沖縄を訪れて

私は,2000年3月の1週間,沖縄を訪れました。以下は,あるMLに投稿した旅行の感想をHP向けに一部加筆修正したものです。ですます調になっています。私からみなさんへ出した手紙と思って読んで下さればと考えています。


先月の沖縄は私にとって2回目の訪問でした。初回もそうでしたが,今回の訪問でも大きな精神的影響を受けました。あの影響を表す熟語としては,「啓蒙」(enlightenment)がもっとも適切であるように思われます。旅の感想としてこの言葉を使うのは珍しいのでしょうが,琉球の文化・気風・風土に触れ,それらを少しなりとも吸収した1週間は,目の前が明るく開かれる思いの連続でした。まさに蒙(くら)きを啓(ひら)くと言った感じです。

例えば,気候。私が訪れた3月中旬は,寒が緩み若葉が芽吹く時期,ウチナーグチ(琉球語)で「うりづん」と呼ばれる季節です。私は九州に生まれ育ちましたので,それなりに「暖かさ」というものを経験しているのですが,うりづんの暖かさは何というのでしょうか,単に寒さが緩んで春と交代するようなものではなく,圧倒的な包容力を伴っていました。窓から吹き込んでくる風も,空の色も,水のぬるみもすべてがやさしさに満ちており,胎内にいるかのような安心感を覚えるのです。沖縄の人々の卓越したホスピタリティはつとに有名ですが,この気候の下で生まれ育てば心が広くもなるだろうと何度も思いました。なにせ暖かさが目に見えるのですから。

文化も素晴らしいものでした。滞在中は,琉球大学の友人が何かとお世話してくれましたのですが,その友人の尽力のおかげで,伝統芸能(組踊)を観劇する機会に恵まれました。琉球大学の伝統芸能保存会にお邪魔することもできました。内地ではほとんど触れることのない芸能であり,ある種の異国情緒を感じるのではないかと予想していました(実際南方系の文化ですし)。が,観ていて心地よく,予想された違和感をまったく覚えませんでした。自分は心情的に南方,特に東南アジアに近いのだと実感でき,将来の活動地を考える上で意味の深い体験でしたね。交易を土台として培われた琉球芸能は,独特のリズムを特徴としており,内地の伝統的な上方芸能よりもずっと親しみが持てたのでした。

さて,沖縄を語るときに戦跡は外せません。私は「ひめゆりの塔」と「旧海軍司令部壕」を訪ねました。正直言いますと,「ひめゆり」にはあまり心が動きませんでした。それは,小学校の社会科から現在読んでいる新聞にいたるまで何百回となく吹き込まれた,紋切り型の「反戦平和」に飽きてしまったからなのかもしれません。観光地としての「ひめゆり」からはそんな印象を受けました。少女たちがけなげに軍に奉仕して死んだ事実が,戦中には「奉公は命より尊い」との軍国主義のプロパガンダに利用され,戦後には「命は何よりも尊い」「教え子を戦場に送るな」との教訓に早変わりする,表紙は変われども使われ方は同じなんですね。

個人が抱く感想は定型化できないわけですし,ある事実をイデオロギーで味付けして食卓に並べる旧来の手法には,もはや賛同できません。マンネリ化した思想教育は,学生たちを飽きさせてしまい,それとは異なる方向の思想に目新しさを覚えさせる危険性もあります。昔ながらの国粋主義を叫んでいるに過ぎない小林よしのりに,陳腐な定型化のにおいを感じることができない若者たちを育てたのは,学生を飽きさせる戦後民主主義教育ではなかったでしょうか。大いなる皮肉です。

