて現実にどのような状態を指すのかが明確でなく、次の3つの問題点が指摘できる。

 まず、病気があっても<健康>な状態の存在を否定している。<障害を持った人の健康>は本当に存在し得ないのだろうか?<健康>が主観に左右されることを考えると、単純に割り切ることはできない。

 次に、現実に適用困難な定義ゆえに、医療従事者に軽視された側面があると思われる。その結果、医療者の健康概念が旧態依然としたもの(「病気を治せば健康になる」など)に留めた面はないだろうか?

 問題点の3つめは一番大切である。WHOという権威ある機関が<健康>を簡明に定義づけたため、この定義が一部の医療保健関係者にドグマッチックに信奉され、言葉を連呼するだけで健康を理解した気になってしまうことはないだろうか?実際、保健に関する多くの日本語文献は<健康>についてWHO基準を大きく取り扱っているが、それ以外の健康概念の存在に深く言及したものは少ない。なお、米国の公衆衛生に関する講座では、この点での議論が盛んであると聞いている。

 理想主義的な健康のイメージは、<幸福>とオーバーラップしてとらえられるので、健康を司る?保健医療の追求と幸福の追求を同じものと見なす思想(保健の宗教化)を生むかもしれない。


 

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