それはさておき,「旧海軍司令部壕」は,みなさんにぜひ訪れていただきたい戦跡です。ここはガイドブックで小さくしか扱われておらず,観光客もあまり訪れません。確かに,沖縄を守備した日本軍の防空壕があるだけの何の華もない施設です。しかし,蟻の巣のような壕の内部を歩き進むうちに,どうしようもない重苦しさがおおいかぶさってくるのです。口を開いて感情を表現することが許されないような厳粛な雰囲気を感じ,普段は饒舌な私も黙り込まざるを得ませんでした。旧海軍壕の主役は,玉砕を見据えつつ戦った将兵と軍の要求に黙々と応えた県民です。いずれも今は亡き存在ですが,旧海軍壕には彼らの残留思念のようなものが色濃く感じられるのです。有名な「沖縄県民斯ク戦ヘリ」の電文が打電された通信室,壁に鮮やかに残る自決の弾痕。感傷をそそる能書きなどどこにもありません。

妙な味付けをされていない生の歴史を目の当たりにし,私の心はかつてないほどに混乱しました。軍国主義に殉じた将兵は立派だったし,同時に,そのような戦争を憎む心も正しいと思われるのです。単純な価値判断を下すことなど不可能です。戦争の暴虐を前に,私は強い憤りを抑えられませんでしたが,振り上げた拳をどこにおろすこともできませんでした。

見終わって地上に出ると,うりづんの風が私を包みます。こんなに心地よい沖縄でかくも悲惨な戦争が行われたのだと思って,少しだけ涙が出ました。自分らを攻め立てた米軍による支配を受け,返還後の今なお基地を間近に見ながら生活する日々。同時に,基地なしでは立ち行かぬ経済。文化にも戦跡にも触れた今,沖縄人の複雑な心境を察せずにはいられないのです。

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みなさんも旅でこのような「啓蒙」的衝撃を受けたことがあると思います。旅からどのような感想を得るかは純粋に個人の感受性の問題であり,受けてきた教育や専門知識はあまり関係ないと思われます。感受性を磨く過程では,世界旅行であれ何であれ,旅先の文化風土に排外主義的な違和感を覚えないことが基本なのでしょう(もっとも原初的な意味での「文化相対主義」でしょうか)。私は,旅先で出会う人々の営みの中に,「親和的な異質性」とでも呼ぶべきものを見てとります。彼らは自分と違うのだけど,自分だってそこに生まれ育てば同じ文化風俗に染まったに違いないという確信ですね。いつか書くつもりでいる(苦笑)ラオスの報告書は,今はまだ言葉にできないこのような思いを明晰につづったものとしたいのです。

今回の旅では,首里城へ向かう道すがら,琉球大学の友人が語った言葉が強く印象に残っています。次に要約します。

「沖縄の人は自分たちを日本人とはあまり思っていない。沖縄人と自覚しており,戦争にせよ開発にせよ内地の人間がやってきていろいろやっているという感覚だ。自分も最初沖縄に来たときは,『沖縄人』という概念も,基地がどうのという運動もよく理解できなかった。でも,住んでしばらく経った今ではそういった話がすんなりと理解できる。この独特の感覚は,遠くから沖縄を眺めているだけの内地人にはわからないだろう」

そうなのでしょう。沖縄は確かに特殊なのです。しかし,それは内地の人間が時々勘違いするように特別な歴史をたどってかわいそうとかそういった話ではなく,私らと違う文化を持つだけのことです。そして,この場合,「違う」ことは何の価値判断(=上下優劣の判断)ももたらしません,少なくとも私には。

感想はこんなところです。司馬遼太郎であれば私の経験したことをもっと上手に表現できるのでしょうが,ともかく「行って良かった」と心から叫びたいですね(実際に部屋で叫んでますけども)。同行した後輩が「沖縄は第2の故郷になるでしょう」と言ってました。同感です。それもこれも,琉球大学の方々が内地では考えられないレベルの心遣いをしてくださり,一般観光客では目が届かない生の沖縄を紹介してくれたおかげです。

良い経験をするのに海外に出る必要は必ずしもないのですね。単なる散歩でも得るものがあるか(例えば志賀直哉の『城之崎にて』),沖縄で感動するか,肌の色が違うところまで行って分かるかは,やはり「感受性」という能力の問題なのでしょう。

「沖縄県民斯く戦へり」


 

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